「息子の入学式に出るので、欠席します」事件。悪いのは教師ではなく学校の対応だ! (社会保険労務士 榊裕葵)

高校教師が有給休暇を使って勤務先の入学式に出席せず、息子の入学式に出席することを優先した、というニュースが報じられていた。いち社労士として、このニュースの報道内容に違和感を持ったということだ。

先日、高校教師が有給休暇を使って勤務先の入学式に出席せず、息子の入学式に出席することを優先した、というニュースが報じられていた。私はこのようなニュースがなぜヤフートップで報じられるのか、大いに疑問を感じた。

こんなニュースがトップ扱いなんて日本も平和なものだ、と嫌味を言いたいわけではなく、いち社労士として、このニュースの報道内容に違和感を持ったということだ。

■「有給休暇の取得は労働者の自由」が原則

まず認識しておきたいのは、この教師が有給休暇を取得したこと自体、法的には何一つ問題点はないということである。この教師の勤務先は埼玉県の公立高校とのことであるが、地方公務員には労働基準法上の有給休暇の規定は適用されることになっており、これは教職であっても変わりはない。

そして、有給休暇を取得するにあたっては、いつ取得するかは労働者の自由であるし、取得する理由を使用者に申し出る必要もない。この教師は労働者としての当然の権利を行使しただけなのに、あたかも問題行為を起こしたような形でニュースに取り上げられてしまったことに私は大きな違和感を持ったのだ。私自身、少なくとも当の教師本人は責められるべきではないと考えている。

■悪いのは学校側の対応

では、誰に問題があったのだろうか。私は、校長や教頭といった管理職側の教員の対応に問題があったと考えている。

有給休暇は先に述べた通り、労働者の好きな時期に取得できることが原則である。しかし、使用者にも「この日だけは休んでもらっては困る」という都合があるはずだ。そこで、労働基準法は使用者側への配慮として「時季変更権」という権利を認めており、使用者は業務に重大な支障が生じる場合には、労働者に対して「有給休を取るのを別の日にしてくれ」と命令することが可能となっている。

学校という職場であれば、入学式はその行事自体が学校にとって重要なイベントであるし、年度の初めに生徒と担任が顔を合わせる場で、いきなり担任が不在というのは生徒に対しても影響が大きいであろうから、担任を受け持つ教師が入学式の日に有給の申請をしてきた場合、学校側が時季変更権を行使することの正当性は認められる可能性が高い。

したがって、今回のような事例においては、後出しジャンケンで批判するのではなく、あらかじめ時季変更権を行使して、教師からの有給休暇の申請を認めなければ良かったということだ。

それでも教員が自分の都合を優先させて、学校を休んで息子の入学式に出たならば、単なる欠勤、業務命令違反であるので、万一そのような事態になった場合には、学校は就業規則に基づいて懲戒権を行使すればよいのである。

なお、時季変更権は労働者側の事情にも配慮して行使されるべきものであることは補足しておきたい。もし、この教師の肉親が亡くなったとか、親族が天災に巻き込まれたということであれば、いくら入学式であっても教師側の都合が優先されるであろう。しかし、「息子の入学式」という今回の事情を考えると、どの学校でも同じような日に入学式が行われるというのは周知の事実であり、自分の子どもの入学式と重なる可能性が高いということは承知の上で、自らの意思によって教員という職業を選んだのだろうから、そのことを踏まえても、学校側の時季変更権が優先されるはずである。

■倫理で労務管理はできない

そしてもう1つ、私が大いに違和感を持ったのは、報道内容の以下の箇所だ。

来賓として入学式に出席した江野幸一県議(刷新の会)は「担任の自覚、教師の倫理観が欠如している。欠席理由を聞いた新入生たちの気持ちを考えないのか。校長の管理責任も問われる」と憤慨。県教育局は「教員としての優先順位を考え行動するよう指導する」としている。

「担任、息子の入学式へ...県立高校教諭勤務先を欠席、教育長が異例の注意」より 埼玉新聞 2014年4月11日

「教師の倫理観」と指摘しているが、人間の価値観は多様であるから、誰かの倫理観を一方的に押し付けるべきではないし、人生において何が重要かは人それぞれで良いはずだ。

したがって、「倫理」とか「優先順位」といった耳あたりの良い言葉でごまかすのではなく、「どのような時に学校は時季変更権を行使して有給を認めないのか」、というルールを客観的に明確にして、皆で共有することのほうがよほど大事なのではないだろうか。

そうでなければ、誰が上司かによって判断基準が変わったりとか、声の大きい人の意見が優先されたりして、労働者は安心してその職場で働けないであろう。

職場の人間関係というのは、「大人と大人」の人間関係である。上司と部下の関係は組織内の役割分担に過ぎず、部下は上司の業務命令を聞かなければならないが、上司の価値観まで押し付けることは決して正当化されるべきではないと私は考える。

この点、近年欧米企業では「ダイバーシティ・マネージメント」といい、従業員が様々な価値観を持っていることを認めたうえで、それを積極的に経営戦略に反映させていこうという取り組みが盛んになっている。そのような考え方がグローバルスタンダードなのだ。上司が赤提灯で「お前らは全然分かっていない!」と頭ごなしに部下に説教をするのは、日本企業くらいのものである。

■労務管理のあり方に対する提言

今後もグローバル化の波の中で、日本企業の海外進出が進み、また、外国人労働者の受け入れも増えてくるであろう。学校教育の分野でも、語学教師等として、外国人の教員を受け入れることは珍しいことではないはずだ。職場の価値観はさらに多様化していくのである。だからこそ、「倫理」という抽象的なものを職場の秩序維持の拠り所にすることは今後どんどん難しくなっていく。

なお、勘違いしてほしくないのは、私は決して倫理を捨てろと言っているのではないということだ。言いたいのは、倫理を具体的な「ルール」に置き換えて、客観的に見える形で労務管理をしていかなければ、多様な価値観を持つ労働者が混在する職場を束ねていくことはできないということである。守るべきルールを定めた上で、そのルールの範囲内で価値観の多様化を認めるというバランスが重要なのだ。

働き方に関する記事は以下も参考にされたい。

ニュースの話題から一気に話が大きくなってしまったが、今回の一件は、日本の職場環境の根底にある問題が端的に浮かび上がった一例ではないだろうか。今回の件を糧にして、我が国においても、「ルール」を基礎とした目に見える労務管理を根付かせていくべきではないだろうか。

特定社会保険労務士・CFP

榊 裕葵

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