佐野研二郎氏の事件の総括で見えてくる問題の最深部

デザイン盗用疑惑でバッシングを受けた佐野研二郎氏の問題は、調べれば調べるほど非常に教訓と課題に富んだケースであることがわかってくる。

■ 事例研究として最適なケース

最近になってやっと報道も落ち着いてきたが、東京五輪のエンブレムやサントリービールのキャンペーン用トートバッグのデザイン盗用疑惑でバッシングを受けた佐野研二郎氏の問題は、調べれば調べるほど非常に教訓と課題に富んだケースであることがわかってくる。今でもバッシングに苦しむ佐野氏やご家族にはお気の毒ではあるが、2015年のまさに今現在の日本社会の構造を見事に切り取って断面を見せてくれている。すでに様々な意見や感想も出揃って、中には優れた分析や評価も出てきているが、私も自分なりにこの問題を一度総括しておきたいと思っていた。

本件の経緯を断片的にしか知らないという人には、この機会に一連の騒動の全体像を把握してみることをお勧めする。というのも、個々の断面も実に教訓に満ち満ちているのだが、切り口によっては佐野氏の実像が正反対に見えてしまうくらいレイヤーが複雑に何層にも重なっている。だから、この複雑なレイヤーの統一体を全体として評価することは簡単ではない。だがこの複雑さこそ現代的な問題群を象徴しているとも言え、事例研究としては最適なケース/サンプルになっている。

▪ 賛否が分かれるブログ記事

佐野氏の記事がメディアを賑わすようになってから、ある著名ブログ(シロクマの屑籠)からバッシングの恐ろしさを懸念する印象的な記事が出てきた。

そうした“リアルの世論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察や裁判所や第三者機関を介するでもなく、リツイートやシェアやまとめサイトを経由して増幅し、テレビや週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。

(中略)今日日のインターネットには落ち度のあった人間を引きずり落としてやりたい欲求や、徒党を組んで誰かに影響を与える快楽*1が充満しているわけで、“ネット世論”は誰かを助ける方向以上に、誰かをバッシングし、誰かを引き摺り下ろす方向で働く可能性が高い。

ネットの暗い情念が“世論”と接続してしまう怖さ - シロクマの屑籠

このブログ記事に対して、著名人/ 識者はこぞって賛意を表明し、このような『集団リンチ』が連鎖し、抑えられなくなることを懸念する。この断面だけで言えば、過去何度も起きた、炎上事件の一類型とも言えるが、今回特徴的なのは、ネット世論の沸騰だけではなく、既存大手メディアの相乗りが目立ったことだろう。この数年、ネットメディアと既存大手メディアが同化とまではいわないまでも、同質化が進んでいることが指摘されてきているが、ネット世論の持つネガティブな面、時に盲目的なポピュリズムに大手メディアが相乗りして増幅することは、旧来の炎上の歯止めが失われることを意味し、影響力もスケールアップする。多くの識者が敏感に反応したのも無理はない。

ただ、このブログ記事についた、はてなブックマークによるコメント(いわば典型的なネット世論と言える)を丹念に読んでみると、本件を単なる『炎上』事件の一つとして、『リンチ』や『ポピュリズム』というようなステレオタイプな概念で片付け、避難するのは筋が違う、との批判が非常に多いことがわかる。佐野氏の場合は、その後事務所が落ち度を認めた、サントリービールのキャンペーン用トートバッグのデザイン盗用疑惑やその後に出てくる、過去の他の仕事の類似疑惑や無断使用のようなことを含めて、ネット世論が活発に活動することで、明らかに怪しいのにほっかむりしている佐野氏側の悪どい所業を暴くことにつながったのであり、いわば社会の浄化に貢献したのだ、という意見が大変多い。

