BLOG

「評価」で苦しまないために

2013年12月19日 17時16分 JST | 更新 2014年02月17日 19時12分 JST

今回、引き続きお話しさせていただくことは、また「わたしの体験」を通してのおしゃべりです。「心の中で起こってくること」をご説明するのに、具体例と時系列が必要なため、こうなっています。ここでお伝えしたいことは、わたしを知って欲しいということとは違います。たくさんの方のお話を伺わせていただく中で、多くの方が混乱されたり、ひっかかりを感じやすいと気づいたポイントをお話ししたいと思っています。

物事には多様な見え方と捉え方があります。どれも「その人の視点から見ると正解」です。ご自身の経験に照らし合わせながら、書かれていることを検証してみてください。

さて、「何が本当で、何が嘘なのか?」本当のことが知りたかった話は、前回書かせていただきました。「周囲からの評価」と「わたしの中の、自分への評価」が真っ二つに分かれる状況の中。わたしは、自分自身について「いいのか、わるいのか」の判断がつきませんでした。どうしてそんな混乱が起こったのかを紐解いてみました。

学生時代のわたしは、時に高い評価を得ることもありました。勉強ができる、頭がいいといったものです。ところが実際は違いました。

わたしは数学でつまずきました。数字が抽象概念だということが、当時全くわからなかったのです。高校時代には数学が2単位に分かれたため、両方落としたら留年!という危機的状況にも陥りました。お友達のサポートがあり代数幾何の単位を落とすだけで済みましたが、高校生で単位を落とすのはそれなりに珍しいはずです。

それでもわたしの評価は変わらず「頭がいい」「勉強が出来る」だったのです。

わたしより出来る人はたくさんいました。そもそも通っていたのは中堅の都立高校です。決して成績優秀だった訳でもありませんが、わたしは大概、「優等生」「成績優秀」のイメージを背負っていたのです。全く理解が出来ませんでした。

中学生の時にも、ピアノを習っていて同じようなことがありました。全く練習をしていなかった日にも先生は「よく練習したのね、上手く弾けていますね」をおっしゃっいました。

事実とは違うことが、評価になっていることや、まるで現実かのように話されていることは、いつも本当に不思議でした。この人たちは一体何を観て、何を根拠に、事実ではないことを、まるで事実かのように言うのか?...全くの謎でした。外側からの評価は常に謎でした。

過大評価を受けた時、わたしは時折こう考えて自分を励ましていました。「実際の自分よりも高い評価をもらえるのは、多分得なことだ。だから悲しむ必要はない。そう観てもらっている"空想のわたし"のようになるために、またがんばればいい」。

でも、このギャップを埋めるための「イタチごっこ」は相当大変なものでした。シンプルに「がんばれば、自己評価と他者からの評価が一致する」と思っていたのですが、がんばって自分がやっと外側の評価に追いついた、と思えた頃には、外側はわたしにもっと高い評価を与えていることもあったのです。

それが一転したのは、社会人になってからです。わたしの評価は一気に地に落ちました。美術大学を卒業した後、大手情報会社に就職したわたしは、一変して問題児となったのです。

「本当のことは一体何なのか?」...わたしはますます混乱しました。

突出を嫌うとされる日本の教育にあっても、美術教育の世界では基本、個性を伸ばすことが重要視されます。「あなたは、いかに人と違えるか?」「その違いを伸ばせるか?」ということが日々の教育のベースに存在しています。両親からの教育と合致するという点で、美術大学は、わたしにとって天国でした。

ところが、そこから飛び込んだ実社会は、どちらかと言えば突出を嫌う「真逆の論理で動いている世界」でした。評価基準や、価値が、環境によって逆転したのです。

海外で現地の方とのやり取りが多い方は、ぱっとイメージがしやすいかと思います。環境など「外側の条件」が変わると、同じ人の同じ言動は、全く別の意味を持つことがあります。「評価」というものは、事実ではなく「ある条件や環境下での、物事の捉え方でしかない」という、何よりの証拠なのかも知れません。

 

こんなことがありました。仕事中、雑談に交じろうと上司に言葉をかけると、突然立ち上がって「お前になんか話してねえんだよ!」と怒鳴られました。その人がわたしの教育担当でした。この方とのコミュニケーションは、日々相当な緊張感を生むものとなりました。新人なので、全てがよくわからず、質問をする機会が増えますが、「質問の意味がわからないから、わかるように説明して」と言われて、本気で困ったりもしました。

