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長濱世奈 Headshot

母は、私が狩猟を始めることに反対だった。

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「スーパーに行けば肉が買えるのに、どうして生きているものをわざわざ殺す必要があるの? 可哀想じゃないの?」と言った。

さらには「お肉には、差別とか根深い問題がいっぱいあって、いろんな思想や信仰のひとがいる。あなたが考える以上に複雑でデリケートな世界なのよ。」と説得された。

たしかにそうだ。わざわざこんなこと、しなくていいし見なくてもいい。経験して自慢できることでもないし、公言するべきことでも本来ない。

実際、私が信頼する猟師さんたちは、銃や血は、決して他人に見せびらかすものではないことを教えてくれた。

スーパーに並んでいるお肉や、大量に廃棄される食品をスルーして、わざわざ新たに動物の命を奪うという行為には、「ナチュラルライフ」とか「命をいただく」とか、そんな理屈を並べたくらいじゃ収まらない、もっと深刻な感情が伴う。

私は以前、一日三度の食事を、すべてコンビニで済ませていた。

そんな食生活をしない自信があったし、学生時代はコンビニ食を好む人を愚かだと思っていた。だけど、実際に会社員として劣悪な環境で働いてみると、コンビニ食に頼らずには生きていけない毎日だった。

お腹は減っているのに食べたいものがない。だけど商品のパッケージを眺めているうちに全部が食べたいものに思える。悩めば悩むほどなんでもいい気がして、いろいろ買い込んだのに、食べてみるとどれも買ってまで食べるものではなかったよう気がする。

結局よくわからないものをたくさん食べて、飽きたところで残りは捨てる。そんなことを繰り返す毎日だった。

私は、忙しさや疲れに勝てない人間だった。

「消費こそが生産者への清き(悪しき)一票」そう、信じていたのに、その信念を貫けなかった。

だからこそ今の私には、「消費する」ことよりもむしろ、「消費しない」ことに意味があるように思える。

だけど、食肉そのものをひとくくりに否定するのは違う。

清き一票を投じたい生産者が見出せない、または支持したい商品がとても高価で手の届かないものだったとき、消費そのものを諦めなければならないなんて、私はいやだ。

お肉は美味しいし、食肉は人間が紡いできた大切な文化だ。狩猟もその中の大切な文化で、大量生産されたお肉を消費せずに、お肉を楽しむための手段であり、権利でもある。

きっと、最近の解体ワークショップやそれに付随するパフォーマンスのような発信の仕方も、その「権利」を伝えたいんだろう。でも、現場を見ることは「義務」ではないはず。

このあいだ、狩猟から帰ると、母が、「おつかれさま。今日はなんか獲れた?」と言ってくれた。

今までは嫌がって、食べてくれなかった狩猟肉も、猪のトマト煮込みを作ると「優しい味がするんだね。」と、食べてくれた。

身近なところから、伝えていければ。