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「ググレカス」が世界を変える/ネットのコンテンツは「紙と放送の時代」と何が違うか。

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印刷

 インターネットは、活版印刷に匹敵する技術革新だ。

 しかし、ネットがどのように世界を変えていくのか、具体的に想像できない人も多いようだ。通信コストをゼロにして産業構造を変えるだけがネットの力ではない。インターネットは一般大衆の知性を底上げして、人類社会そのものを変えてしまうだろう。

 ネット前夜の「紙と放送の時代」には、コンテンツに消費者の知らない情報を含められなかった。たとえば大衆向けの新聞記事に専門用語は使えなかったし、テレビで進化論やマクロ経済のような「概念」を伝えるときは、ごく簡単な一部分しか伝えられなかった。

 しかし、現在は違う。

 コンテンツに含められないのは検索で調べられない情報だ。逆に言えば、検索でかんたんに分かるなら、たとえ消費者の知らない情報でもコンテンツに含められるようになった。

 「知らない情報」を避ける時代から、

 「検索できない情報」を避ける時代へ。

 これは小さな変化に見えるかもしれない。しかし、人類社会を根幹から組み換えてしまう変化だと私は思う。

     ◆

 ヨハネス・グーテンベルクが活版印刷を発明したのは15世紀半ばだ。それ以前のヨーロッパでは、筆記による写本か、もしくは木版に頼らなければ出版物を作れなかった。グーテンベルクは聖書を安価に製作・配布するために活版印刷を思いついたという。

 ところが活版印刷は、世界を変える技術革新だった。

 15世紀はルネサンスの華やかなりし頃だ。安価になった出版物によって、新しい思想や価値観、科学的な発見は、瞬く間に広まった。

 想像してほしい。

 もしも活版印刷がなければ、ルネサンス後の宗教改革は起きなかったかもしれない。

 もしも宗教改革がなければ、実験と観察を重視する科学主義は発展しなかったかもしれない。キリスト教にプロテスタントは生まれなかったかもしれない。

 現代の資本主義は、貯蓄と勤勉をよしとするプロテスタントの思想によって誕生したと言われている。もしもプロテスタントが生まれず、科学主義が発展しなければ、産業革命は起きなかったかもしれない。

 そして「現代」は始まらず、私たちは今でも身分制度と迷信に縛られた中近世を続けていたかもしれない。

 こうして考えてみると、活版印刷がいかに偉大な発明だったのか分かる。火薬や羅針盤と並ぶ、人類社会そのものを変える技術革新だった。

 活版印刷がない時代、一般大衆は口伝や自分自身の経験によってしか知識を得られなかった。個人的な経験だけが知識の源泉だった。ところが出版物が安価になったことで、他人の経験から知識を得られるようになった。

 遺伝的に脳の構造を変えなくても、知識の蓄積によって賢くなれる。それが人類という種の特徴だ。

 活版印刷の登場で、人類は賢くなった。

     ◆

 活版印刷をきっかけに人類は賢くなった。しかし現在でもなお、紙や放送のコンテンツにはバカ対策(フールプルーフ)が効いている。

 専門用語は使えないし、抽象的な概念はかんたんに説明できるものしか伝えられない。紙や放送のコンテンツ制作者は、基本的に消費者をバカだと思ってモノを作る。『フィネガンズ・ウェイク』は教養人の楽しむ芸術作品であって、大衆の楽しむエンターテイメントたりえない。ライトノベルに大江健三郎のような文体は使えない。

 しかし、ネットは違う。

 WEBメディアに携わる人でも、まだ気づいてない人がいるかもしれない。インターネット上のコンテンツは「消費者が知っているかどうか」をあまり気にしなくていい。むしろ重要なのは「かんたんに検索できるかどうか」だ。消費者が正しい検索結果にたどり着けるキーワードをコンテンツの中にちりばめられるかどうか。これがコンテンツの質を左右する。

 ようするにインターネットのコンテンツにバカ対策は要らないのだ。

 知らない専門用語が書いてある?

