【3.11】 「今を生きる世代として、後世に伝えていく責務がある」 岩手県大槌町長が語る"復興"への思い

今回は、被害の大きかった大槌で、まちづくりの最前線に立つ碇川豊(いかりがわ・ゆたか)町長に行政という立場での難しさや復興への思いを聞いてきました。

3月11日、東北地方に大きな被害をもたらした東日本大震災の発生から4年を迎えようとしています。内閣府のページによると、死者1万5,859人、行方不明者3,021人という、世界でも1900年以降4番目の巨大地震であったそうです。

その中でも特に大きな被害を受けたのが、中心部が津波によって流され、町長以下・役場職員40名を含めた多くの方々が犠牲となった岩手県大槌(おおつち)町。大槌といえば、ひょうたんの形をした小さな島・蓬莱(ほうらい)島があり、「ひょっこりひょうたん島」のモデルといわれています。今回は、被害の大きかった大槌で、まちづくりの最前線に立つ碇川豊(いかりがわ・ゆたか)町長に行政という立場での難しさや復興への思いを聞いてきました。

岩手県大槌町・中央公民館からの眺め。町では盛り土が始まっている。2015年1月25日撮影

■がれきの中から左腕が動くようなのが見えた

――大槌町の被害について改めてお聞き出来たらと思います。

世界の淵に落とされたような東日本大震災、想像をはるかに上回る22mを超えるような大津波が押し寄せて、大槌町は人口の約1割(死者802人、行方不明者505人※2014年11月30日現在)にあたる方々が犠牲となりました。

町の各被災率については、全ての被災地の中でも3本の指に入るような状況で、特に商業被災率は98%にのぼり、職員の被災率は最悪で、町長以下・役場職員40名が犠牲となりました。役場庁舎もデータも流されて、ゼロからのまちづくりを強いられているような状況で、改めて被害の大きさを痛感しております。

――震災が起こったとき碇川さんは何をされていましたか?

私は大槌で犠牲者が多かった江岸寺(こうがんじ)の近くにいて、地震発生後すぐに交差点に出て、高齢者や子どもたちを、高台にある中央公民館に誘導していました。また、防災行政無線の「太平洋沿岸に大津波警報が発令された」という放送がされたのですが、役場の建物自体が古かったためか何らかの故障で1回しか放送されませんでした。そのため、車のエンジンをかけたり、ラジオのボリュームをものすごく大きくし、地震の情報について周囲に聞こえるように流したりしました。

当時の防災マニュアルによれば、大津波警報が発令されるということは3m以上の津波が来る危険があるということになるので、すぐさま避難行動をしなければと思いました。隣近所には寝たきりの高齢者がいることを知っていたので、土足で家に入って、家族の方と一緒に点滴を外し、肩をかつぎながら、「30㎝でもいいから高いところに上がろう、上がろう」と声をかけて避難誘導をしていました。

その際も「役場の職員の人たちがなかなか来ないな、どうしたのかな」と心配はしていましたが、高台の方から「蓬莱島が見えなくなった!」という声がかかって、「これはもう危ない」と思い、私自身も高台に上がりました。上がってみると、こんにゃくの壁みたいな形で津波が押し寄せて、あちこちの建物にぶつかり、砂ほこりのような黄色い煙が立ち上り、津波が押し寄せていました。

逃げる途中には、がれきの中から左腕が動くような姿も見えましたが、助けるすべがなくて、必死に手を合わせて、「この人の家族はどう思っているのかな」という気持ちをこめて見送ったこともありました。また別の場面では、自分のいる丘の側に流れ着いてきた家の屋根に、中高生くらいの女の子が乗っていました。

命を危険にさらして、激流の中にいるその子を助けるかどうか躊躇していたとき、上の方から高校生くらいの男の子が助けに行くと言っていました。屋根が斜めになり、水をかぶってすべるので「危ない」と話をしたりしましたが、「私も行かなければいけない」と思い、男の子と一緒にその女の子を助けたりしたこともありました。

当時、真冬だというのに外の方が暖かい程の大火災が起きていました。火柱がたって、ガスボンベが爆発して青光りがすごい状況でした。翌朝、全てが過ぎた静けさの中にヘリコプターの飛ぶ音で、そのしじまが壊されて冷たい朝を迎えた、そんな1日だったのを覚えています。

■被災地の最前線に立って、まちづくりをするのは難しいところもある

――行政としてどのようなまちづくりを目指していますか?

