日本軍慰安婦問題を考える

20年以上悩みに悩んだ慰安婦問題は、私の単純な担当業務の一つではなく、時には哲学的考察の対象でもあった。国家とは何か、個人とは何か、そして「実現可能な次善」と「実現不可能な最善」の間で何を選ぶべきなのか。

24年前の1990年1月4日、尹晶玉(ユン・ジョンオク)梨花女子大学教授が、ハンギョレ新聞に「挺身隊取材記」を連載し、翌年8月14日に故・金学順氏が、慰安婦に強制動員されたことを初めて公開の場で証言した。日本軍慰安婦問題はこうして始まった。

その時私は、東京の韓国大使館に勤務する29歳の若い外交官だった。慰安婦問題をはじめ強制徴用者、サハリン韓国人問題など歴史問題が私の担当で、机に座っているよりは足で駆け回ろうと、関連の行事にはどこでも足を運んだ。特に、東京で韓国人の被害者が提訴した裁判がある日は欠かさず法廷に出て、傍聴して本国に報告書を送った。日本の外務省の担当職員が私に「あまり熱心に通うと右翼が攻撃してくるかもしれないから、夜道に気をつけて」と、それとなく圧力をかけることもあった。

しかし、3年余りの東京勤務を終える頃には、一人でどんなに悩んで走り回っても、日本との歴史問題は解決が遠ざかるばかりという絶望感に心身ともに疲れ果てており、こんな業務から逃げ出したいというのが率直な感想だった。20年がたち、外交部の担当局長になり、再び慰安婦問題と向き合うことになり、外交部をやめた今もこれほど関わっているのを見ると、何か運命のような縁を感じている。

20年以上悩みに悩んだ慰安婦問題は、私の単純な担当業務の一つではなく、時には哲学的考察の対象でもあった。国家とは何か、個人とは何か、そして「実現可能な次善」と「実現不可能な最善」の間で何を選ぶべきなのか。

■日本側の試み:アジア女性基金

1998年1月6日、ハンギョレ新聞に全面広告が載った。日本政府と民間が設立した財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)が、韓国の慰安婦被害者に1人当たり200万円の見舞金と、300万円程度の医療福祉を提供するという内容だった。日本の首相の謝罪と反省が含まれた書簡も届けるとされていたが、書簡の内容は「道義的責任」という但し書きがついており、原資は日本政府の予算ではなく、国民の募金でつくられた「民間基金」という形を取った。1965年の日韓請求権協定により、慰安婦問題は解決されたという日本政府の法的立場を維持しながら、あくまで道義的なレベルで人道支援を提供するという発想だった。

原文兵衛理事長をはじめ、「基金」に参加した日本の民間人たちは、日本の過去の清算と被害者補償を信念として主張していた良心的な知識人だった。彼らは被害者の余命いくばくもない状況で、日本政府の法的責任の認定と被害補償という実現しにくい最善を追求するよりは、現実的に実現可能な次善の策を作って、1日も早く被害者を支援した方がいいという判断で「基金」活動に参加した。「基金」の背後にある日本政府の隠された意図が何であれ、彼らの心は純粋な善意だったと私は信じている。

しかし残念ながら、これらの善意は韓国で受け入れられなかった。被害者と「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は、「基金」が慰安婦問題の法的責任と補償義務を回避しようとする日本政府の浅はかな策略だと非難し、拒否の意思を明らかにし、韓国政府も同じ立場を取った。韓国の被害者のうち、一部が「基金」の金銭的支援を受けたが、全体的に見て「基金」の事業が素直に受け入れられなかったことは間違いない。いくら善意でも、相手が快く受け入れないことを無理に押し切れば、それは独善になってしまう。

こうして「基金」の試みは挫折し、日韓双方に深い不信と反目の傷痕を残した。韓国側は、日本の良心的知識人まで日本政府の浅はかな策略に迎合したと非難し、日本側は難しい現実の中で最大限努力した結果すらも受けつけようとしない韓国に対し、失望感や徒労感を持つようになった。

■韓国政府の決断:道徳的優位に立脚した自助措置

慰安婦問題が最大の懸案だった1991~92年、私は外交交渉の最前線に投入された兵士のようだった。「請求権協定ですべて解決された問題」と譲らない日本側を相手に、強制性を認めて誠意ある措置を取るよう説得するのは、時には不本意ながら「お願いの形」になったりもした。加害者に対する当然の要求がなぜこのような、プライド(自尊心)が傷つく姿になってしまうのか、心穏やかではなかった。

こうした中、韓国政府がコペルニクス的発想の転換をする。就任直後の金泳三(キム・ヨンサム)大統領が1993年3月13日、これ以上日本に金銭的補償を要求せず、韓国政府が被害者に支援をすると宣言した。(金泳三政権は被害者に500万ウォンの一時金と生活補助金、医療支援、永久賃貸住宅などの支援を実施し、1998年、金大中政権は追加で4300万ウォンの一時金を支給した。)

