「軍」、上野村など

安倍総理の「わが軍」発言が取り沙汰されております。言葉尻を捉えてことさら問題視するのもいかがなものかと思いますし、総理もすぐに「自衛隊」と言いなおされています。

安倍総理の「わが軍」発言が一部で取り沙汰されております。言葉尻を捉えてことさら問題視するのもいかがなものかと思いますし、総理もすぐに「自衛隊」と言いなおされています。

しかし、この際一度「軍隊とは何か」について整理しておく良い機会なのかも知れません。

「自衛隊は国際的には軍隊だが国内的にはそうではない」というのはわかったような、わからないような、何とも曖昧模糊たる禅問答のような答えですが、軍隊の本質が「外的勢力から国の独立を守る」ものであり、自衛隊法もこれを「(唯一の)主たる任務」と位置付けている以上、その意味において自衛隊は国際法上の「軍隊」であると言わなければなりません(「主たる任務」「従たる任務」と「本来任務」「付随的任務」は定義が異なりますので混同しないよう注意が必要です)。

国の独立を侵すのはあくまで外的勢力ですので、その際の規範は当然国際法に依拠することになり、「国際的には軍隊」とされるのはそういう意味です。

国内的にはそうではない、と言うのには「必要最小限度の実力しか保有しない」ことがその論拠として挙げられるようであり、政府も概ねその立場です。「必要最小限度」といういわば量的な概念を用いているところが、今一つ議論を解りにくくしているようにも思いますが、これには長い歴史の積み重ねがあります。

「今、軍隊と言ったな!そんな禍々(まがまが)しい表現を使うことは問題だ。即刻取り消せ!」という主張をなさること自体はご自由ですが、感情論を離れた冷静な議論を避けていては事の本質から遠ざかるばかりです。

かつて故・小室直樹博士が「軍隊は国家に隷属し、警察は政府に隷属する。軍隊に対する文民統制の必要性はまさしくここにこそある」といった論を唱えておられたように記憶します。同博士らしく実にシャープな議論ですが、当否はともかくとして、戦前の戦争に至った軌跡を検証する際、この問題意識は重要な示唆を含んでいるように思います。

明治憲法の大きな欠陥は、いわゆる「軍政」と「軍令」を一緒にしてしまった点にあり、さればこそロンドン条約締結時の「統帥権干犯問題」のような事態が生じてしまったのだと思っていますが、安全保障法制整備で文民統制を論じるにあたり、歴史に学ぶ必要性を改めて強く感じています。

これに関し、昨日(三月二十六日)付の東京新聞に掲載された三浦瑠麗・東大・日本学術振興会特別研究員の「『対案』がチェック機能に」と題されたインタビュー記事は、短いながら大変内容の濃いものだと思います。

東京新聞の紙面は、我々政府・与党の立場と大きく異なることが多いようにも思えるのですが、これは秀逸でした。勿論、毎朝全紙に目を通している暇など無いのですが、朝届けられるスクラップの中にこの記事を見付けたような次第です。

先週末は群馬県上野村の取り組みを視察して参りましたが、自治体首長の意識や取り組みによって地方のあり方がこんなにも異なるものかということを改めて実感させられました。

今日から統一地方選挙がスタートしました。

現行の補助金制度や地方交付税制度はそれなりに自治体間の格差拡大阻止に大きな役割を果たしてきたものの、地域の納税者意識の醸成や財政民主主義の発展を阻害してきた一面も否定できません。

地方創生の一番の論点はここにこそあるように思います。先日インドネシアの要人と懇談した際、「何故インドネシアがスハルト氏の開発独裁体制から民主主義体制に比較的スムースに移行できたのか」が議論になったのですが、相当に大胆な地方分権が断行されたことをその一因に挙げておられたのが印象的でした。

週末は28日土曜日が地元での統一地方選関連の数カ所での集会と、年末の総選挙で延期になった諸会合に出席。

29日日曜日は東京からの時間的距離が最も遠い市である高知県土佐清水市(注・時間的距離が最も遠いのは島根県江津市との説もあります)で、地方創生集会での講演と統一地方選関係の集会、という日程です。

開花宣言も出され、来週から再来週にかけて東京はお花見ムード一杯となりそうです。

お花見なんてここ何年もしておらず、移動の車窓から眺めるだけなのですが、いつか他人様にご迷惑のかからない山里の奥深いところで茣蓙を敷いて、気の合う人たちと一升瓶を酌み交わしながら心ゆくまで花を愛でてみたいものです。このような昭和的お花見はもう流行らないのかも知れませんが...。

皆様、お元気でお過ごしくださいませ。

3/22(日) 上野村長とバイオマス発電所にて

(2015年3月28日「石破茂オフィシャルブログ」より転載)

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