コンセプト的には「海の見える、つい散歩したくなる、こだわりのある美しい町」。ゼロからのまちづくりのなかで、人口減少高齢社会の問題については選挙のときから言っていましたので、まちづくりのキーワードは「交流人口の拡大」と話をしていました。

そのことを主眼に復興計画に基づいて進めている状況で、今は安心・安全なまちづくりは当然のこと、空間のまちづくり、医療・福祉・教育、産業、なりわいの再生等について力を入れなければならないと思っています。

現在は第2期の復興計画でまちづくりをしているわけですが、いずれにせよ景観形成にこだわった美しい散歩したくなるまちづくりをしていきたいし、経済優先ではなく、例えば若い男女が結婚して、大金持ちでなくとも安心して子どもを産み育てられる「心の豊かさ」を持てる環境を作っていきたいと思っています。したがって、教育や人材育成にも力を入れていきたいと思っています。

――この4年間の取り組みのなかで復興に向けて様々な取り組みがされてきたと思うのですが、昨年に始まった民間と行政の連携でつくったという「復興まちづくり大槌株式会社」が印象に残りました。現在はどのように進んでいますか?

大槌の職員は多く犠牲になってしまったので、スピード感を持って対処していくには民間サイドの力も必要かなと思いました。そこで、行政と民間のパートナーシップ的な様相ということで、第3セクターというと聞こえは悪いですが、5年間限定でまちづくり会社を立ち上げることにしました。

事業の一つとしては宿泊施設です。大槌には宿泊施設が足りていなく、応援に来てくれる職員や工事関係者が盛岡や花巻・遠野から通っていた状況がありました。そこで、宿泊施設を確保しなければ復興の妨げになるという思いで、「ホワイトベース」という70室ある建物を、補助金を得ないでリースで造り運営しています。

また、中心市街地の復興計画の支援だったり、まちづくりがどのような状況かを子どもたちに見せてあげたり、情報発信の情報プラウザの運営等もやっていただいています。これからは、様々な観光物産的なところも期待しているところです。

宿泊施設「ホワイトベース」。工事関係者が40名弱、一般のお客さんは20名ほど泊まれるそう

――ありがとうございます。町を回ってみて新しい家や災害公営住宅の建設が以前より進んでいるような気がしました。仮設住宅の利用は現状どのようになっているのでしょうか。

大槌町の応急仮設住宅は2106戸ほどあるのですが、入居率が他と比べて高いんですよね。これは被災度合いが高く、全てが流されているなかで、現在もまだ仮設住宅に住まわざるをえない状況にあるためです。他市町村では、災害仮設住宅の集約化という話も出ているのですが、まだその状況にはなっていません。災害公営住宅に移っていく方もおりますが、先ほども言った通り大槌には宿泊施設があまりないので、応援的な職員や様々な地域から来て支援を頂いている方も住まわせています。

震災前は役場職員が136名いましたが、そのうち40名が亡くなり、現在は128名となっています。さらに、沖縄から北海道まで自治体、企業、任期付応援職員を含め157名と、被災地の中でも多く派遣をしていただいています。その方々を一部住まわせている状況から、集約化はまだまだ先かなという状況です。

――仮設住宅に住んでいる方々とお茶を飲みながら、ざっくばらんに話す「町長とのお茶っこの会」を1年で40回以上開催されていると聞きました。

そうですね。お茶っこの会を何故始めたのかというと、復興を進めていく中で情報の共有化が何より大事だと思っているからです。Facebookをはじめ、ショッピングセンター「マスト」の中に情報プラウザを設けたり、大槌町HPをいち早く充実させたり、広報も月2回、おおつちさいがいFMでも情報を発信したりしています。

しかし、高齢者の方には足がなくてなかなかその情報を得られない。その人たちのために、膝を交えて、肩肘張らないでお話することで不安を解消出来たらと思っています。具体的には現在のまちづくりの状況を説明したうえで「どういった困りごとがありますか?」といった形で話をしていて、時にはつらいときもありますが、励ましの言葉をもらったり、和気あいあいとする場面もあったりします。

――「お茶っこの会」の中で印象的なエピソードはありますか?

