「遊び」こそが進歩のみなもと/生活保護って本当に必要ですか?

私たちの社会は無駄を増やし、「遊び」を増やしながら進歩してきた。無産階級がめざましいアイディアを生み出した例は枚挙にいとまがない。「働かない人々」の層は、人類を次のステップへ進める揺籃なのだ。
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あなたが5万年前の原始人だとしよう。

2012年へとタイムスリップしたあなたは、この時代の生活に驚くはずだ。

朝起きて、スーツや制服という不思議な衣服に身を包む。同じような服を着た人がたくさんいる。どうやらあれは、狩りや戦争におもむくための聖なる装束のようなものだろう。そして現代人たちは、ぺらぺらした紙束をめくったり、ちかちか光る箱の前に座って一日を過ごしている。なにかの儀式だろうか。そのまま八時間ほど手を動かし、チャイムに合わせて席を立つ。帰宅途中に謎の機械(ATMという)に立ち寄り、数枚の紙切れを取り出す。現代人たちは満足げに笑い、夜の街へと消えていく――。

5万年前から来たあなたはこう思うはずだ:

――こいつら、いつ働いているんだ!?

あなたが生まれた5万年前は、すべての人が狩猟採集生活を営んでいた。その時代の「仕事」とは、つまり子育てと食糧の調達だった。食糧生産にたずさわらない階層が生まれるのは、農耕が始まってからだ。野生種の栽培化により単位面積当たりの収集カロリーが増大し、食糧の備蓄と、無産階級の維持が可能になった。弓矢や鋤などの道具を作る「職人」が現れるのも、農耕が誕生してからだ。それ以前は、すべての人が食糧生産と子育てとにたずさわっていた。

社会が豊かになったからこそ、無生産なヒトを生かすことができるようになったのだ。

自動車を何台組み立てようと、麦の稲穂は実らない。金融工学によって預金残高を増やしたり、すばらしいiPhoneアプリを開発したり――。それらのどこが生産的なのか。電子データで腹を満たすことはできないし、極端に効率化した第一次産業があるからこそ、私たちは日々の糧にありつける。5万年前から来たあなたの価値観でいえば、ほとんどの現代人は「遊んで」暮らしているはずだ。

逆にいえば、「しあわせな無生産者」の数は、社会の豊かさ・成熟度を示しているのだ。

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だからこそ、私たちは「働かざるもの食うべからず」という言葉に慎重になるべきだ。このセリフを口にする人は、「自分はきちんと働いている」と思い込んでいるのだろう。しかし現代の価値観から離れれば――それこそ、ほんの100年ほど前後するだけで――私たちが「仕事」だと思っているものの多くは「遊び」と区別できなくなる。かつてコンピューターのプログラミングは、一部のオタクの趣味だった。しかし現在では、多くの子供たちがゲーム製作者という「職業」に憧れている。変化はあっという間だ。

ではなぜ、遊んでいるはずの現代人たちは食事にありつけるのだろう。一次産業が超・効率化したとはいえ、農家や漁師の人々が生産物を独占しないのはなぜだろう。

言うまでもなく分配の仕組みがあるからだ。現在の私たちは、もはや一人では生活できない。あらゆる人が、ほかの誰かの援助を受けている。この分配は「取引」を通じて行われることがほとんどだ。が、他者の助けが必要だという点において、現在の私たちは誰もが要介護者だといえる。

ケアのもう一つの社会学

最近、togetterでは生活保護に関する議論が盛んだ。働けど働けど暮らしが楽にならないこの時代、「働かない(働けない)人」に対する風当たりはますます強くなっている。日本では中産階級が崩壊しつつあり、人々の所得は日を追うごとに減っている。そんな時代にもかかわらず、働かずにカネをもらっているやつらがいる。なけなしの給料からさっぴかれた税金で、誰かがメシを食っている。許せん! ――お怒りごもっとも、と言っておこう。やるせない気持ちはよくわかる。

「搾取される感じがするものはとにかくもう嫌なんですよ」

生活保護は働け〜!!うつは甘えだ〜!!というテンプレート

生活保護への批判には、代表的なものが3つある。

1つは道義的な問題を指摘するもの:「働かざるもの食うべからず」という価値観に従えば、たしかに生活保護は許しがたい。カネは生産活動の対価として受け取るものだ。したがって非生産的なやつにカネを渡す道理はない。

2つ目はモラルハザードを懸念するもの:生活保護を受け取りながら、パチンコに行ったり贅沢品を購入したり――。そんなやつらは絶対に許せない!

3つ目は財政難を指摘するもの:いまの日本は赤字国債発行しまくりの超財政不安な状態にある。非生産的なやつらにタダでくれてやるカネなどない。――ワイドショー的な知識から言えば、たしかにその通り。財源と税制の問題は無視できない。

しかしこれら三つの批判は、残念ながら批判になっていない。

まず道義的な問題からいえば、現代人の多くは「働かざるもの食うべからず」という主張をできない。なぜなら、私たちが「仕事」だと思っているものの多くは、「遊び」と大差ないからだ。ほんの20年前まで、帳簿に数字を転記することだけを仕事にしている人がいた。いまではExcelがすべてやってくれる。人の手で作業するのはただの酔狂だ。時代が少しズレるだけで、仕事と遊びとは入れ替わる。あなたが仕事だと思っているものは、本当に生産的な活動だといえるだろうか?

