ブログは世界を救えるか?

ブログは世界を救えるだろうか?ネット上に文章を公開して、意見を表明することで、世の中をよりよくできるのだろうか?

ブログは世界を救えるだろうか?

ネット上に文章を公開して、意見を表明することで、世の中をよりよくできるのだろうか?

一言でいえば、ブログとはジャーナリズムが「恊働・共創」型になったものだ。

従来のマスメディアが上意下達の情報伝達で世論形成を担っていたのに対して、ブログでは書き手と読者の相互参加によって世論を生み出すことができる。自由主義的な観点からいえば、言論を一部の人間が支配している状況は望ましくない。誰もが自由に議論に参加できる状況のほうが、ジャーナリズムの理想に近い。

では、「恊働・共創」とは何か?

ジャーナリズムには広範な分野が含まれるが、ブログが担えるのはどの部分か?

これらの疑問に答えながら、ブログが世界を救えるかどうか考えてみたい。

現代は、「恊働・共創」の時代になろうとしている。

かつて製品開発に消費者の入り込む余地はなかった。自動車王ヘンリー・フォードの有名な言葉がある。「お客さまの望む色はどんな色でもお売りします。──それが黒であるかぎり」黒色のT型フォードただ一車種を販売して、彼は成功を収めた。物質的な豊かさが不充分だった時代には、製造コストを下げて大量生産・大量消費を実現することが、あらゆる産業で最重要課題だった。

ところが技術革新により開発コストが低下した結果、消費者の多様な需要にあわせた製品が作られるようになった。現在では消費者が製品開発に参加するのも珍しいことではない。たとえば一部の酒類メーカーでは、酒をただ販売するだけでなく、自社製品を使ったオリジナルカクテルを消費者から募集するといったプロモーション活動を行っている。消費者との双方向のコミュニケーションによって、製品の付加価値を高めようとしている。

このように消費者の参加によって製品を生み出すことを「恊働・共創」と呼びたい。

現在では消費者がただ参加するだけでなく、消費者の主導で製品が作られる場合も増えてきた。顕著な例をあげれば、Linuxのようなオープンソースのソフトウェア開発があてはまる。またWikipediaも、掲載しているコンテンツは消費者自身が生み出したものだ。

ところでオタク向けのまんが、アニメ、ゲームなどは、いち早く「恊働・共創」型になった産業だといえるだろう。

著作権の是非について議論は尽きないものの、二次創作がどれだけ流行っているかが「コンテンツが成功したかどうか」のバロメーターになる。だからこそ、黒子のバスケ事件では二次創作が攻撃対象にされた。二次創作を発表する場所がなければ、コンテンツはすたれやすくなる。

最近では『艦隊これくしょん』が大流行している。このブラウザゲームに登場する赤城は「大食いキャラ」として扱われるが、これはファンの作り出した設定だそうだ。消費者の「恊働・共創」によってコンテンツに付加価値が与えられた例だ。

赤城

さらに「ひぐらしのなく頃に」シリーズや、「東方project」など、同人作品がきっかけとなり二次創作の流行を生み出したものもある。これらは消費者主導の恊働・共創によって作られたコンテンツだといえる。オープンソースで世界観が深まっていく「東方」は、いわばオタク産業のLinuxなのだ。

情報技術が進むほど、恊働・共創はたやすくなる。製品開発の参加者が増えても、アイディアをかんたんに共有・加工できるからだ。

情報技術は今後も発展し続けるだろう。したがって、あらゆる産業が、T型フォードのような上意下達型から、消費者参加を前提とした「恊働・共創」型に変わっていくはずだ。

そしてブログは、「恊働・共創」型のジャーナリズムだ。

ジャーナリズムとは何か?......という話題については後述するが、少なくとも読者の参加がなければブログはブログである意味がない。ブログの記事は、それだけでは完成しない。コメント欄やリツイートされたときに付される一言など、読者の反響まで含めて、ようやく1本の記事が完成する。

たとえばこの記事は、読者の力でコンテンツの価値が高まった例だ。

記事の本文だけなら、1人の人間がたまたまスターバックスコーヒーで見かけた光景を描写しただけにすぎない。しかしコメント欄が充実しているおかげで、読み応えや説得力が格段に高まっている。

スタバを賞賛するだけでなく、人の心すら技術的にコントロールしようとするやり方に嫌悪感を覚えたという意見もトラックバックされた。まさに賛否両論。上意下達型のメディアでは、こんなコンテンツを作り出すのは難しいだろう。

ブログは、消費者の参加を前提とした「恊働・共創」型のコンテンツだ。

少なくともこのブログ「デマこいてんじゃねえ!」は、管理人Rootportの原稿だけでは完成しない。賛否両論なコメントや読者同士の議論まで含めて、1つのコンテンツを形成している。このブログが面白いのは──面白いとすれば、だが──それは管理人が面白いからではない。集まった読者が面白いからだ。

ここまでは「恊働・共創」について考えてきた。ブログは一方通行のメディアではなく、管理人と読者、読者同士の相互作用によってコンテンツを生み出している。

では、ブログはジャーナリズムと呼べるのだろうか。ジャーナリズムが包含する様々な分野のうち、ブログに担えるものがあるとしたらどこだろう。

ところで経済学には「完全競争市場」という考え方がある。完全競争市場が成立したとき、不当にトクをする者も、理不尽に損をする者もおらず、資源がもっとも効率的に分配されるという。ただし参加者が完全な情報を持ち、合理的な行動を取ることが、完全競争市場の前提になる。