▪ 理解されない業界常識

一番初めに問題になった、オリンピックのエンブレムについてだけ言えば、私の周辺の知的財産に詳しい弁護士は、『あれをパクリと断定するのは問題』と口を揃える。実際には裁判で争ってみないとわからないとはいえ、佐野氏が負ける可能性は低い、という意見が多いし、その点は私もそう思う。だが、それ以外の問題はどうなのだろう。

次のブログ記事は、その点について興味深い『暴露話』を披露している。少々長くなるが引用する。

大手広告代理店文化とはどういう文化なのかと言えば、すなわちこれこそがパクリ文化、パチモン文化です。私はこの問題が発覚し、それに続いてサントリーのトートバッグをはじめ、またぞろパクリ疑惑が噴出した時に「やっぱりね」と思いました。もう少ししっかり言うなら、「やっぱり電博出身だからね」ということです。

私もその昔、上場企業で宣伝広告部門を担当し、多くの大手代理店クリエイティブの皆さまとお付き合いをさせていただきました。まだまだネットは出始めの時代であり、今ほどあらゆるデザインがそこから手に入る時代ではありませんでしたが、彼らが出してくるポスターなどのラフ案数案は、必ずと言っていいほど「元ネタ」があるものでした。

なぜ「元ネタ」があることを知ったかと言えば、彼らと酒の席を共にした際に、私の「よく毎度毎度、いろいろなデザイン案を考えられますね」という感想に対して、彼らの一人が「実は元ネタがあるんですよ」「そんな毎度毎度オリジナルアイデアなんて考えて出ませんよ」「どこのデザイナーも基本は同じ。

他社のラフを見せていただければ、あー元ネタはあれだなとだいたい見当がつきます」…、などという暴露話を聞かせてくれたのです。

私はその話を覚えていて、彼らの職場を訪問した際にどうやって「元ネタ」を拾い、パクリのラフを作るのかも見せてもらいました。もちろん、著作権にも触れる恐れがあるとの懸念から、「このやり方は大丈夫なのか」と尋ねたのですが、彼の答えは「大丈夫。広告媒体で訴えられたなんて聞いたことないです。国内の有名な広告だって、だいたいが海外の広告のパクリです。そんなことでいちいち訴えたり、訴えられたりしていたら、僕らの商売は成り立たないですよ」と言うものだったのです。

佐野氏の対応に学ぶ「他山の石」総括?「逃げ」と「怒」の広報は自滅を招く(大関暁夫) - BLOGOS(ブロゴス)

これほどあからさまに語るかどうかは別として、実際にある種の『業界内常識』があることは、多少なりとも広告宣伝の仕事に関われば誰でも経験することではある。現行の著作権法自体が問題の多い法律であることは確かだが、少なくとも現行法を尊重すれば、『灰色からやや黒』と言える事例は実は結構多いことも確かだ。

▪ 理解されない『クリエイティブ』

ただ、『パクリ文化』『パチモン文化』と断じてしまうのは、少々気の毒な気はする。現代のクリエイティブとは、まったくの無から有を生み出すような創作だけではなく、オリジナルの変形や結合等の二次創作的なクリエイティブの『創作性』も認めらている世界であり、そういう点での慣習を無下に否定しさることは、ある種の文化の破壊を招くとする意見には、それなりの正当性はあると思うからだ。サブカルチャーの領域でも、『コミケ』*1や『ニコニコ動画の二次創作/多次創作』*2など、法的にはさらに違法めいた内容を含みながらも、一定の文化創出効果があることも昨今では認められていて、それを日本の重要な文化と主張する意見も少なくない。

複製、変形、結合。

これらは生物の進化において欠かせない現象です。細胞分裂という原始的な活動だけでなく、私たちのクリエイティビティにもいえることです。活版印刷から World Wide Web まで、私たち人類が作り出してきたものは「複製、変形、結合」を繰り返した結果といえるでしょう。私たちが無から突然生まれたものではないのと同様、クリエイティビティも進化の過程のなかから生まれています。

