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超人的な修行僧が説く「荒行の果てに見えた継続の極意」

近道を求めず、日誌をつけて自分を客観視せよ!

2017年09月14日 13時13分 JST | 更新 2017年09月14日 13時31分 JST

はじめまして。塩沼亮潤と申します。

塩沼亮潤

私は1999年9月2日に「大峯千日回峰行」(奈良県吉野山の金峯山寺蔵王堂から山上ヶ岳の大峯山寺山上蔵王堂までの往復48㎞、高低差1300mの山道を、雪で山が閉ざされる期間を除いて足かけ9年にわたり、1000日間歩き続ける行)を達成しました。

達成者(大阿闍梨)は金峯山1300年の歴史のなかでわずか2人だけです。その修行で得た継続の極意を少しでも多くの方々にお伝えしたく、このような機会をいただきました。

仏教の教えとは、実用的なアイデア集

人間誰しもが、心穏やかに充実した人生を送りたいと願っています。しかし、「自分は満ち足りて幸せです」と断言できる人は少数なのではないでしょうか。

世の中は、心が疲れてしまうような物事であふれています。仕事に追われて心が消耗し、人間関係のストレスに悩み、ときには家庭でも不満が爆発することがあるでしょう。また、情報過多の現代ですから、各種メディアから流れてくる情報にイライラさせられることもあるかもしれません。

人間の心は、ネガティブなことを思えば思うほどネガティブな心が増殖して、ますます幸せを感じられなくなります。ネガティブな闇を抱えたままの心に、幸せは決してやってきません。不幸を遠ざけ、幸福度を高めるためには、イライラやムカムカ、不平不満や悩みなどで乱れた心を整えることが必要になります。

その「心を整える」ための効果的な方法に「歩行禅」があります。

歩行禅は、歩きながら瞑想し、そのあとに座禅を組む、全部で3ステップ(「懺悔の行」「感謝の行」「座禅の行」)の"心のエクササイズ"です。

歩行禅のやり方や効果については私の新しい著作『歩くだけで不調が消える 歩行禅のすすめ』に詳しいのですが、ここでは日常生活のなかで無理なく実践できるハウツーとして、三日坊主がなくなる「続ける技術」をお伝えしましょう。仏教の教えとは、本来「人間の生き方」や「幸せになる方法」を教えてくれる実用的なアイデア集なのです。

辛抱の先に見えてくるものがある

人生ではさまざまな物事について、継続する努力が求められます。それでは、どのようにすればルーティン化できるのでしょうか。私は自らの体験を通して、物事に対するちょっとした見方の変化、捉え方の変化が、継続の力になると考えています。

たとえば、何かを始めたとき、「自分にも上手にできるかもしれない」という手応えがないと、なかなか長続きはしないものです。しかし、ほとんど手応えが得られないことでも、投げ出さずに継続してさえいれば、いつか人並み以上にできるようになります。

現代の合理主義的な風潮のなかではあまり流行らない言葉かもしれませんが、「辛抱」という意識を改めて見直してみてください。英語で"Practice makes perfect"という表現があります。「練習すればうまくいくよ!」という意味です。日本のことわざでは「習うより慣れろ」とも言われますが、最初は下手でも、うまくいかなくても、投げ出さずに繰り返していくことで上手になっていきます。辛抱の先に見えてくるものがあるということです。

最初から「どうやっていいのかわからない」と言って何もしないのと、「それでもやってみよう」と一歩踏み出してみてからわからないことが出てくるのとでは、同じわからないでも、まったくわけが違います。最初はできなくてもいいから、まずは一歩前に出て、とにかく心と身体を使ってみることです。

「できない」状態が続いたとしても、自分を責めない

できない状態が長く続くかもしれません。それでも諦めないことです。

私は「大峯千日回峰行」を終えたのちに、すぐに宗教者として完璧な精神が身についたのかというと、決してそうではなかったように思います。

人生には「四苦八苦」があります。人間として誰しも逃れることのできない宿命である「生・老・病・死」の四苦、そして、人生を歩むなかで味わう4つの困難、「求不得苦」「愛別離苦」「怨憎会苦」「五蘊盛苦」を合わせた四苦八苦です。このうち後半の4つは、避けようがない前半の4つと違い、自分の心をうまくコントロールすることによって解決できます。

私の場合、ほしいものが手に入らない「求不得苦」、愛する人と別れる「愛別離苦」、世の中はままならないものだという「五蘊盛苦」の3つの苦しみは比較的すんなりとコントロールができるようになったのですが、最後まで残っていた心の課題が「怨憎会苦」、つまり、嫌いな人と顔を会わせる苦しみでした。

