シンクロすべき技術の進化と社会の進化

今は、いたずらに新奇な情報にばかり振り回されず、本質的な問題を整理し直して備えるべき時と言えるのではないか。

■ フェーズは変わってきている?

昨今、人工知能等のハイテク技術に関わる議論は実に賑やかで、相変わらずメディアには多数の記事が飛び交っている。ところが、一方で妙に心騒がない自分がいる。情報は従来以上に大量に押し寄せてくるが、目新しい視点や本質的な指摘等で驚きを与えてくれる内容は少なくなって来た印象がある。もちろん、中には、限界領域を少しでも押し広げ、議論の行き詰まりを突破すべく真摯な取り組みも行われていることは確かだ。だが、全体としてはどうしてもある種の倦怠を感じてしまう。自分ばかりがそう感じているのかと思いきや、同意してくれる友人知人が思った以上に多い。やはりフェーズは変わって来ているのではないか。考えてみれば、新技術が登場した場合には、それによって生じる過度の興奮や誇張で当初は大きく賑わうが、次の段階ではその過度の興奮は非現実的な期待や予想を生み、成功事例が追いつかず、技術はその過度な期待に応えられずに急速に関心が失われる、というサイクルがあることを指摘した、ガートナー社のハイプ・サイクルについては、私自身何度か取り上げ的来たことでもある。ハイプ・サイクル - Wikipediaもっとも、だからといって技術進化のスピードが落ちているわけではない。むしろ進化のペースは上がっている。この半年くらいに限定しても、人工知能が囲碁の世界チャンピオンを撃破するような驚くべき進化に目を見張ったばかりだったりする。社会の過度な期待に応えられないどころか、時が進むごとに、技術が開く可能性に社会が圧倒されて目が眩んでいるというほうが実態に近い。ただ、この技術進化の影響が超弩級であることが浸透するにつれ、予想通りというべきかもしれないが、社会や人間の側からの反発、懐疑、違和感が意識的にも無意識的にも胎動し始めている。ハイプ・サイクルで停滞が起きるのとは違った意味で、様々な壁や天井の存在を意識せざるをえなくなってきているように思える。技術進化の影響の大きさを無視して、未来社会を構想することはできないと確信すればこそ、今後は単なるお祭り騒ぎのような楽観的な高揚感を煽るだけではすまなくなることを確認することは、私にはとても大事なことに思える。今は、いたずらに新奇な情報にばかり振り回されず、本質的な問題を整理し直して備えるべき時と言えるのではないか。

■ 拭えない違和感

その点で言えば、以前からずっと気になっていたのが、シンギュラリティの概念を最初に提示した、発明家でフューチャリストのレイ・カーツワイルや彼の信奉者のあまりに楽観的であっけらかんとした姿勢だ。彼らは、テクノロジーの恩恵(人間の労働は不要になり、病気は克服され、寿命は驚異的なほど延長される等)は無条件に良いものという揺るぎない(有無を言わさぬ)信念に貫かれている。そして、確かにその点について言えば、彼らの夢想する未来像は、一見非の打ち所がないように見える。だが、本当にそうだろうか。人間にとって、物理的に長く生きることだけが本当に幸福なのだろうか。長く生きることだけが本当に充実した人生だろうか。短くても燃焼し、充実した人生もあるはずではないか。自分の生を犠牲にしてでも誰かを生かすことのほうを選択する人は厳然と存在する。そんな決意は時に生を眩いばかりに輝かす。本来、生と死は分かつことができない表裏一体の存在のはずなのに、死を遠ざけ、生ばかりが無為に延長されてしまって、本当の生の意味はわかるのだろうか。生きる意味もわからないのに、時間だけ長い生を人は本当に望んでいるのだろうか。試しに、周囲の人に、特にある程度の歳を重ねた人に率直に聞いてみるといい。長く生きることではなく、良く生きることが大事だと、諭してくれるのではないか。少なくとも、レイ・カーツワイルの想定する未来を生きたいと本気で賛成してくれる人が意外なほど少ないことに驚いてしまうはずだ。この『ギャップ』を単なる妄想や妄念と退けてしまってよいのだろうか。

■『ギャップ』を知ることが大事

昨今、『インターネットの夢の挫折』という話題をよく目にするようになった。インターネットの可能性はもちろん非常に大きなものがあったし、今後とも大きいことは間違いないが、インターネット導入当初に夢見られていた理想的な未来、すなわち、人々の相互理解が深まり、新しいアイデアと知恵が生まれて世の中がよくなる、というような未来は、その通りに実現しているとは言い難い。インターネット導入当初は、そこに参加している人が、インターネットの善を信じ、誹謗中傷は厳に慎み、同質な意見を持つ人たちばかりだったから、インターネットの未来は非常に輝かしく見えた。しかしながら、現在のように誰もがインターネットに参加するようになると、参加者は玉石混交で、むしろ数は石のほうが圧倒的に多い。残念なことにそれが社会の実態であれば、初期の頃の参加者の理想通りに展開しないのは当然とも言える。そのごとく、人工知能等の技術についても、近未来の社会を想定して何らかの準備を始めようと思うのであれば、この『ギャップ』について、真摯に分析して、正体を知った上で、必要な対策を考えるなり、意識改革や教育を進めるなり、もっと本質的な問題にアプローチして解決していく必要がある。ビジネスの展開を考えるにあたっても、実現性の高い未来予測をしたければ、楽観論者の言うことばかり聞いているわけにもいくまい。