なぜ完全競争市場が間違っているかといえば、人間は完全な情報を持ちえないし、いつでも合理的だとは限らないからだ。完全競争市場は現実から遠く離れた理想だ。

ジャーナリズムの役割は、この遠い理想を近づけることだ。情報の不均衡をなくし、合理的な行動を促して、完全競争市場を達成すること。これがジャーナリズムの役割であり、目標であるはずだ。

この目標をもう少し細かく分解すれば、「権力の監視」や「正しく迅速なニュースの配信」「知的な娯楽の提供」「世論の形成」などがあげられる。これらジャーナリズムの役割のうち、ブログに得意なものと苦手なものがある。

たとえば「正しく迅速なニュースの配信」は、ブログの苦手とするものだ。正しさという点では既存の報道機関に及ばないし、速さという点ではTwitterなどのSNSに劣る。ジャーナリズムのこの分野はブログでは担えない。

一方で、ブログに得意な分野もある。世論の形成だ。

そもそも世論の形成とは、「常識とされている情報にもとづいて物事の価値を定めること」を言う。

たとえば「犬は人間に忠実で、散歩が必要で、嬉しいときにバカみたいにしっぽを振る」のは常識だ。また「猫は移り気で、散歩の必要がなく、かわいい」のは常識だ。これらの常識にもとづいて「犬・猫のどちらがペットとして優れているか」を議論すれば、それが「物事の価値を定めようとする」ことになる。

このような議論を、より社会的なインパクトの大きい題材で行うこと:それが「世論の形成」だと私は考えている。

あなたが犬と猫のどちらをペットにしようが、社会的なインパクトは薄い。しかし、たとえば「同性婚を認めるか」「死刑制度は存続させるべきか」「原子力政策を推進すべきか」などは、社会的なインパクトが大きい題材だ。また「国の2014年度予算は約41兆円の新規国債の発行を前提としているが、これを支持するか?」や、「ロシアのクリミア半島侵攻を支持するか?」といった題材も、社会的なインパクトが極めて大きい。

こうした"重たい"題材について、常識的な情報をもとに評価を定めていくこと。「良い」か「悪い」かを決めていくこと。それが「世論の形成」だ。

究極的には、この世界には「良い」も「悪い」もない。それは人間の主観的な判断でしかない。しかし、判断をくださなければ、なにか行動を起こすこともできないのだ。であれば、できるだけ適切な判断ができるよう努力すべきだ。

かつて世論形成は、上意下達で「えらい人が教えてあげる」形式だった。しかし現在では、あらゆる産業で恊働・共創が当たり前になりつつある。これからの時代における世論形成は、消費者の参加によって議論を深めることで行われる。

世論の形成は、協働・共創であるべきだ。

かつて世論の形成は、一部の限られた人々に支配されていた。現在では、すべての人が自由にそれに参加できる。支配よりも自由のほうが望ましい。追従よりも自立のほうが望ましい。盲信よりも懐疑のほうがまだマシだ。合理的な判断をうながすためには、世論の形成は上意下達ではなく、各個人が自分の頭で考えたほうがいい。恊働・共創であるべきなのだ。

すべての人が議論に参加することで、いわゆる「衆愚」に陥るのではないかと心配する向きもあるだろう。これは杞憂だ。なぜならインターネット上では、筋の通らない主張にはきちんと反論がなされるからだ。ブログには質の悪い主張を抑制する自浄作用がある。議論を前提とする限り、衆愚は起こらない。衆愚とは、議論を介さず多数決だけに頼った場合に生じる。

テレビや新聞などの既存のマスメディアも、今後は「ブログ化」していくだろう。視聴者や読者の協働・共創によるコンテンツが増えていくはずだ。なぜなら、一度でも「参加する楽しさ」を味わった消費者は、もはや上意下達のコンテンツだけでは満足できないからだ。

テレビや新聞が依然として強い影響力を持っているのは、テレビっ子世代が社会の中核を担っているからだ。これがデジタルネイティブ世代に取って代わられる20~30年後には、協働・共創型のコンテンツを増やさなければ視聴者を獲得できず、生き残れなくなるだろう。

17世紀初頭のイギリスの港町が、ジャーナリズムの原点だという。

大英帝国の繁栄を背景に、世界中の情報が酒場に集まっていた。「あの地域で戦争が始まるらしい」「あの地域に商売のチャンスがあるらしい」ビールを片手に、船乗りたちは最新のニュースを交換した。酒場を示すPubと、出版を意味するPublishは同源の言葉だ。そして、その先にジャーナリズムもある。

読者との恊働・共創による世論の形成は、いわばジャーナリズムの原点回帰といえるだろう。そしてイギリスが自由主義や民主主義を生み落とした国だということも忘れてはならない。適切な議論を重ねた先に、本当の自由がある。

ブログが世界を救えるかどうかは分からない。

しかし、オープンな議論のプラットフォームを提供することで、世の中をよりよくすることはできる。20~30年後には既存のマスメディアも「ブログ化」を余儀なくされる。少なくとも、その時代に向けたモデルケースを提供することはできるはずだ。

社会の構成員の参加がなければ、民主主義は成立しない。

読者の参加なくして、ジャーナリズムは完成しない。

だから私たちは、もっと書くべきなのだ。

(2014年3月20日「デマこいてんじゃねえ!」より転載)

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