もちろん、こういう反論があるだろう:時代が違えば「遊び」になってしまう活動であっても、少なくとも現代では「仕事」と見なされている。なぜなら、この活動でよろこぶ誰かがいるからだ。仕事と遊びとの間には厳然たる違いがある――。しかし待ってほしい。日本人の一人当たりGDPは目をおおいたくなるほど低い。ほとんどの職場が、非生産的な活動に時間を割いているからだ。その活動で「よろこぶ誰か」って、本当にいるの? こういう現実がある以上、私たちの「収入の手段」のほとんどは「仕事」とも「生産活動」とも呼びがたい。現代の日本人は誰もが、他人の助けがなければ生活できない要介護者だ。

私たちは一人では生きていけず、誰かからのケアを必要としている。そのケアを得る手段が「取引」か「行政」かの違いがあるだけで、生活保護受給者と私たちとは本質的に同じだ。「働かざるもの食うべからず」という言葉は、誰の目から見ても――5万年前の人間の目から見ても――明らかに働いている人だけが主張すべきだ。

続いてモラルハザードについて。これは完全な誤解にもとづく批判だ。生活保護の不正受給は著しく少ない。むしろ審査が厳しすぎて、本来なら保護を受けるべき人にケアがいきわたらないという現実がある。北九州市では餓死者が出た。

さらに財政難を理由にした生活保護への批判:まず現在の財政難は不景気のせいではなく、減税しすぎたせいだという点を忘れてはいけない。そのうえで、税を使って生活保護を給付することの妥当性を検証しよう。

犯罪と貧困には強い相関がある。海外旅行に出かけるときは、スラム街には近づかないようにするのが常識だ。日本国内であっても、山谷や西成に立ち入るときはそれなりの緊張感があるはずだ。貧乏人がすべて犯罪者予備軍だと言いたいのではない。しかし貧困は心の余裕を失わせる。極限までカネに困ると、ヒトはわずか5,000円のために殺人を犯す。

生活保護などの社会保障について考えるときは、そういう治安悪化によるリスクと比較しなければならない。社会保障のために徴税されたカネは、治安悪化により失われる財産や命と比較してどちらが重いだろう。幸いにして現在の日本人は、防犯にあまりコストを支払わずに生活できる。しかし社会保障が機能不全を起こせば犯罪率が急上昇し、防犯コストは跳ね上がるはずだ。このリスクをどう評価するかによって、社会保障に許容できる税額は変わる。

なによりも重要なのは「誰から徴税するか」だ。貧困層から貧困層。あるいは中間層から中間層にカネをスライドさせるようなやり方では何の意味もない。

私は自分の仕事が生産的だとは思わないし、リスク回避的な性格をしている。だから生活保護は必要だと考えているし、ケアが行き届かないことのほうが不正受給よりも問題――というか危険だと感じる。「働かざるもの食うべからず」という言葉は、人類文明に必要不可欠な仕事をしている人だけが主張できる。それこそ、その人がいなければ現代文明が崩壊したり、ヒトの進歩が止まってしまったり――。そんな人物でないかぎり、この言葉は口にできない。私たちは謙虚になるべきだ。

私たちの「仕事」のほとんどは「遊び」だ――。

この意見に、反感を覚える人もいるだろう。しかし、遊びの何が悪い。遊びに人生をかけることこそ、ほんとうの人間らしさではないか。

フランスのラスコー洞窟には、およそ1万5000年前の壁画が残っている。動物や人々の姿が活きいきと描かれ、現代人の目には芸術的なものとして映る。しかし、なぜ人々はこんな絵を残したのか。部族の神話を子供たちに語り聞かせ、共同体の結束を強めるためだろうか。それとも狩りの方法をレクチャーするためだろうか。そういう実用的な目的があったとして、なぜ、わざわざ色鮮やかな顔料で彩色する必要があったのだろう。明るい露地の壁画ではない。薄暗い洞窟のなかでは、色なんてほとんど区別できないはずなのに。

それが人間らしさだ。

実用だけでは満足できずに「遊び」を求めてしまう。それがホモ=サピエンスなのだ。壁画を描いたら色を塗らずにはいられないし、実用的な土器だけでなく土偶やはにわを作らずにはいられない。iPhoneという素晴らしいおもちゃを手に入れたら、アプリを開発せずにはいられない。そういう遊び心がミームの突然変異をうながし、私たちの文明を進歩させてきた。無駄を愛する心がなければ、ヒトは今でも荒れ地でうさぎを追いかけていただろう。「遊び」こそがヒトを人たらしめているのだ。

すべての人には、ミームの保持・伝達という機能がある。たとえ「仕事」をしていなくても、無駄な人はいない。死んでいい人はいない。

最後に、グレゴリー・ペレルマンという数学者を紹介したい。彼は、ポアンカレ予想という100年近く誰にも解けなかった数学の難問を解いた男だ。厭世的な人物で、若くから才能を見だされていたにも関わらず、大学で教鞭をとろうとはしなかった。ポアンカレ予想の解法を発表した後は完全に仕事を辞めてしまった。現在では母親の年金で生活しているというが、詳しいことは誰も知らない。

教鞭をとらない大学の研究者に給与を支払ったり、あるいは年金制度だったり――。一見、無駄に思える「食わせる仕組み」がなければ、ペレルマンのような天才は生き残れなかった。私たちの社会は無駄を増やし、「遊び」を増やしながら進歩してきた。無産階級がめざましいアイディアを生み出した例は枚挙にいとまがない。「働かない人々」の層は、人類を次のステップへ進める揺籃なのだ。

私たちの未来のために、何度でも言おう:

「仕事だけが人生ではない」

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