■ 社会も進化する必要がある

では、この『ギャップ』の正体は何だろう。非常に雑駁に言えば、まずは『社会』ということになろう。(若干意味を広めに、習俗、習慣、思想等を含む)あまり単純化して述べると、想定外の反論を受けてしまいかねないが、レイ・カーツワイルは技術決定論(=技術が社会を変える)の立場を代表しているいえるだろう。だが、技術決定論に対しては、その対極にあるともいえる社会決定論(= 技術を決定するのは社会である )の支持者からの手厳しい反論がある。彼らは技術進化では社会は変わらないと強く主張する。ただ、技術決定論も、社会決定論もその両極は少々妥当性に欠けると私は思う。その中間というか、折衷案が現実的とも言え、今後はその最も妥当な折衷案の相貌を明確にしていく(し続けていく)必要に迫られていくことになると考える。今後、過去に例のないほど技術の影響が大きくなることは決定的といっていいが、社会はそれを後押しすることもあれば、邪魔をすることもある。妥協点を見つけて相補的な発展を遂げることもあれば、社会自体が衰退し、場合によっては滅びてしまうことだってある。逆に言えば、相補的な、あるいは弁証法的な発展を遂げる社会は生き残り、進化するが、それができなければ、他の社会や国家に対して相対的に地位が低下していくと考えられる。グローバル化した世界では、その動向に背を向けて、他の世界と切り離されてガラパゴス状態になれば、経済的には大幅な規模縮小を余儀なくされ、困窮してしまうだろう。だから、生き残りたいのであれば、技術進化に併せて社会もまた進化する必要がある

■ 近未来の問題はビジネスチャンスの扉

前回のブログエントリーでも述べた通り、近未来は、程度やスピードの違いはあれ、どの社会/国でも『テクノロジー過剰』を前提とせざるを得ない。そして、これまた非常に雑駁だが、そうなった場合に否応なしに起きてくるであろう日本社会での問題点を下記の通り思いつつままに列記してみた。プラットフォーム化が全領域におよぶ近未来とその問題点について - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る・民主主義的正当性の喪失・一部企業の支配の行き過ぎ・政府介入/管理のしにくさ・国家が超巨大な権力を持つ恐れ・社会システムの急激すぎる変質・商慣行/暗黙知等の一掃・企業内コミュニティの破壊・交換の多義性の衰退(贈与等)・技術決定論の暴走と反撃問題への対処の仕方には、法学者のローレンス・レッシグが述べたように、少なくとも4つの視点(法、アーキテクチャー、社会規範、市場 )があるわけだが、できる限り4つのバランスを取ることが求められる。それが、社会が技術進化の真の果実の恩恵にあずかり、かつ持続可能性を高めていくための鍵となる。非常に難易度が高いパズルだが、そのパズルがうまく解けるかどうかが、その社会の未来を決めることになる。しかも、4つの視点といったが、これにさらに『時間』の概念を持ち込む必要がある。短時間の間に目の眩むようなスピードで進化する技術を前提とするのであれば、時間による変化を先取りし、かつ、自ら変化を厭わず、恒常的に進化し続ける必要がある。ちなみに、市場という点で言えば、これはビジネスチャンスを見つけるための切り口とも言える。『高齢化が進むだろうから介護ロボットを市場投入する』、という類の策はもちろんわかりやすい戦略ではあるが、不可避の過当競争が待っているだろうし、先行しても、競争の軸が見えやすいから技術が優れた巨大企業にあっという間に追いつかれ、取り込まれてしまうだろう。だが、テクノロジー過剰社会で、社会や人間の側が感じる不安、不満、違和感等が生じるなら、これこそ市場ニーズというべきで、ここのところにうまくサービスや製品を投入することでその解消を図ることができるなら、それは成功に続く道に繋がっているといえる。そこでは、社会や文化、そこで暮らす人間を知ることが重要な成功要因になるだろうから、技術や資本で勝る海外のグローバル企業でも容易には追いついてこれないビジネスを構築できる可能性も広がる。ローカルな日本企業にも、いや、日本企業にこそチャンスがあるということだ。しかも、社会や人間の側が感じる不安、不満、違和感等は日本に限らないだろうから、日本市場だけでは市場規模が小さすぎてビジネスにならないような場合でも、世界中の小さなニーズを集めてそれなりに規模にするようなこともインターネットが普及した現代のような時代には可能だったりする。無論、そのために余計な規制は撤廃して市場の自由度を上げておく備えは不可欠だ。