「仕事の成果の出し方がわかった!」とお話しされている先輩に、「それ、わたしも知りたいです!」とお話しをすると、「え〜!わたしが何年もかけて理解したことを教えるのは嫌」と言われたりもしました。

自分が出来ていないことはわかる...けれど、どうやったら出来るようになれるのかがわからない。そもそも「教えてもらう方法」が解らない。でも、仕事の結果は求められる。わたしは毎日、激しい緊張状態にありました。

フリーランサーの両親の元で育ったわたしは、個を束ねる「会社」については、当時こう思っていました。

会社というのは、個人個人の持つスキルを共有することで、1人でやるよりもより効率よく成果をあげるための仕組みである。よって、出来る人が出来ていない人に教えることで、生産効率を高めていくものである。それが会社の利益であり、会社の社会的な意義でもある。といったように。

実際、同じ会社の中でも、最初に研修配属になった部署では、その通りのことが行われていました。ところが、3ヶ月後に、本配属になった部署では全く違っていたのです。「出来ない。教えてももらえない。質問の仕方がわからない」。そして突然怒鳴る上司への恐怖感まであるのです。

同じ部署には、先輩方が20名程いらっしゃったかと思います。同じ状況を見ていた彼らからの無関心は、当時のわたしにとって「わたしが間違っている」というメッセージと感じられていました。

今思えば、これは「わたしの思い込み」です。そこにいらっしゃる全ての先輩に、事実確認の質問をした訳ではありません。

「わたしは何故、怒鳴られているのか?」

「わたしは何故、教えてもらえないのか?」

この自問自答の導き出した結論が、「わたしはダメである」という認識でした。

この認識は日々徹底的に強化されていきました。「わたしは出来ない」。「どうしても上司が何を言っているのかがわからない」。その思いは極まる一方でした。

人とは不思議なもので、根拠のわからないままに、一方的な酷い評価を浴び続けていると、ある程度元気なうちは反発の気持ちも生まれてきます。

客観的な事実として、社内コンテストでの上位入賞や、タスク消化の数量的な評価もありましたので、「本当にわたしは、そんなに出来ないのだろうか?」という疑問が時折、頭をよぎったのも事実です。ですが、相手の基本的な評価基準が理解出来なかったことと、怒鳴られること、否定的に見られること、質問が通じないということが恐怖となって、わたしは誰に対しても、状況確認や説明が出来なかったのです。

ある日わたしは、心底追いつめられて、「本当に全くわからない。きっとわたしが悪いのだろう。相手の言う通りにやってみよう」「もう自分で考えるのを止めて、相手の言うことをきいてみよう」と決めました。それは「自我を手放そう」という選択です。

10歳から心理学に傾倒していたわたしには、人の話を注意深く聴く習慣があります。冷静に話を聴ければ、その人が「どの立ち位置」から話しているかがわかります。そして、どれも「その人の立場から見れば正論である」ことを理解していました。

それに加え、「自分がダメである」という「自己評価」をしている以上、相手のおかしなところに気がついていても、それを「おかしいのでは?」と真っ向から指摘する勇気には欠けていたのでしょう。

結果として、自分自身が関わる状況においては「わたしが出来ていないのが原因だ。相手が悪いのはわたしだと言っているのだから、きっと100%そうなのだろう」と思うに至ったのです。

今思うと、これはまずい選択でした。

後に当時を振り返り、その頃起こっていたことを親しい先輩にお話しすると「それは正直に言っても良いことだったと思うよ。それが上司になった人にも学びになったはずだ」。とおっしゃる方もいらっしゃるので、わたし自身が「出来なかった」だけではなく、当時の上司も「出来ていなかった」可能性があります。わたしは「一方的な視点から、出来事を捉えていた」のかも知れません。

評価とは、基準点がハッキリ共有されて、初めて意味を成すものなのではないか? 「誰がどの立場から」、「どの立場にいる、誰に対して言ったのか?」。そこの視点をしっかり認識しないでいると、混乱が起こるのではないのかな? と思えるのでした。