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商社マンから落語家へ 転職では「もったいない」は邪魔になる

2015年04月20日 00時18分 JST | 更新 2017年08月21日 00時25分 JST
Shinoharu Tatekawa

私は13年前、商社マンから落語家へと転身しました。入社後、初めて生で観た師匠(立川志の輔)の落語に衝撃を受け、惚れ込んでの入門でしたが、未だに「もったいないですねえ」というのはよく言われます。どうなんでしょうね。でも「もったいない」というのは本当にやりたいことをやる為の転職を考えた時には邪魔なだけなような気がしますが、落語家らしく、そのあたりのことを考えてみました。

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「隠居さん、ちょいと聞きたいことがあるんですけどね」

「おー八つぁんじゃないか、聞きたいことってなんだい?」

「実はね、今度仕事を変えようと思ってるんです」

「ほう仕事を。大工から何になろうと思ってるんだい?」

「豆腐屋です」

「豆腐屋! ほーう、そら思い切ったね。大工から大豆、棟梁から豆乳だな!」

「一々豆腐に絡めなくていいんですよ」

「でもどうしてまた急に豆腐屋になろうと思ったんだい?」

「いやこの間うんめえ豆腐を食ったんですよ。あっしはこれまでどこの豆腐もおんなじだと思ってたんです。でもこの豆腐はね、口に入れた途端に思わず笑顔になっちまうような、この国に生まれて良かったーって叫んじまうような豆腐でね。そんな豆腐食ったのは初めてでしたからもうびっくりしました」

「周りも笑顔で叫んでるお前さん見てびっくりしたろうね」

「いいんですそんなことは、とにかく惚れちゃった。だって豆腐一つで人を笑顔に出来るってのはすげえことでしょう? だからあっしもそんな豆腐作りの名人の下で修業して、いつかは人を笑顔にさせるような豆腐を出したい、って思ったんですよ」

「なるほどね。良かったじゃないか」

「そうなんだ。あっしは良かったんだ。でも周りの連中がね、おめえはせっかく立派な棟梁の元で仕事して銭だって一人前に稼いでるんだから、そんなことをしたらもったいない、もったいないなんてことを言うんですよ。隠居さんこれもったいないと思いますか?」

「八つぁんいいかい? もったいないってのは、例えば野球で160キロの剛速球が投げられて、ホームランをボカスカ打てるような奴が『俺はプロには行かない』というのがもったいないってんだ。お前さんそこまでの大工じゃあないだろ?」

「はい」

「な? いや、仮にだよ、それだけの才能に恵まれた奴でも俺は心底動物が好きだから動物園で働きたいと言ったら、誰にももったいないなんて言う権利はないんだよ。そもそもね、自分の人生についてもったいないなんて言っていいのは自分だけだよ」

「自分だけ?」

「そうだよ。自分だけだ。だからそんな奴らの言うことなんか聞くんじゃない! せっかくだのもったいないだの言ってる奴らはこれまでの人生にしがみついてるだけだ」

「そこまで言うことは、、、あっしのことを心配してくれてるんだと思いますけど」

「心配? 心配なんてクソ食らえだ。その心配の責任を誰が取ってくれるんだい? お前さんそいつらの心配の面子を立てて大工に留まるのかい? そんな無責任なもったいないで留まることを選んだ大工に建てられた家の気持ちがお前さんに分かるかい!」

「家の気持ちって、、、まあ、いい気はしないでしょうね」

「だろ? あたしもね、お前さんがこれから豆腐屋になるってんならもったいないなんてことは言わない。その代わりお前さんは腹を決めるんだ。これから二度とあっしが大工だった時は、なんて言うんじゃないよ。きれいさっぱり忘れちまいな。金輪際お前さんが大工だったということはあたしも忘れるようにする。うちの棚が壊れた時以外は」

「勝手だよ!」

「とにかくね、人間一から始めるつもりでもなかなかそれまでの自分が邪魔になって始められないんだ。大工の頃のことを覚えていると豆腐屋の大将の言うことを素直に聞けない。だからね、いっそのことそれまでの自分を壊しちまうんだ。お前さんに分かりやすい例え話をしてやろう。お前さんに仮に恋人が出来たとする。でもその恋人にことある毎に前の男のことを言われると腹が立つだろう?」

「そらあ腹が立ちますよ」

「逆だってそうだよ。お前さんが前に振られた女とのことをうじうじ言うようなら、喧嘩が絶えないだろうよ。お互いに過去を引きずっているとうまくいかないんだ。あっという間に破局だ。芸能人並みにな」

「ま、そこで芸能人持ち出さなくても」

「確かにそうだな。じゃあアメリカ人並み、、、」

「だから比べるんじゃないっての」

「つまり何が言いたいかというと、昔は素晴らしかったなんてことを言ってるのはみっともないんだ。未練を捨てて前の恋人のことは忘れる。前の恋人と一緒にいた時の自分のことも忘れる。そうすると新しい恋が生まれるんだ。一歩踏み出したのなら、一旦前のことを忘れるんだ。それまでの自分を壊すんだ。そうすることによって新たな自分が生まれる。だけどね、前の自分だって完全に消えちまったわけじゃない。年輪のように奥の方に刻み込まれているんだ。それがいつか一体となってお前さんが一回り大きくなる時がくるんだ」

「いつですか?」

「知らないよ。いつかだよ。もしそのいつかがいつまでも来なかったら、お前さんが生きてる間に合わなかっただけだ。とにかくね、お前さんは一から豆腐と向き合っていかなくちゃいけない。大工のことは忘れてだ。だけどいつかお前さんがちゃんと豆腐を作れるようになったらね、その時にふと大工の頃の経験が役に立ってくるかもしれないんだ」

「どんな風に?」

「だから知らないよ。その時になりゃあ分かるだろ」

「・・・豆腐を作るための小屋を建ててそこで作った豆腐を小~屋豆腐って」

「くだらないよ。でももったいないなんてことを言ってウジウジしてるほうがくだらないからさ、思い切って豆腐の海へ飛び込んでごらん」

「分かりました! やってみます」

「うん、で、飛び込んでみて駄目でもすぐにあたしんとこへ来るんじゃないよ。豆腐持たずにあたしんとこへ来てもお前さんのこと追い返すからね」

「意地でも日本一の豆腐こしらえて持ってきますよ」

「その意気だ。ようし、送り出すにあたって前さんに餞別でも包んでやろう!と思ったけどやっぱりやめておこう」

「どうしてですか?」

「うん、もったいないから」

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イエール大学卒、三井物産勤務から落語家へ。まったくの直感だけを頼りに過去を捨て立川志の輔への入門を決意した志の春が、その生き方、考え方を通して「やりたいことがある。だけど、今の会社を辞めてまで飛び込む勇気はない」 という若者たちに向け、やりたいことで食べていく覚悟と苦労、そして充実感を綴った一冊。
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