■ 『人間』とは何か

また、『ギャップ』についてさらに言えば、『人工知能が人間を超える』という言説が巷間で話題になればなるほど、『人間』とは何かという問いがむしろ深まってきて、『人間』の再発見ともいうべき事象が起きてきている。しかも、人工知能等の技術の最前線にいる研究者にこそ、人間に対する考察を深め、独自の哲学を有している人がいるように見える。この点について、興味深い視点を提供してくれているのが、作家の海猫沢めろん氏の最新の著作、『明日、機械がヒトになる』*1だ。現在進化しているテクノロジー(人工知能、ロボット、3Dプリンタ、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)、SR(Substitutional Reality)等)は、人間や知性の意味を変えてしまいかねない可能性を秘めており、『人間と機械がどう違うのか?』『この世界では、人間(生物)が機械化し、機械が人間(生物)化しているのではないか?』との疑問を感じた海猫沢氏が最新の科学の現場で専門家に取材して、その成果をまとめた本だ。私は、海猫沢氏の意図した通りにこの本を読めたとは思えないが、少なくとも私自身の同種の思考をおおいに活性化してくれたことは確かだ。例えば、SRだが、これは代替現実の略で、この技術の実験は実に興味深い。被験者にパノラマビデオカメラ付きのHMD(ヘッドマウンド・ディスプレイ)をかぶせ、被験者とコミュニケーションしながら、こっそりとカメラに過去の映像や、つくられた映像を混ぜ合わせると、被験者にはそれがいま目の前で起きている現実なのか、つくられた虚構の映像なのかわからなくなるという。本書でも語られているが、このような体験を何度か(あるいは一度?)すると、そもそも自分が普段生活して見ているものも、事実なのか虚構なのかわからなくなってくるという。これは結構本質的な問題で、現実世界の中で事実と思っていたが、単に夢を見ていた、あるいは、映像を見せられているだけではないか、という哲学的な問いにあらためてリアリティを感じてしまうということだろう。荘子の『胡蝶の夢』(夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話)のような説話を思い出してしまう。

■ 『私』とはただの妄想?

このようなSFのような話でなくても、そもそも人間は自分の見たものを存在すると信じ、自分の眼前に展開する世界の存在を信じているが、実際には、様々な偏見や思い込み、勘違い、妄想等により、事実を歪めて見ているに過ぎないのであり、そうして『見られたもの』は決して、そのもの自体ではなく、そのように『見られたもの』で構成された世界は、ほとんどがイリュージョンと言っても過言ではない。これはまさに仏教思想そのものともいえる。そんなイリュージョンの中に身を置き、その世界から照射された自己像を『自分』と信じているというのも、考えてみればいいかげんな話だ。そんな『私』とは一体何だろう。本当の『私』というものがあってもなくても、少なくとも今認識している『私』のほとんどは妄想の産物というべきだろう。(妄念を払い、正しく見ることができれば悟れるという仏教思想が正しいかどうかは、ここではこれ以上語らない)。近代西洋思想の核とも言える、デカルトの『我思うゆえに我あり』という命題には、私は昔から違和感を感じてきた。思う我自体が妄想や幻想ではないか、という思いがこの命題を知るずっと以前から自分の心の奥の方に鎮座していたからだ。驚いたことに、本書でも出てくる、人間そっくりなアンドロイド製作でも有名な、ロボット工学者の石黒浩氏は、『心』や『私』なんてない、と断言する。人の心というのは、互いに心があると信じているから、存在できる概念だという(石黒氏も仏教関係者から講演を依頼されたりするという)。このように少し考えてみるだけで、『人工知能が人間を超える』という時の『人間』は何なのか、それほど簡単な問題ではないことがわかる。人間との共生といっても、人間と機械との境界はそれほどはっきりと引かれているわけではない。しかも今後はどんどん曖昧になっていくと考えられる。

■ 近未来を健全な場所にするために

私自身、これからは『技術ドリブン』の世界になると以前申し上げたことがあるが、単純な『技術決定論』を述べたつもりは毛頭なく、いやおうなく技術が人間社会に挑戦状を叩きつけ続けるようになる、というのが含意だが、近未来を人間が生きるのに健全な場所にするためには、文化・思想・社会科学の側、すなわち、文科系に分類される学問の側の活躍が望まれるところだ。そんなものは皆人工知能がやってくれる、というのは少々結論を急ぎすぎているように思える。少なくとも当面はやることはいくらでもあることを忘れないで欲しい。(2016年6月6日「風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)

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