テクノロジーの進化の先にあるのはユートピア? ディストピア?

あらゆる意味で変化と混乱の時代をどのように理想的な未来に向け乗り切っていくのか、テクノロジーの問題以外にも、文科系が取り組む課題も大変多い。

■視点を遠くに

前回ブログを更新してから、体調を崩して(風邪をひいて)、中々体調が元に戻らないのでブログの更新もすっかり遅れてしまった。ここしばらく、新しい技術のもたらす、具体的な問題点について領域を絞って書いていこうと思っていたので、昨今、法制化の報道等もあって非常に賑やかな『ドローン』に関わる問題でも書こうと思っていたのだが、しばらく本も読めずに臥せっていると、どうしても視点が近くより遠くに向きがちになる。まあ、このような時にもそれなりに何かを書いておくことがブログの意味とも言えるような気もするので今書ける何かを書いてみようと思うが、準備不足は否めず、論理の積み上げより、感想に比重を置いた語り口になるかもしれないので、そこのところはご容赦いただきたい。

■技術駆動型の予想があたった2015年

2015年の年頭所感として、『世界がますます『テクノロジー・ドリブン(技術駆動型)』になっていくと予想して、人工知能等デジタル技術が大きな話題になって行く、というようなことを書いたが、2015年もそろそろ年末に向かう今振り返ってみると、予想どおり(というより予想を超える勢いで)、『人工知能』やら『自動運転車』やら、『ドローン』やら、日本のマスコミにも大量の情報が溢れ出るようになり、一般のビジネスマンにも届くようになった。中でも日経グループの力の入れ方は凄まじく、新聞紙面でも関連の記事を目にしないほうが珍しいくらいの状況になった。こうなってみると、あまりの情報の多さに読者の側が消化不良気味で、大抵の人は世界はいったいどうなってしまうのか考えをまとめ上げることなど到底できないと観念して、茫然自失状態になっているように見える。

▪限界費用ゼロ社会

そんな中、この動向が行き着く先の全体としてのイメージを提示した上で、それが実現した未来社会における経済社会等について語る、というタイプの論説が出始めている。代表的な著書に、著作家のジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』がある。ジェレミー・リフキンと言えば、個人的には80年代に地球物理学者である竹内均東京大学名誉教授の翻訳で出版された、『エントロピーの法則』の著者としての印象が強いが、近年では脱原発後の社会のビジョナリーとしても注目されるきっかけとなった『第三次産業革命:原発後の次代へ、経済・政治・教育をどう変えていくか』も印象に残る一冊だった。

『限界費用ゼロ社会』では、IoT(モノのインターネット)を中核にフィーチャーして、コミュニケーション、エネルギー、輸送の『インテリジェント・インフラ』が形成されることで、効率性や生産性が極限まで高まる結果、単位あたりの製品やサービスに必要なコスト(限界費用)がゼロになり、製品もサービスも無料となる未来社会を描く。そうなれば、当然企業の利益の源泉も消滅することになるから、現状の資本主義はその成立基盤を失うことになる。その代わりに共有型経済(シェア・エコノミー)が台頭すると語る。

本書におけるリフキンの論説は二つに分けて検証する必要がある。前段の、『エネルギーや物流コスト、労務費を含めた限界費用が本当にゼロになるのか』、という点と、後段の、『そうなった場合の経済社会のあり方として、共有型経済(シェア・エコノミー)が本当に主流になるのか、そもそも既存の資本主義の根幹が揺るぐような文明史的な大転換を共有型経済(シェア・エコノミー)という単一の代替物だけで語ることが可能なのか』、という点だ。前段がなければ後段もないから、とりあえず前段だが、その蓋然性はどの程度のものなのか。

▪エクサスケールの衝撃

興味深いことに、元医者で、PEZY Computing創業者であり、学生時代から日米で10社もの会社を立ち上げてきたシリアルアントレプレナーという非常に特異な経歴を持つ、齊藤元章氏の著書、『エクサスケールの衝撃 次世代スーパーコンピュータが壮大な新世界の扉を開く』の構成がリフキンの新著と瓜二つだ。違うのは、IoTに対して、人類が初めて到達することになる『エクサ』という単位の驚異的な演算性能(現在最高性能の『京』の128倍!)を獲得しようとしている『スーパーコンピュータ』が原動力になるとすることと、そうなった場合の社会のイメージが(一部リフキンの主張とも重なるが)齊藤氏なりの理想像で描かれていることくらいだ。

