朝日新聞を「育てる」

ネット環境が進化してから、紙の新聞を読まないことが一つの「スタイル」となった。論壇誌、週刊誌、タブロイド紙、ネットの朝日新聞バッシング・フェス(祭り)を見てみても、これは市民権をえた生き方となりつつあるようだ。

ネット環境が進化してから、紙の新聞を読まないことが一つの「スタイル」となった。論壇誌、週刊誌、タブロイド紙、ネットの朝日新聞バッシング・フェス(祭り)を見てみても、これは市民権をえた生き方となりつつあるようだ。一昔前までは、新聞くらいは毎日目をとおすことが大人の「スタイル」だったはずなのに。

朝日を購読するようになって、長い。いわずとしれた名物、しばしば高みに立った宣教師的リベラリズムとのつきあいも長いことになる。ここ10年くらいの朝日は、ゴーイング・マイ・ウェイをいっていた感がある。善くも悪くも「個性化」が深まったのだろう。私としては、他紙に「横ならび」の没個性な紙面よりましかもしれないと思っていた。

だが、個性を強めるようになったら、これである。遅きに失した慰安婦問題の記事取り消し、池上彰氏のコラム不掲載、福島第一原発事故の吉田調書の記事取り消し、幹部や記者の不祥事・醜聞。糾弾は今後もしばらくつづくだろう。

実は、この朝日叩きを前にもっとも戦々恐々としているのは、他の全国紙の関係者だと思う。国政選挙では地すべり的勝利(一党の圧勝)の現象がつづいているが、おそらく重大な虚報・誤報をおかした新聞への地すべり的バッシングも見なれた光景になってゆくのではないか。ターゲットに集団襲撃するスズメバチの群れを想起させる光景は、あまり美しいものではないけれど。

一購読者として、朝日のこの度の生煮えの態度には当然不快感がある。同時に、やいのやいのと朝日批判がくりだされるのをよそに、理性的な批判者らの声がかき消されている状況が、何とももどかしい。朝日を擁護する気はないが、このバッシング・フェスの一翼を担うのもイヤだ、と思う市民は少なくないのではないか。

慰安婦問題の報道を検証する第三者委員会の中込秀樹委員長は、10月9日の初会合のあいさつで「場合によっては新聞社自身、解体して出直せとなるかもしれない」と述べた。そこまで朝日が追い込まれたのは、戦後の社史において初めてであろう。

朝日なんて読まなくていいじゃん、との思いはたしかにわかる。説教くさいリベラリズムを上から振りかざす。中国・韓国にやさしすぎる。いろいろな思いがあるだろう。今年7月の解釈改憲前後には、戦争前夜のウォー・スケア(戦争が起きるのではないかと恐怖心をあおる報道)さながらのキャンペーンが張られ、さすがに眉をひそめた。

それでも、この新聞をいま見かぎるのはもったいない。地に落ちた権威がいかにはい上がるか(はい上がらないか)を見とどける醍醐味を読者として味わえることは、そうそうないのだから。それに、高みに立った説教おじさんや先生が消沈したらしたで淋しい。朝日が沈没したら、「サヨクの妄言」を叩きたがる人も振り上げたこぶしをどこに落としていいか、わからなくなるかもしれない。

たしかに眉をひそめる記事はある。客観性と主観性が混ぜあわさった記事の悪いお手本もある。それでも、近年この新聞は紙面改革に取り組んでいた。中でも「おぉ」と思えるのは、定期的に載るインタビュー記事である。かなり積極的に、挑発的な質問をぶつけている。ときに相手がたじろぐこともあるくらいで、読んでいてニヤリとすることしばしば。

また、上から目線のリベラリズムにもとづく、朝日スタンダードに反する論客の意見も増えつつあると感じられる。さいきんでは、日本の軍国主義化の懸念は根拠がないと指摘するデビッド・ウェルチ「根拠ない恐れに終止符を」(10月4日付)が、従来の朝日の論調とは正反対の内容であった。多様な意見の器としての新聞であるためにも、こうした記事の掲載はもっと充実化すべきだろう。