ソフトウェアや Web デザインは、複製、変形、結合の連続の世界。コードから設計概念まで様々な要素がリミックスされ続けています。世界中がネットワークで繋がるようになってから、リミックスのスピードがさらに加速してきています。その過程で、目を覆いたくなるようなリミックスもたくさん出てきていますが、次の段階へ進むための素晴らしいアイデアも生まれています。その過程に自ら参加して何か作り続けることがクリエイティブに欠かせない行為だと思います。

クリエイティビティとコピーについて : could

▪ 火に油を注いだ広報対応

ただ、今回のケースで決定的に問題なのは、デザイナーという専門家のサークルと一般人の常識の乖離があまりに大きいのに、そのギャップを埋めることには、これまでほとんど誰も取り組んできていなかったことだろう。加えて、上記に引用したブログ『日本一“熱い街”熊谷の社長日記』の大関暁夫が指摘する通り、佐野氏側の広報対応には、一般人とのコミュニケーションという点で、問題があったと言わざるをえない。

佐野氏の釈明会見の一部を抜粋すると、こんな感じだ。

また、私個人の会社のメールアドレスがネット上で話題にされ、さまざまなオンラインアカウントに無断で登録され、毎日、誹謗(ひぼう)中傷のメールが送られ、記憶にないショッピングサイトやSNSから入会確認のメールが届きます。自分のみならず、家族や無関係の親族の写真もネット上にさらされるなどのプライバシー侵害もあり、異常な状況が今も続いています。

今の状況はコンペに参加した当時の自分の思いとは、全く別の方向に向かってしまいました。もうこれ以上は、人間として耐えられない限界状況だと思うに至りました。

東京新聞:耐えられない限界状況 家族やスタッフ守るため決断 佐野氏コメント:社会(TOKYO Web)

大関暁夫氏はこれは危機管理広報としては、一番不味い対応だったという。

これは、「怒」の広報と言って危機管理広報において一番やってはいけない対応です。講演先の京都で報道陣に広報担当の佐野夫人が逆ギレしたという報道がありましたが、まさしく同じノリです。メディアに対する「怒」の広報は、敵を増やすだけであり確実に破滅に導く広報なのです。不祥事対応においてはどんなに理不尽な取材を受けようとも、それはある意味身から出た錆なのであり、「メディア=国民の代表」という意識を持った対応を忘れてはいけないのです。行き過ぎたメディア取材や心ない人たちへのクレームもそれはそれで理解できますが、まずは自身のお詫びありきであることを忘れてはいけません。

(中略)現実に危機管理広報で、メディア取材に対して逆ギレで破たんした例と言えば、雪印乳業社長の「私は寝てないんだ!」、焼肉えびす社長の「法律で普通の生肉をユッケで出すのをすべて禁止して欲しい!」という発言があります。いずれも、この発言が世間の大きな批判を買い彼らは程なく破綻しました。今回の感情的なコメントは、文書でこそあれそれに匹敵する「怒」レベルであると言ってもいいと思います。

佐野氏の対応に学ぶ「他山の石」総括~「逃げ」と「怒」の広報は自滅を招く - 日本一“熱い街”熊谷の社長日記

確かに、広報対応に熟達した企業からすれば、あのような釈明文では自ら火に油を注いでいるように見えるはずだと私も思う。このようなケースでの『セオリー』に反していると言わざるをえないからだ。広報対応/ネット世論とのコミュニケーションに熟達した企業という点では、かつてフジテレビの炎上事件に連座して、スポンサー企業として炎上や不買運動に苦しんだ花王など、今ではネット世論にも非常に気を使い、普段から自社サイトを使ってユーザーや潜在ユーザーとの地道なコミュニケーションに取り組み、自社の価値を伝え、ファンを増やし、いざ炎上ともなると、そのファンが火消しに回ってくれるようなことも起きているという。

