「あんたバカだな」では反論にならないという話

人間は、一般的にバカだ。現代社会は、果てしなく分業が進んだうえで成り立っている。

先日の夜、医療系の若い研究者と喋っているうちに、なぜか原発事故の話になった。私よりも年上だけど、経歴から言えばまだ学生と大差ない。

彼からすると、世間の人々があまりにも「バカ」に見えてしまうらしい。テレビに不安を煽られて、知識不足のまま間違った選択をしているように見えてしまうらしい。その指摘は、半分は正しい。世の中の大半の人は、正しい知識を持たないまま不正確な情報に踊らされてしまう。国際線の飛行機内よりもはるかに低い線量に恐れおののき、統計的、疫学的な判断をせずに甲状腺異常や白血病の患者がいたというだけで大騒ぎする。

人間は、一般的にバカだ。

現代社会は、果てしなく分業が進んだうえで成り立っている。私は木綿の下着を作れないし、あなたは(たぶん)水道水の浄化設備を設計できない。コメの育て方を知っている人が、同時に半導体の生産ラインにも精通している場合は極めてまれだ。誰かにとっての常識は、他の誰かからすれば難解な専門知識かもしれない。

だから専門家がどんなに安全を訴えても東北の食品は安く買いたたかれ、諸外国では日本製品の輸入禁止が進んだ。専門家からすれば、自分たちの意見が黙殺されたことになる。原発事故が多大な経済的損失を出したのは(原発が悪いというよりも)一般人がバカだからだ......。と、考えてしまうのも無理はない。

また、「原発そのものは安全だったのだ」と彼は言った。

建物は地震に耐え、津波にも耐えた。電源喪失さえしなければ事故は起こらなかったし、その原因の大半は人為的なものだった。問題があったのは人間の側で、原発ではない。この指摘も半分は正しい。が、それだけでは原発政策を肯定することはできない。

彼の視点は、原発とその事故を理科の問題としてしか捉えていない。放射線が人体に及ぼす影響、原発が事故を起こす仕組み......それらはすべて理科の知識で説明できる。けれど原発政策は、文字通り政策課題だ。社会的な問題だ。人間の心や行動まで含めて考えなければいけない問題なのだ。

しかし彼の視点はあくまでも「理科の視点」であり、科学の視点ですらない。人間の行動や生態を科学的に分析・考察することは可能だ。ありきたりな人文vs科学の対立構造は唾棄すべきだ。科学からヒトという動物を排除する:それは小中学校の「理科」の態度だ。だから彼のモノの考え方は「理科の視点」なのだと、私は思う。

そして理科の視点は、必要な視点でもある。

人間的な感情に支配された意見ばかりが飛び交ってしまうと、たぶん私たちの社会はいまよりももっと冷静さを欠いたものになってしまうだろう。専門家の立場として、彼のようなモノの見方・考え方は絶対に欠かすことができない。考え方は多様なほうがいい。

「(疫学的事実として)明白な放射線被害は出ていない」

「(工業製品としての)原発そのものは安全」

......だから使う人次第で原発は安全に運用できる:その考え方は論理的に間違っていない。ただし、世の中のすべての人がそういう考え方をできるわけではない。

たとえば時速300km出せるスポーツカーが交通事故を起こしたとしよう。では、その責任の所在はドライバーにあるのか、それともスポーツカーを販売した企業にあるのか、あるいはスポーツカーを公道で走らせることを許した立法や行政にあるのか。

ある人はドライバーが悪いと言い、ある人は企業が悪いと言い、ある人は国が悪いと言うだろう。考え方は多様なのだ。そして、そういう多様な考え方をすり合わせながら、"私たちの社会"を"よりよいもの"にしていかなければならない。民主主義って、そういうことだ。

シートベルトの着用が義務化されたとき、ドライバーの自由を奪う悪法だという批判があったそうだ。日本ではつい最近まで、親殺しは普通の殺人よりも罪が重かった。つまり逆にいえば、親に比べて、それ以外の人間の"命の価値"は軽いと見なされていたのだ。昔の価値観は分からないけれど、いまの価値観でいえばさすがにそれはおかしい。そう考える人が増えたから、刑法200条は削除された。おそらく今でも、親殺しは普通の殺人よりも罪が重いと考える人はいるだろう。けれど、社会はその価値観を無視している。

私たちは、一人で生きているわけではない。

"私たちの社会"の私たちに、どの範囲までの人々を含めるのか。"よりよいもの"のよりよいとはどういう状況なのか。社会全体の通念と、あなたの考え方との間には、かならず齟齬が生じる。なぜなら社会というものは、あなたではない他の誰かの考え方にも影響を受けているからだ。他者の影響から逃れられないからだ。

あなただけの社会などありえない。

あなたの考える通りの社会など、ありえない。

スポーツカーよりも速く、安全で確実にモノを運ぶ手段があれば、スポーツカーなど要らないのではないか......と考える人が増えれば、そのうちスポーツカーはなくなるだろう。たしかにバブルの頃に比べて、若者はスポーツカーに乗らなくなった。

そしてスポーツカーが凄惨な事故を起こしたら、世の中は一気にスポーツカー規制の流れに傾くかもしれない。スポーツカーを乗るのは個々人の自由だ、事故を起こしたドライバーの責任だ、と訴える人がいても、もはや世の中はその自由を承服しないだろう。価値観が変われば、社会は変わる。

「スポーツカーは嗜好品であって原発とは全然違う」と反論されるかもしれないが、本当だろうか。コラムニストの小田嶋先生などは「でかい工場って格好いいよね!」というオトコノコ的感情が原発事業者の心にはあるのではないか......という愉快な指摘をなさっていた。確かに好きじゃなきゃ仕事にしないよな。

ともあれ、喩えが適切かどうかは、論旨の正しさには関係がない。スポーツカーの喩えがよくないと指摘されたら、他のモノで喩えるだけの話だ。

「原発は社会的な問題だということ」

「社会には多様な考え方があるということ」

そして、「多様な考え方をすり合わせた結果が、この社会だということ」

私が言いたいのは、そういう社会の雑多さを認識すべきだということだ。世の中が思い通りにはならないということだ。私たち一人ひとりの力は小さく、できることといえば「よさげな意見」に手を上げるしかない。賛成だと示すしかない。

問題は、どのような意見に賛意を示すのかだ。古くさくてノー・フューチャーな意見か、それとも新しくて未来志向の意見か。原発事故が日本経済に計測不可能なほどの打撃を与えたことは、変えようのない事実だ。

少なくとも私は、"よりよい未来"を目指している側に手を上げたい。

(2012年10月10日「デマこい!」より転載)

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