もちろん、これだけでは、去っていった読者は戻ってこない。ここで共感できるのは、朝日新聞紙面審議会の湯浅誠委員が提案する、朝日の幹部と市民によるタウンミーティングの開催である(9月26日付)。そして幹部のみならず、世間ずれしているかもしれない記者らも、市民のナマの声を拾う時間をつくるべきではないか。政権がこれをおこなうとき、朝日は形がい性を強く批判してきた。この際、朝日が「タウンミーティングはこうでなくちゃ」というお手本を示すというくらいの気概は持ってほしい。

また、他の全国紙同様、朝日もまたNIE(Newspaper in Education)活動に力を注いできた。今どき、記事をしっかり読みこんでステキなオトナになりましょう、と新聞を学校の授業で使う先生は少ない。今後は、新聞記事の批判的な摂取というメディアリテラシーこそ、ますますNIEの柱の一つとなりゆくだろう。

そこで、未来の読者のみならず未来の記者の開拓のためにも、現役記者や幹部みずから教育現場におもむくのはどうか。「なぜ誤報はあいついだのか」「誤報のプロセスはどのようなものか」「それでも新聞記者をつづける理由は何か」「全国紙として朝日が残ろうとするなら、その意義は何か」を中・高の生徒と考えるのである。10代の子どもの言葉はときに辛らつで口さがない、それだけに胸にずしりとくる。この洗礼を受けてこそ、朝日の宣教師的リベラリズムはよりニュアンス豊かなものとして再生するかもしれない。

では、読者はこの新聞とどう付き合うべきか。これに関して、一つ思い出すことがある。

2002年9月17日の小泉訪朝の際、金正日総書記が日本人拉致の実行をみとめた。これより後、親族を中心とする在日朝鮮人コミュニティが「北朝鮮にだまされた」と嘆息し、怒る光景を私は見せつけられた。それまでは日本の公立校・私立大で教育を受けてきた私をなじり、「民族意識」が足りない、北朝鮮を愛せと叱咤してきた彼・彼女らが、手のひらを返したかのごとく「祖国」を責めたてはじめたのである。

ゾクゾクっとした。うすら寒かった。それはちがうでしょ、すすんでだまされてきたのにそのザマはなんだ、と思った。北朝鮮による拉致はだいぶ前からほとんど公然たる事実だったのだから、それを見ようとしなかったのは、まちがいなく彼・彼女らの責任である。

他紙や保守派が「それ見たことか」と朝日を非難するのは、まだ理がある。しかし、誤解をおそれずいえば、朝日の購読者らが一連の慰安婦報道について「だまされた」というのには、一抹の自己欺まんがあるのではないか。とりわけ、吉田清治による「慰安婦狩り」の証言は、その信憑性がマユツバであることは早くから疑われていた。

すくなくとも、これからは新聞を「信じる」ほうにも半ば責任があることははっきりしている。一つの新聞報道を他紙やネットでクロスチェックする責任は、読む側にある。今後は、新聞報道に「だまされたといってだます」態度は認めがたいだろう。厳しい世の中になった。

読者として、高みに立った朝日新聞のさらに「上」をゆき、マウントをとるくらいの姿勢で、ツッコミを入れながら紙面に向かうということ。それが、落ち目の全国紙を「育てる」唯一の方法だと思う。新聞に「育てられる」だけの時代ではもはやないし、それは悪い時代ともいえない。

ひとまずはヤセがまんをつづけ、この新聞の今後を見とどけようと思う。ひょっとしたら「解体」されゆく新聞の、最後の「白鳥の歌」を聴きおさめることになるかもしれないが、それもまたこの新聞に長らく付き合ってきた読者の責任だと思うから。

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