 だったら、ググレカス

 これがインターネット時代のコンテンツのあり方だ。知識や教養だけでは、賢人とバカを区別できなくなった。教養を笠に着て偉ぶることができなくなった。

 抽象的な概念とは、経験的な知識を発展させたものだ。

 たとえば先史時代から、私たちは「子は親に似る」ことを経験的に知っていた。また「どちらの親にも似ていない部分」が時々現れることも知っていた。そして19世紀イギリスの鳩のブリーダーは、派手な羽根の鳩をかけ合わせると子鳩はさらに派手な羽根を持つことを知っていた。

 これらの経験的な知識を統合すると、抽象的な概念──突然変異、自然選択、進化論──を生み出すことができる。抽象的な概念とは、経験的な知識の積み重ねによって生まれるより上位の知識だ。

 また、「農家が野菜の値段をつり上げると家計が苦しくなる」ことを私たちは経験的に知っている。「値下げしないと売れないから家計が苦しくなる」ことを農家は経験的に知っている。これらの経験的な知識を一つにまとめると、より上位の抽象的な概念──市場による価格決定メカニズム──が生み出される。

 さらに、「貯金したいからクルマを買うカネがない」ことを私たちは経験的に知っている。「ローンを組む人が減るとクルマが売れなくなる」ことを自動車ディーラーは知っている。これら経験的な知識を一つにまとめると、「貯蓄による合成の誤謬」などのマクロ経済の概念が生まれる。

 インターネットによって、抽象度の高い概念でも一般大衆向けのコンテンツに載せられるようになった。なぜなら私たちは経験的な知識をいくらでも検索できるからだ。ある概念を理解するには、前提となる知識や教養が必要だ。が、そういう前提知識は消費者が自分で検索すればいい。検索エンジンは無限の知識を供給してくれる。

 インターネットのコンテンツ製作者は、消費者をバカだと思ってはいけない。むしろ無尽蔵な知識を持つ巨人だと考えなければ、いいコンテンツは作れない。しばしば不完全な知識にもとづいて書かれた新聞記事が炎上するが、あれは検索すればすぐに分かることを調べなかった罰である。

 活版印刷によって、一般大衆は「個人的な経験」だけでなく「他人の経験」からも知識を得られるようになった。

 そしてインターネットによって、一般大衆は「経験的な知識」だけでなく「抽象的な概念」も得られるようになった。

 インターネットの登場で、人類はこれから賢くなる。

     ◆

 では、なぜ人類は賢くなる必要があるのだろう。どうしてバカのままではいけないのだろう。それは「自由」が、自主・自律とセットだからだ。そして「民主主義」が、啓蒙とセットだからだ。

 私たち一般大衆が賢くなければ、自由も民主主義も成立しない。

 自分の暮らしを自分で立てられない人は、集団に依存して、集団に支配されて生きるしかない。支配されずに生きるためには、賢くなければならない。そして民主主義は、大衆がバカならかんたんに衆愚に陥る。

 だから人類は賢くなり続けなければいけないし、人類はもっと賢くなれると私は信じている。

 今の日本には、たぶん「自由をもてあましている人」が結構たくさんいる。

 自分がどう生きればいいのか判断する力を学校では教えてくれないし、親たちも教えてくれない。なのに、社会は「何をやっても自由だよ」と迫ってくる。羅針盤も海図も持たずに大海原に放り出されるようなものだ。だからラクなほうに逃げたくなる。誰かに生き方を支配されたくなる。

 しかし、それは支配してくれる親を失った子供のワガママにすぎない。

 誰だって、本当は支配などされたくないのだ。

 グーテンベルクの活版印刷から現代まで500年以上かかった。インターネットが世界を変えるにはもう少し短い時間で済みそうだが、それでも私たちが本当に自由で多様性豊かな社会を手にするには、数百年という単位の時間がかかるだろう。500年後の未来がどうなるか、私には分からない。しかし、間違いなくインターネットは、人類がルネサンスから現代までに経験したのと同じぐらいの変化をもたらすはずだ。

     ◆

 いいコンテンツとは、消費者に行動をうながすコンテンツだ。

 テレビCMなら消費者にモノを買わせるのがいいCMだし、新聞の政治記事なら次の選挙で誰に投票するか判断させるのがいい記事だ。小説やマンガなら友だちと感想を交換したくなるのがいい作品だと言えるだろう。ヒューマンドラマの映画を見たあとは家族や友人を大切にしたくなるものだし、『マトリックス』や『ボーン・スプレマシー』のようなアクション映画を見たあとは急にカラダを鍛えたくなる。

 消費者の行動を変えること。

 それが、いいコンテンツの条件だ。

 そして「検索」は、いちばんハードルが低い消費者の行動だ。インターネット上のコンテンツを作るときに、消費者をバカだと思う必要はない。むしろ無限の知識を持つ巨人を相手にしていると思ったほうがいい。消費者の「知らない情報」には、紙と放送の時代ほど神経質にならなくていい。むしろ消費者が「検索できない情報」を取り除くことに気を払うべきだ。

 ユニークなキーワードをちりばめて、消費者が検索しやすくすること。

 ネットで求められるのは、そういうコンテンツだ。

 そういうコンテンツが、やがて世界を変えていくのだ。

(2014年2月14日「デマこいてんじゃねえ!」より転載)