インターネットが普及したことによる光と影は両方あるが、影の部分も現実として認めた上で、ユーザーとのコミュニケーションに取り組む企業は増えており、評論家の岡田斗司夫氏の主張する『いいひと戦略』ではないが、現代の企業にとって、この種のコミュニケーションの熟達が市場で生き残るための重要な要素になっている。佐野氏のケースでは、そのようなコミュニケーションに慣れていなかったことも騒ぎを大きくしてしまった面は否めない。

▪ 昇華と劣化

だが、それでも尚、今回のようなバッシングを認めるわけにはいかない。このようなバッシングが増えるようになると、『嫉妬』『恨みつらみ』等、ネガティブな『空気』を吸い込んで怪物化し、無制限に広がる恐れが多分にある。特に日本の場合は、コントロールが難しい『空気』や『気分』が今尚強く社会を支配しており、このような現象には万全の注意をはらう必要があると思うからだ。また、昨今、社会学者の宮台真司氏がよく指摘するような、日本社会の『感情の劣化』が著しいことも見逃せない。従前のような『社会の良識』があてにならなくなってきていて、社会に冷静なバランス感覚や抑止力が失われているように見える。

ネット世論に伏流する『感情』について言えば、社会学者の濱野智史氏と評論家の宇野常寛との共著『希望論』*3で指摘されているように、日本的のインターネットの特性(匿名性と趣味に没入没頭するエネルギーの強さ)に充満する『非論理的/非言語的なパワー』は、活用の仕方や出口を間違わなければ、『創造力』に昇華できる可能性を秘めていることは確かだし、それをうまく活用できれば日本経済の活性化にも寄与する可能性は失われていない。

また、濱野智史氏が別の著書『前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 』*4で述べるように、社会との関係を切断して閉じこもりがちになるネット民やオタクが、アイドルという商業的なシステムがきっかけであれ、双方向のコミュニケーションを取り戻していくことは、それこそ、枯渇してしまった感情の井戸を掘り起こす可能性を広げることにもつながり、肯定的に評価できる点はあるだろう。掘り起こした感情をさらに昇華させ、自らの愛情の対象を広げ、奉仕や自己犠牲の高みにまで到達できる可能性もあるかもしれない。

ところが一方で、この感情が劣化し、退廃して、嫉妬や劣情、怒り等のネガティブな方向に退転する恐れも多分にある。問題は、感情をネガティブな方向に向かわせずどう昇華させるか、という議論が欠けていることだ。ここに至れば、本来、『個の超越』『普遍』『無私』『慈悲』等、いわば形而上学的な領域に足を踏み入れてでも、徹底して探求すべきところなのだが、哲学者の東浩紀氏が最近ことあるごとに口にするように、今の日本では、オウム事件のトラウマが強すぎて、宗教的な問題はおろか、超越、崇高、神秘等、形而上学の領域を語ることをタブーとする空気が重くのしかかっているため、この種の議論が社会の表舞台からはほとんんど消えてしまっていて、わずかながら残ったものも、衰退の極みにあることだ。こんなことでは、社会の倫理観の立脚根拠がますます薄弱になり、やっていいこととそうではないことの区別さえつかなくなってしまうだろう。(もうそうなってきているというべきか。)

自分が不幸にしてバッシングを受けてしまったら、受けた当人には『人の噂も75日』と開き直る強さが何より必要だが、社会の側は、この機会に、『感情』『非言語コミュニケーション』『形而上学』等の問題を徹底的に考え直すきっかけにすることが重要なはずだ。佐野氏の問題の最深部には、やはりこの課題がどっかと鎮座しているように、私には見えてしまう。

このごとく、佐野氏の問題は、一過性の祭りにして済ましてしまうような問題でもなければ、他人事でもない。一人一人、胸に手を当てて十分に時間をとって塾考してみる価値がある、ということをあらためて指摘しておきたい。

(2015年9月21日 「情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)

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