千日回峰行や四無行を満行したあとも、本山を下りて仙台に戻り、自分のお寺を開いたあとも、しばらく「この人は嫌いだな、どうしても苦手だな」という気持ちを100%払拭できない相手がいたのです。その気持ちにとらわれていた時間は、かなり長い年月でした。怨憎会苦の心は自分の努力でコントロールできるものとわかってはいても、いざ、本人を目の前にすると何かがひっかかって気持ちがすっきりしません。どうしても、心の奥底の部分では割り切れなかったのです。

自分が好きな人も嫌いな人も、分け隔てない気持ちで相対するにはどうしたらいいか、長い間、自問し続けました。仏教の教えを説く立場の人間が、自分のできないことを物知り顔でみんなに説いても、言葉に力がないからです。

あるときふと、その嫌いだった相手を喜ばせたいなと思い、いつもとは違う笑顔で話しかけてみました。すると相手からも、いつもとは違う笑顔と優しい言葉が返ってきました。人間関係とは自分の心次第なのだと悟ったとき、私はようやく怨憎会苦の心をクリアできたのです。

出家してから、じつに十数年が経った頃の出来事です。私の人生が闇から光へと転じた瞬間でした。10年以上「できない」状態が続いても、決して自分を責めないでください。

日誌をつけることが継続の糧となる

大きな気づきと出会えるタイミングは千差万別ですが、ただ一つ言えるのは、好きになろうと努力して、それを思い続けているうちに、いつか本当にそうなれるということです。仕事や勉強もそうでしょう。「嫌だなあ」と思って手を抜いたり、投げ出していたりしたら、いい結果は出ません。これは、人生すべての局面において言えることです。「自分の人生、どうしてこうなんだろう」と投げやりになってしまったら、人生はますます、うまくいかなくなります。

多くの人は、物事に「答え」や「近道」を求めがちです。本屋さんに並んでいる本の表紙にも「10日間で英語の達人になる技術」「明日から仕事ができる社員になる方法」といった、お手軽さを売りにする宣伝文句が躍っています。しかし、楽をして得た内容で本物の実力が身につくでしょうか。労せずして得られるものなど、それほど重要なものではありません。ただひたすらにルーティンを繰り返し、失敗しても、うまくいかなくても、光のほうに向かって諦めずに努力を続ける生き方が「王道」にして最短の「近道」なのです。

私は、千日回峰行の最中に一日も欠かさず日誌をつけていました。これは行の決まりごととして定められていたものではなく、自発的なルールとしておこない、継続していたものです。

毎日、厳しい行を終えて参籠所に戻り、眠る前のひとときを日誌の時間にあてていました。その日に遭遇した出来事や、お山で感じたこと、気づいたこと、歩きながら考えたことなどを思うままに書き綴っていたのです。疲れが極限に達し、たったの一行しか書けない日もありました。

しかし、終わってみれば、この日誌は千日回峰行のよき伴走者でした。この習慣が一つの支えになっていたと感じます。日誌に、その日その日の思いの丈を書き出すことで自分の心が客観化でき、心を整える効果があったように思うのです。これは、一種のカタルシス効果(心の浄化作用)なのかもしれません。

いま、その内容を振り返ってみても、行に入ったばかりの頃から時間を経るにしたがって心の風景が光あふれる方向へと変わっていく様子がよくわかります。つまり、修行の成果を相対的に確認できるツールにもなるということです。

自分の心の変化は、自分自身ではわかりにくいものです。それは、差し向かいで、この目で見ながら確認することができないからです。それをアシストしてくれるのが日誌です。みなさんも、歩行禅を実践するとともに、日誌をつけてみてください。日誌の中身はなんでも結構です。

たとえば、懺悔や感謝のリスト化や、瞑想中に思い浮かんだこと、心の変化の気づきなど。主観にすぎない内容でもまったくかまいません。心に限らず、体調面の変化を記録するのもよいでしょう。ウォーキングの継続で、思わぬ健康効果やダイエット効果があるかもしれません。

もちろん、文字数や形式などに縛りも必要ありません。日ごと、気のおもむくままにメモするくらいの気持ちでOKです。ただし、パソコンやスマートフォンに打ち込むよりは、実際に手を使って、紙に書き留めることをおすすめします。

仏教では功徳を積むための行為の一つとして「写経」がありますが、この写経には、ストレス解消や、心を癒やしてリラックスさせる、集中力を高めるなどの効果があると言われています。これと同じように、日誌も手書きのほうが、心を整える効果が高いように思います。

歩行禅を始めるなら、ぜひ、ノートを一冊用意して「歩行禅日誌」をつけてみてください。三日坊主になりがちな人でも、必ず、継続の糧になるはずです。

KADOKAWA