キャロライン・ケネディが大使になれば、日本の男女格差は改善するか?

アメリカは男女平等を重視する社会なので、男女格差が大きいイメージの日本を「遅れている」と見下す傾向があるのだ。

先日、キャロライン・ケネディが次期駐日大使に選ばれるとの観測記事を目にして、興味深い選択だと思った。それ以上に驚いたのは、アメリカのマスコミが最初に目を付けたのが、彼女が女性であることが、「女性の地位が低い」と思われている日本に好影響を与えるのではないか、という点だったことだ。

こうした報道の裏には、アメリカ人にとって日本は「女性の地位が低い国」というイメージが根強いことが挙げられる。アメリカは男女平等を重視する社会なので、男女格差が大きいイメージの日本を「遅れている」と見下す傾向があるのだ。確かにアメリカと比べたら、会社でマネジャー職にある女性は日本ではまだ少ないし、女性の政治進出も限られている。アメリカ人のビジネスパーソンが日本を訪問すると、日本の会社ではプロフェッショナルな女性が少なく、お茶汲みをしている女性社員が目立つという印象を受けることがある(アメリカのホワイトカラーの職場ではありえない)。 また、在米日本企業のセクハラ訴訟が大きなニュースとなってマスコミを沸かせたのも記憶に新しい。

上記で触れた記事では、日本の女性の地位が低い「証拠」として、世界経済フォーラムの『世界男女格差報告』が引用されている。この報告書では、日本女性の地位は139カ国中、第101位だそうだ。しかし、このランキングでは女性の政治や経済活動への参加に重点が置かれている。これをもとに、 Foreign Policy誌のように、 日本の女性の社会的地位は「エルサルバドルとアゼルバイジャンと同程度」と結論付けるのはいささか短絡的ではないか。一般的に、日本の女性の事情に関するアメリカのマスコミ報道は浅い場合が多い。

確かに、日本の女性は教育水準が高いにも関わらず、社会進出が他の先進国と比べて進んでいない。また、日本政府や民間企業は、女性の社会進出を奨励するためにするべき課題が山ほどある。しかし、アメリカ社会だって完璧な男女平等が実現しているとは言いがたいし、ジェンダーギャップもスウェーデンやフィンランドなどの北欧諸国に大きく劣っている。そのため、アメリカのマスコミの日本社会への批判を聞くと、「ガラスの家に住む者は石を投げてはならない」と感じる部分がある。

Foreign Policy 誌はそのような考え方を「後進的」と呼ぶが、それはアメリカ文化の価値観の押し付けではないだろうか? 日本の職場では、パワーハラスメントや長時間労働などのストレスが珍しくないため、できればそれを避けたいと考える日本の女性は賢明かもしれない、とは個人的には思える。男性のように働くことが「平等」の条件であるならば、そもそもそのような「平等」を手に入れたいだろうか? 日本の女性の社会進出を奨励するためには、職場や労働条件の改善が必要と考えられるが、それはまた別のテーマであろう。

もう一つ、私が持つ最も大きな疑問は、男女間格差など、相手国の社会状況に影響するようなテーマが、大使を任命する際の大義として適切かどうか、ということだ。特にいまの日米間には北朝鮮問題やTPPといった課題が山積している。次期駐日大使になる人はほかの課題で手いっぱいになるだろう。さらに日本の女性が直面している問題は、大使のような象徴的な存在には解決できない問題に思える。日本の女性の社会進出を妨げている障壁は、手頃な託児所の不足、ワークライフバランス実現の難しさ、組織の硬い人事構造と慣行、配偶者控除など税制の問題といったきわめて根の深いもので、日本政府や企業が動かない限り変わらないだろう。

キャロライン・ケネディ氏が素晴らしい方であるには違いないが、率直に言うと大使としての資質や関連経験が足りないように思える。オバマ大統領と仲がよく彼の資金集めに大きく貢献したこと、そして父親がかの有名なケネディ大統領だったことが、彼女が有力候補となった大きな理由に思えてならない。日本女性の社会的地位の向上に貢献することがことさら強調されるのは、彼女が貢献できる分野が他にあまり思いつけないからではないだろうか?

参考リンク:

注目記事