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1000年後の日本を考えることの意義

2013年12月01日 23時14分 JST | 更新 2014年01月31日 19時12分 JST

『新華経済』が掲載していた「1000年後の日本は『国家』ではないかもしれない―中国メディア」という記事がいろいろ興味深かったので、これについて少し。

1 記事の紹介

『BWCHINESE中文網』によると「東北大学グループは、現在の状況が続くと1000年後の日本は国家ではなくなっているかもしれないと予測した」そうです。

「アベノミクスは一定の効果が出ているが、債務残額は国内総生産の239%に上り、先進国で最高となって」おり、更に「高齢化が日本列島を覆い、イノベーションを失い、国力の後退は免れない」そうです。

「6年間で7人の首相が誕生したのも、立ち行かない国の状況を反映して」おり、「バブル崩壊とともに長期低迷に陥り」、「『失われた20年』になり、いまだに明るい光は見え」ず、「その間に、日本が優勢を誇った産業は韓国や中国に追いつかれた」としています。

結果「国際信用格付け会社も日本国債の格付けをA+に下げ」、「日本が『東洋のギリシャ』になるかもしれないと」いう声も聞こえるそうです。

その理由が「かつて世界トップに立った製造業では、多くの企業が過去の栄光にあぐらをかき、その成功法則から抜け出せず、世界の変化に追いつけなくなった」ためで、「1990年代のIT革命」では、「半導体、コンピュータ、ソフトなどが国家の競争力を決める」たが「鉄鋼や自動車などで成功した日本は、ソフト分野においては米国の先行を許した」としています。

2 成功体験

記事の内容としては、一理なくはありません。特に最後に「成功法則から抜け出せず」というところは、私自身もその通りだと思っております。

「二匹目のどじょう」というと笑い話ですませる人が多い様ですが、人は良くも悪くもかつての経験を元にして生きているので、かつてうまくいったといったとなると、どうしても同じことをやりたくなります。

実際、成功するためには今までと同じように努力するというのは、誰からも批判を受けにくく、失敗する可能性は低いと考えてしまうのはわからないではありません。

ただ、これだけ時代が変わって、新しいものが出てくると、どうしても以前と同じことをやっているだけでは、「成功」しないわけですが、新しいものを柔軟に受け入れるというのは(年をとってくると特に)簡単なことではありません。

3 1000年後の国家

それと元記事を読んでもあまり良くわからないのですが、「1000年後の日本は国家ではなくなっているかもしれない」というのが、かなり興味深く思いました。

おそらく元記事の意図としては、このままいくと日本は大変なことになってしまうという意味で書かれたのかと思います。

しかし、政治学を学んだものとしては、近代「国家」はウェストファリア条約後に初めて成立したもので、それ以前には存在していなかったわけで、「主権」とか「領土」などという概念もそれ以降のものにすぎません(元外務省局長が尖閣諸島は「日本固有の領土」であることを否定)。

そのため、「国家」などという形態が今後何百年持つかという話で、実際中国紙が掲載していた記事ですが、1000年前中国という「国家」が存在していたのか、「領土」はどうだったのか考えてみると面白いと思った次第です。

4 領土紛争

日本と中国と言うと今は防衛識別圏の問題でいろいろありますが(自分たちで設定した防空識別圏で、苦悩する中国)、こうした領土問題も1000年後から見ると「どうかな」とふと思ってしまった面もあります。

今日があっての明日なので、1000年後等考えても仕方がないのも事実です。ただその一方で、今をどうするかを考えるのも大事ですが、あまり今だけを考えるのもどうかという話で、ある意味「森」と「木」の話になるのかもしれません。

そういう意味で、外交だけでなく、日本の将来ということを考える際にもう少し遠くを見るのもたまには悪くないかと思ったが故の今日のエントリーでした。

(※この記事は、2013年12月2日の「政治学に関係するものらしきもの」から転載しました)

日本の歴代内閣総理大臣