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夫の死から学んだ「ひとり」

2017年08月16日 14時51分 JST | 更新 2017年08月21日 18時52分 JST

私は2014年に夫を亡くしました。

病気ではありません。事故でもありません。自死でした。

その背景はともかく、その後の生活が「ひとり」との戦いでもあり、また、癒しでもありました。

当時、私は36歳でした。夫とのあいだに子供はいません。夫は私の一回り年上でした。この状況下の私は、お互い共通の友人や夫の職場の同僚の方々からとても多くの助けをもらいました。

亡くなって間もない頃は、日替わりで誰かが自宅にやってきて、夫との思い出を語り合い夜通し飲み明かしました。そこに涙はありません。その場にいないひとの噂話をする、ごく普通の飲み会そのものでした。

私の身の回りのことと食事の世話をしてくれた友人、私の誕生日に自宅まで来て深夜まで騒いでくれた仲間、「仕事のついで」とかこつけて遠方から顔を見せに来てくれた友人。彼ら彼女らのおかげで私はひとりではないんだということと、夫がいかにたくさんのひとに愛されていたかを痛感しました。感謝の言葉しかありません。

夫と知り合う前から、私はひとり旅やひとり飲みなどを常としていました。自分なりにひとりで過ごすということを好意的にとらえていました。きょうだいがいないせいもあり、子供の頃からひとりには慣れていた方だと思います。

もちろん友人や仲間といることがイヤというわけではありません。それなりに協調性もあるほうだと自負もあります。

そんな私が本当の意味で「ひとり」ということを、夫の四十九日法要が終わった頃、身をもって感じました。

孤独、悲しみ、苦しさ、絶望そんなものではなかったです。絶対的にひとり、ということでした。

たとえば、スーパーに買い物に行く。カートを押しながらどっちのトマトがおいしそうかとしゃべっているカップルがいる。ひとつだけにしなさい!と母親に注意されている、お菓子を手にした幼子の顔。

そんな会話をする相手がいなくなった、そんな情景を一緒に見る相手がいなくなったという事実が「絶対的にひとり」という現実をつきつけてきました。

愛する人が亡くなる。その現実をはっきりと受け止めた瞬間の連続でした。

それからしばらくしてもありがたいことに声をかけてくれる友人が私には何人かいました。

なるべく彼ら彼女らの気遣いに応えようと、呼ばれた先には出向くようにしていました。

それが礼儀、もしくは義務かのように。(乱暴な表現ですが)

私自身、無理をしていることは十分自覚していましたが、ひとりで自宅にいたくないということもあり、なるべく誰かといるようにしようと思っていました。

ところがこれが逆に淋しさを助長させているということに気づきました。夫の一周忌が過ぎた頃です。

大勢で楽しく話していても私はひとり。友人とバカ笑いをしていても私はひとり。その楽しい時間に、いつしか私は入り込めなくなっていました。

ただ、そのことが悲しいとは思わなかったです。むしろ少し安堵したことを覚えています。

みんな私を気遣ってくれてありがたい、だけど私は「ひとり」を実感・体感しないといけないんだ、夫が亡くなった現実と向き合ってなおかつ生きていかなきゃいけない。私を気にかけてくれる友人たちのためにも、そうしなくてはいけない。はっきりと私は気づきました。

そしてこのことに自ら気づけたことが、ある意味、自分を解放させたようにも思いました。開き直る、ということでしょうか。

私と同じ境遇の方が、最愛の方を亡くされたあとをどのように過ごされているかはわかりません。

時間の流れ方や心境の変化などは千差万別と思います。

ただ、私自身は、この状況をきちんと正面から受け止めようと決めました。

朝起きて一人分のごはんと弁当の支度して出勤する。

途中、同僚の家庭のグチを聞く。

退社してまた一人分の夕飯の支度をしてお風呂に入りベッドに入る。

翌朝起きて支度をして・・・。

この単調な生活の繰り返しこそが生きるということだと思いだし、極力無理をせず、だけどルーティンとして手を抜かないようにこなしました。文字通り、ひとりで。なるべく友人と会うことも避け、静かにひとりと向き合う時間を作りました。

そしてこれを繰り返すうちに、不思議と涙を流すことはなくなりました。

もちろん、夫のことはことあるごとに思い出します。

亡くなって数か月は、なぜ私を迎えに来ないのだろうと嘆いていましたが、毎日同じ時間に食事を摂り仕事をするということを繰り返すうちに、私はまだ生きたいんだということに気づくことができました。

いつになるかわからない迎えを待つ間、私はもっといろんなことができるはず。助けてくれた友人たちに恩返しをするためにも、自ら命を絶った夫のためにも、自分のためにも、まだまだ生きなくてはいけない。しかもしっかりと。そう思えるようになりました。

昨年はひとりで外国にも行きました。

街中を歩くカップルや親子をみても恨めしく思うこともなくなりました。

やがて、ひとりはいいな、ひとりは気持ちいいな、そこまで感じるようにもなりました。夫と知り合う前の、ひとりを楽しんでいた私に戻ったようでした。

愛する人たちとしか見られない景色があるように、ひとりでしか見られない景色もあるはずです。

亡くなってまもなく丸三年になるいまも、私は変わらないルーティンで生活しています。

しかし少しずつ心は変化してきました。

恋をしたい、また誰かを愛したい、そう望むようになりました。

これも、「ひとり」を自分なりに理解して体感して向き合ってきたからこその願望だと思います。

「ひとり」だからこそ、「だれか」を想う。

その「だれか」と出会うまで、私は存分に「ひとり」を楽しもうと思います。

この私の思いがどなたかのよすがになれたなら、とてもうれしいです。


hitori

ハフポスト日本版は、自立した個人の生きかたを特集する企画『#だからひとりが好き』を始めました。

学校や職場などでみんなと一緒でなければいけないという同調圧力に悩んだり、過度にみんなとつながろうとして疲弊したり...。繋がることが奨励され、ひとりで過ごす人は「ぼっち」「非リア」などという言葉とともに、否定的なイメージで語られる風潮もあります。

企画ではみんなと過ごすことと同様に、ひとりで過ごす大切さ(と楽しさ)を伝えていきます。

読者との双方向コミュニケーションを通して「ひとりを肯定する社会」について、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

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