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日本を『空気のみが支配する国』にしてはいけない

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歴史の転換点


『あの時が歴史の大きな転換点だった』

もしかすると日本の歴史にとって今こそそんな『転換点』なのではないか。普段政治に疎い私でさえ、日本の政治史に大きな潮目の変化といっていい現象が起きていることを感じざるをえない。言うまでもなく、時の内閣による解釈改憲の正当化、および、それに引き続くいわゆる『安保法案』の衆院での可決だ。

本件については、すでに『専門家』による意見も数多でてきているし、今更私のような門外漢が半可通な意見を表明したところで、賛成と反対、どちらかの陣営(あるいは両方)に血祭りにあげられるに違いないのだが、この時期にこの論点に対して何らかの意見表明をしておくことが、歴史に自分を刻み込むことのように思えてならなくなってきた。火中に栗を拾うことになりかねないが、今率直に感じるところを書いておこうと思う。

『法の支配』から『人の支配』へ


基本的に私自身が一番危機を感じるのは、戦後日本はまがりなりにも『法の支配』の合意が成り立っていたのが、これを機会に、名実ともに『人の支配』になってしまうこと、すなわち立憲主義が崩壊してしまうことだ。歴史的な経緯で見ても解釈が確定している憲法の解釈を、時の内閣や首相が、法理で論駁するのではなく、首相の権限で変更を強行しようとするのは、どう贔屓目に見ても『法の支配』からの逸脱と言わざるをえない。

そして、今回の一連の経緯を通じて痛感するのは、『立憲主義』の意味するところがいかに国民に理解されていないか、ということだ。だから、立憲主義がなし崩しになってしまうことの恐ろしさも共有されているとは言い難い。そもそも立憲主義(およびそれに立脚した憲法)は、人権尊重、権力分立、個人の自由等、人類が血の代償を払って獲得してきた権利/価値を国家権力/権力者から国民を守るためにある。本来強い権力を持つ国家権力/権力者から国民の権利を守ることは容易なことではない。加えて権力者は往々にして暴走する。昨今の日本では、ワイマール憲法下のドイツで独裁権力を作り上げたアナロジー(類比)からヒットラーが話題にのぼりがちだが、歴史上権力者の暴走はそれ以外にも枚挙にいとまがない。(スターリン、毛沢東、ポル・ポト等々)

国民に理解されていない立憲主義


これらの権利をめぐって血に塗られた歴史の物語を持つ西欧諸国とは違って、日本の場合は憲法の背後に国民の差し迫ったリアリティがない。あるのは敗戦国として米国に押し付けられたというネガティブな物語であり印象だ。だから、やむをえないところもあるのだが、こうなると、あらためて日本という国がいかに危ういバランスの上に漂うように置かれていたのか再認識させられる気がする。

2012年4月に、自民党の憲法改正草案が出てきた時に、正直唖然としてしまったのは、この草案には権力者の暴走の抑止という視点がなく、まさにこの『立憲主義』が反故にされていることだ。加えて、家父長制的な価値観を背景に人権の制限とも読める条文さえ折り込まれている。だが、それよりもっと驚いたのは、マスコミや市民の反発が、まったくなかったとは言わないが、非常に弱かったことだ。『憲法は権力者の横暴から国民を守るもの』という近代民主主義国家での常識が日本人の常識ではないことがあらためて浮き彫りになった

『空気』と『空気』の激突


戦争を実際に体験した人たちがたくさんいたころには戦前の体制の問題点が身にしみていたから、憲法の物語がどうあれ、戦争をしない/させないためのシンボルとして新憲法は『神聖不可侵』な存在に祭り上げられていた。戦後に立憲主義が浸透したのではなく、戦後は戦後の新しい空気が支配し、いわばその空気が憲法を守っていた。ただ、現実には『空気』が支配していたとはいえ、少なくとも(建前とはいえ)『法の支配』がある程度尊重され、形式的とはいえ機能していた。