穏やかでない表現だが、日本がそれほどまで責任を認めて補償する考えがないのなら、もうやめてしまえと言うに等しい。だからといって日本の責任を免責するという意味ではなかった。日本については、真相究明を求め続け、国連人権委員会のような国際舞台でも日本に対する責任追及を続けていくとした。

日本との駆け引きに疲れ果てていた私は、これまでのもどかしさが全部消えて肩が軽くなった感じだった。当時、韓国政府は「道徳的優位に立脚した自助措置」という表現を使ったが、それは実際に対日外交の現場で道徳的、外交的な優越感を感じさせてくれた快挙だった。なぜ日本を最後まで追い詰めて、公式謝罪と賠償を勝ち取らなかったのかと批判する人もいるだろうが、外交には相手があって、1人の思い通りになることはない。韓国のプライド(自尊心)を守りながらも、日本を窮地に追い込んで外交的に優位に立つ賢明な決断だったと思う。

当時の韓国マスコミも「政府が自ら乗り出して正面から向き合い、民族のプライド(自尊心)を傷つけずに人道的な配慮も並行して支援しようとする最初の試みという点で、少なからぬ意味を持つ。この処置は、日本政府に相当な心理的圧迫を与える外交的効果を狙っている」と評価した(ハンギョレ新聞1993年3月30日)。

この時から日本政府は針のむしろに座ることになった。被害者である韓国が独自の支援措置を実施したのに、日本が手をこまねいていることはできなかったからだ。日本側の関係者は「どんな措置を取ればいいか」と逆に聞いてくるようになった。これに対して韓国側は「それは日本が自ら決断してくれ」と突き放した。こうした流れから、同年8月、日本からついに慰安婦動員の強制性を認める「河野談話」が出たのであり、その結果が「基金」事業として具体化されたのだ。明らかに韓国の独自支援措置に刺激された結果だった。

ところで今、日本は1993年の韓国政府の独自支援については何も言及せず、1995年の「基金」の話ばかりする。(大沼保昭・東京大学教授の著書「慰安婦問題とは何だったのか」でも韓国の独自支援措置は全く言及されていない。韓国は何もせず、日本は自発的に誠意を尽くしたという言い方だ。)

私が、独自支援の話を強調したいのは、韓国でもこれを覚えている人がほとんどいないのだ。この問題を長いこと検証し、勇気ある発言を続けている朴裕河(パク・ユハ)・世宗大学教授の著書「帝国の慰安婦」にも、韓国の独自支援について言及していない。確かに完璧な最善の策ではなかったが、実現可能な次善の策として、そして民族的プライド(自尊心)を守る外交的施策として大きな意味があったことを韓国民が自ら記憶しなければ、後日、歴史には日本政府の努力だけが「アジア女性基金」という名で記録されるだろう。

しかし、このような韓国政府の現実的努力も結局、2011年8月に韓国の憲法裁判所の違憲決定で、その意義を否定されることになる。

■憲法裁判所の違憲決定

日韓請求権協定により慰安婦問題が解決されたとする日本と、解決されなかったとする韓国の間には明らかに「協定の解釈に関する紛争」が存在する。にもかかわらず韓国政府が協定第3条による措置(①外交ルートを通じた解決または②仲裁委員会への付託)を取らないのは不作為であり、憲法違反だという決定を憲法裁判所が下したのだ。もちろん韓国政府は1993年から独自支援措置を実施中で、国際舞台でも引き続き問題を提起していると主張したが、憲法裁判所は政府のそのような努力があったとしても、第3条による措置を取らなかったのは、すべきことをしなかった不作為に該当すると判断した。

法的には十分に可能な判断だ。しかし、国家間のことを法律だけで判断するなら、外交は存在する場がなくなる。請求権協定の解釈に関する立場の違いを法的解決ではなく、外交的な知恵で解決しようという現実的な努力が受け入れられないなら、もはや残った道は、憲法裁の決定を忠実に履行して不作為を解消することであり、韓国政府がすべきことは明確だ。憲法裁の決定の直後に第3条による外交協議を2回要請したが、日本はこれに応じておらず、次の段階は仲裁委員会に付託する措置だ。

韓国が仲裁委員会付託を要請しても日本が応じなければ、請求権協定上これを強制できる規定はない。だから、できない仲裁を要請することに何の意味があるのかと批判する人もいる。しかし、被害者の要望が最も具体的な形で表われているのは、憲法裁の決定文だ。彼女らが提訴した当事者だからだ。したがって韓国政府は、憲法裁の決定を尊重しなければならず、取れる措置を全部取らなければならないのは当然だ。もちろんこれは外交とは言えず、問題が解決されることはないかもしれない。でも憲法裁の判決以降の流れで、国内的に必ず必要な措置であることには違いない。