『エクサ・コンピューティング』が、昨今すっかり有名になった発明家のレイ・カーツワイルらの言う『特異点(シンギュラリティ)』の前に『前特異点』とも定義すべき大きな変革をもたらす可能性を秘めており、『エネルギーがフリーになる』『働く必要のない社会が出現する』『人類が不老を得る』等、リフキンの想定する未来像を更に大きく超えた楽観的な未来像が語られている。詳しくはここで紹介する余裕がないが、両書をざっと読んだ私の感想を言えば、齊藤氏の主張の方が緻密で首尾一貫しており、私のように技術理解が今ひとつのビジネスマン諸氏でも、比較的納得し易いように思える。もちろん、来年、再来年、あるいは3年後といった未来ではなく、10年~20年というレンジが想定されているとはいえ、これはものすごいパラダイム・チェンジというしかない。しかも、斉藤氏の見立て通りなら、3~5年後の近未来にも、その大変化の兆しが広く社会に顕現してくることになる。

すでに断片的には、『人工知能/ロボットが人間の仕事のほとんどを奪う』とか、『エネルギー効率や物流効率が限りなくゼロになるくらいに効率化される』という未来像はそれぞれかなりの信憑性を持って語られ始めていることは、ご存知の通りだが、その延長に結ばれる焦点(大円団というべきか)には、分配の仕組みがきちんと機能していれば、人間が働かずともすべて機械が肩代わりしてくれて、人間は生産から切り離され、本当にやりたいことに集中することができる、という楽観的な未来像を想定しうることは、凄まじい勢いで進化する昨今のテクノロジーの動向をフォローしている人であれば、多かれ少なかれ頭をよぎる想念の一つと言えるように思う(かく言う私もその一人だ)。

▪ディトピアとなる可能性も

もっとも、楽観的な未来像が描きうるからといって、本当にそうなるかどうかは、正直まだ疑いを差し挟む余地は多く、それどころか場合によっては、ディストピア(ユートピアと正反対の社会)となる可能性も否定しえない。生きるための生産活動から切り離されれば、心理学者のマズローの欲求段階説で示されたように、人の欲求/欲望も、より創造的な自己実現欲求等にシフトしていくことは大いに期待できるとはいえ、一方で、麻薬やセックス、過食、暴力、支配欲等に溺れる人々が続出する可能性もあるのではないか。宗教対立、民族対立等も緩和される可能性も開かれるとはいえ、より抽象度の高い深刻な対立が激化する可能性だってある。

『衣食足りて礼節を知る』ことは確かだろうし、現に生活の不自由から切り離された米国の富裕層の巨額な寄付等、確かによりレベルの高い欲求の現れと見ることも可能だが、一方で何百万人にものぼる生活困窮者にその富が配分されていくようなことはなかなか実現しない。寄付文化はキリスト教の影響の元に実現しており、『自助努力』が道徳意識の根幹にある米国人は、富があっても努力なき者には配分しようとしない。このごとく、いかにテクノロジーの進化で製品もサービスもタダになったからといって、自動的に世界にユートピアがやってくるというのは、楽観的に過ぎる。

本当に理想的な世界を迎えるためには、物的な欠乏が解消されることは必要条件ではあるだろうが、十分条件とは言えない。それ以上に、その社会の思想、文化、宗教意識等の成熟度、洗練度のほうが重要であることは、この際、再認識しておくべきだろう。楽観的で創造的な未来は、生産が不要になれば自動的にやってくるのではなく、やはりなんらかの努力で創っていくべきものではないかと思えてならない。それに、不老不死が本当に満足できる人間の在り方なのか、生は死があるからこそ輝くものではなかったか。人々が生産から切り離されて、そのような高尚な疑問に集中的に取り組めるようになるならそれこそ大いなる救いとも言えるが、いずれにしても、考えるて見るべき課題は意外に多い。

▪文科系が取り組むべき課題も多い

もちろん、楽観的/理想的な未来像を構想しうることは大変喜ばしいことだ。それに向けてどのような道をひけばよいのか、考えるべきことの的を絞ることができる。将来がまったく見通せないことに比べれば、そういう前提を置けるだけでもぜんぜん違う。しかしながら、これほどのパラダイム・チェンジが起きるとなると、既存の勝ち組が負け組に転落することを意味するし、そういう兆しが出て来れば、経済合理性より、まず、嫉妬、怒り、闘争心など、不合理な感情がぶつかり合うことを想定せざるをえない。今世界はテロと報復の連鎖という、旧来の合理性を超えた、『戦争状態』に突入しているとも言えるが、今後は身内どうしでも生き残りをかけた闘争が始まる恐れもある。あらゆる意味で変化と混乱の時代をどのように理想的な未来に向け乗り切っていくのか、テクノロジーの問題意外にも、思想、歴史、宗教、文化の理解等いわゆる文科系が取り組む課題も大変多いことはあらためて強調しておきたい。

(2015年11月30日 風観羽「情報空間を羽のように舞い本質を観る」より転載)

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