だが、戦後長らく続いた冷戦も終わり、安全保障のスキームも変貌した現在、従来の憲法では必ずしも、世界の現実に対処できなくなってきたとする見解が出てくるのも不思議はない。だとすれば、正式な改正手続きにのっとって憲法を改正するのが筋だが、改正となると、あらためて国民を長らく支配していた、『神聖不可侵』の空気が復活しかねないと見た現政権は『解釈改憲』で突破を図ろうとした。安全保障上の危機が迫っているのに気づかない(幻想の平和という空気に支配された)国民を相手に憲法改正を迫っても、拉致があかないことはわかっているので、解釈改憲で乗り切れるだけ乗り切って、その後に憲法改正自体も目指す、というような判断をしたことが見て取れる。一方、これに反対する側も、あらためて戦争の恐ろしさをアピールして、戦争忌避という空気を糾合する戦術ばかりに偏っているように見える。

困ったことに、この経緯の中で見えてくるのは、『空気支配』を前提とした多数派工作ばかりだ。現在および近未来の安全保障のリアリティに関する議論も、立憲主義をないがしろにすることの問題点もほとんど議論の俎上に載っていないように見える。少なくとも双方の側が、相手側にある『理』を理解しあって議論を進めるという構図は一向に出来上がってくる気配がない。いや、『理』が説かれていないわけではないが、結局『空気』を変えるための賑やかしにしかなっていない。そうしているうちに、双方にある『理』は背後に退き、ぶつかり合っているのは、『感情』と『空気』ばかりになってしまっている。

空気に支配させると国は滅ぶ


ただ、いかに双方に言い分があれ、日本の舵取りを戦前、特に昭和初期のように、『人の支配』というより、日本の場合は『空気の支配』に委ねてしまうことだけは、何としても阻止する必要があると信じる。『空気の支配』が全面化してしまうと、善意、正義、精神性等、何らかの高等な価値意識が為政者個人に宿っていたとしても、感情的な満足や納得感はともかく、整合性の取れた戦略も戦術も構築できないことはいうまでもなく、他者(他国等)との協調関係の構築も望めなくなってしまう恐れが大だ。そして、理性的な判断や決断もできなくなってしまう。先の大戦は、そんな『空気の支配』の恐ろしさを伝える実例が満載だ。米国との戦争が国を滅ぼすとわかっていても開戦回避はできず、東京はじめ主要都市が焼け野原になり、沖縄が侵略され、広島、長崎に原爆が落とされても、戦争終結を決めることもできない。昭和天皇の『例外的』な決断が危ういところで日本を壊滅の危機から救ったものの、ギリギリの綱渡りだった。

21世紀の立憲主義を


確かに、西欧近代の歴史に背景を持つ現行の立憲主義にも、問題なしとはしない。それどころか、時代にフィットしなくなっている部分もあるかもしれない。21世紀の現実に鑑み、21世紀にありうべき理想像を構想することはもはや不可欠の状況というべきかもしれない。だが、最善かどうかは別として、現行の立憲主義が、他のものに比べればましであることは確かだ。だから、今はこの立憲主義をより日本の現実に整合するよう再検討することが一番現実的で、かつ未来志向と言えるのではないか。そのためには、あらためてこの思想が立ち上がってきたころの社会背景や原初の思想等を勉強しなおして、日本の、そして、世界の新しい現実(そして理想に)のために、どのような改革や進化を求めるべきなのか、徹底して考え抜くことが必要だと思う。

大穴に落ちないように


孫子の『兵は拙速を尊ぶ(作戦を練るのに時間をかけるよりも、少々まずい作戦でもすばやく行動して勝利を得ることが大切である)』ではないが、軍事(安全保障)でも、ビジネスの先端でも、『拙』であっても『速』を尊ばざるを得ないことは少なくない。まして『速』は現代世界の不可避の法則と言ってもよく、それは今後さらに拍車がかかってくることも避けられない。ただ、そうだからこそ余計に、容易に落ちてしまいそうになる大穴が足下に空いている現実を認識しなければ、本当に国を滅ぼすことになりかねないことは忘れるべきではないと思う

(2015年8月9日「情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)

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