■残された時間はあまりない

2014年1月26日、ファン・クムジャ氏が亡くなり、生存者は55人、平均年齢は88歳だ。被害者たちが生存している間に問題を解決しようとすると、残された時間はあまりない。積極的な対日外交を通じて早期に解決策を講じよという声は高い。さらに、オバマ米大統領の4月訪韓がようやく実現したため、韓国政府としてはこの機会に日本政府と慰安婦問題の早期妥結を模索するという課題も抱えることになった。

おそらく、両国政府が外交協議を通じて引き出すことができる案は、過去の「基金」が試みた水準を本質的に超えないだろう。日本の首相は手紙か何かで謝罪の意を表明するだろうが「道義的責任」という限界を超えないだろう。過去の「基金」とは違い、人道的支援措置に日本政府の予算を直接投入できるだろうが、法的責任は請求権協定で終結したという立場に変化はないだろう。

この範囲内でいくら謝罪の表現をすりあわせて、政府予算の投入をもって公式に責任を認めたと拡大解釈するにしても、そうした外交的な妥協案を被害者が納得して受け入れることはないだろう。今になってそうした妥協案を受け入れるならば、17年前に「基金」の支援を受けて終わっていたはずで、なぜ拒否したのかという反発が出るだろう。そして、人道的支援という名目の金銭でなく、日本政府の公式な謝罪が必要だという主張も必ず出るだろう。そうなると、殺到する世論の非難の中で、韓国政府は日本との合意を覆すしかないだろう。

さらに、慰安婦問題は、国連をはじめとする国際機関や、アメリカを含む国際社会でもますます大きな関心の的となっている。そして、今までこの問題についてあまり積極的な姿勢を見せなかった中国政府が、最近は慰安婦の遺跡を指定して慰安婦映画を製作するなど、攻めに転じている。韓国よりもっと強い反日感情のある中国で慰安婦問題に火がつけば、国民世論は手の施しようもなく激昂する可能性がある。こうなると、慰安婦問題はもう日韓両政府が合意して終われる問題ではなく、より大きなレベルの国際問題になってしまうだろう。

■ある被害者の話

私がまだ政府で働いていた時、ある被害者の話を伝え聞いた。「私が死ぬ前にこの問題が解決できないというのも分かる。この問題は私が死んだ後に、皆さんの世代できちんと解決してほしい。それでも昔と比べてたくさんの人がこの問題を知り、私たちの味方になってくれたから心残りはない」この言葉を聞いて私は気が引き締まった。「ああ、被害者の気持ちは、政府が下手に日本と妥協するよりも、時間がかかってもしっかり交渉してほしいということか」

日本の良心的な知識人たちが善意で参加した「基金」がなぜ失敗したのか、苦労の末に決断した韓国政府の独自支援措置にもかかわらず、どうして被害者が憲法裁に提訴したのか、これを深く考えなくては、慰安婦問題の解決策を論じる資格がない。この問題にピリオドを打てるのは被害者だけだ。日本側の「基金」も韓国政府の独自支援措置も、実現不可能な最善よりは実現可能な次善の策を探ろうとする善意の試みだったが、被害者の納得を得るのに結局失敗した。

加害者である日本政府が「強制動員の証拠はない」とか「法的にすでに解決した」とする偏狭な姿勢から脱却しなければならない。そうして被害者が初めて納得できたとき、その時でないとこの問題は終わらない。その時まで韓国政府がすべきことは、不十分な外交的妥協を控えて原則を曲げないことだ。

■もう一段階高い昇華のために

であれば、実現可能な「最善」(次善がないこと)は永遠に存在しないのか? 実現可能な次善ですら受け入れられない状況で、実現可能な最善を論ずることはむなしいことかもしれない。しかし、存在するとすれば、おそらく互いへの理解不足と敵対感を超えた瞬間だろう。片方は「基金」の善意を一切認めようとせず、片方は挺対協を教条的で排他的な集団とみなす現実を、両者とも反省しなければならない。

時には公式の謝罪と補償を追求することが、長年の恨みをあおって歴史的な憎悪を強め、被害意識を固定化したり、怒りを増幅させたりするため、有益というよりむしろ害悪な場合がある。マイケル・サンデル氏の著書「正義とは何か」に出てくる言葉だ。

日本に対し、慰安婦問題を厳しく徹底的に追及するが、その目的が憎悪の拡大再生産でないという点だけは忘れないようにしたい。「罪を憎んで人を憎まず」だ。

[(韓国語)]

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