中には、「町長、私に50万円くれ」という方がいて、「何に使うの?」と言ったら、「生前葬をしたい」と。家族が亡くなって自分だけが生き残ってしまったので生前葬をしたいと、そういう言葉を聞いたときは胸がつまる思いでつらかったのを覚えています。何とか被災者の皆さんの笑顔を1日もはやく取り戻したいという思いで続けていて、先日46回目を終えました。

――不満や要望を聞くなかで、行政として出来ること、出来ないこと、住民の方々が意識や行動を変えていかなければならないこともあるかもしれません。そのジレンマや苦悩はありますか?

復興は早く進ませたいし、町民の皆さんも切実にそう思っているわけです。住民の皆さんにとってはなかなか行政が動いていることは伝わりにくいわけなのですが、1000年に1度ともいわれる巨大な災害のなかで、法律的にも、災害のための現行制度がしっかり確立されていないので難しい部分もあります。予算や権限がもっとあればと思うところもありますが......。

被災地の最前線に立って、まちづくりをしようということは難しいところもあるわけです。被災地の度合いにより、一定の予算の枠で、住民からしっかりパブリックコメントをして、そして議会が認めるなら、町の為政者に任せるなどの手法も必要なんじゃないかと思うこともあります。

しかし、一方で税金を使うことなので理解も得られないといけないわけです。例えば土地取得に関しても、153年前の被相続人のままの土地があります。153年前というと、会津藩主・松平容保が京都守護職となり、尊王攘夷が起きている頃の土地もあるわけです。そうなれば、相続関係説明図を作るだけでも大変という状況です。憲法29条の財産権について、首都圏直下や南海トラフ巨大地震のことを考えますと、何とかしなければならないと思います。

そうしたなかで、土地収用法の一部改正をしていただきましたが、業者・資材の確保が難しい、小中一貫校建設工事の入札で41社指名しましたが40社辞退し、1社不落というのが2回続き、3度目にやっと落札していただいたということもあったりしました。被災地の範囲が広く、一斉に工事が始まっているのでやむを得ないこともあるわけで、いずれもさまざまな諸課題があるなかで進めるのは難しいところもあります。

復興への思いを語る碇川町長 写真:Hana Ozawaさん

■「ひょっこりひょうたん島シリコンバレー」と言われる町に

――国としても「地方創生」が言われ、地域の取り組みが注目を浴びるようになってきたと思います。この流れについてはどう感じていますか?

20~39歳の女性が50%の市町村で半減する可能性があると日本創成会議で言われていますが、私も以前から北海道東北6県、北関東3県合わせた人口が将来的になくなってしまうというショッキングなことをデータ的に感じていました。しかし、地方自治体一つ一つに出来ることは限られているので、国をあげてしっかり取り組まなければいけないと思います。

その中で、3.5兆円の経済対策が去年の12月27日に閣議決定されて、まち・ひと・しごと創生総合戦略が打ち出されました。地方の時代といわれて久しいですが、被災地が人口減少・高齢社会に直面するなかで、それどころではない状況ですが、何とかアイデアを出しながらやっていかなければいけないと思っています。

大槌では高齢化率が33%、人口減少も23%と一気に進んでいて、日本全体が抱える課題の縮図のような状況となっています。なので、今までのような右肩上がりの人口増加は見込めなく、人口減少をいかに鈍化させるかという計画を立てながら頑張っているところです。いずれにせよ、今回の「地方創生」を通して、国民一丸となって取り組まなければいけないことではないかと思っています。

――これからの大槌町をどうしていきたいですか? 復興計画の展望などをお聞きしたいです。

直近の課題として、団塊の世代が2025年には後期高齢者になるということで、施設も病院も飽和状態になってしまいます。地域包括的なまちづくりのなかで、民間一体となって見守り制度を行いながら、地域全体で支えていく社会をつくらなければいけません。

そして、子供たちが大槌で育ち学べるような素晴らしい環境を作っていく必要があります。その中で、産業の再生・町のブランド化を図っていかなければならないと感じています、大槌は水産業が基幹産業ですが、そればかりでなく農林業や商工業も含めたバランスの良い、就職先を選択できるような町にしたいと思っています。

また、東京大学大気海洋研究所が始めた「東北マリンサイエンス拠点形成事業」により、世界最新鋭の海洋調査船「新青丸」の母港が大槌になりました。これから「新青丸」によって、大槌が世界最新鋭の海洋調査研究の拠点になるといわれています。

なので、学会やシンポジウムが頻繁に開かれ、交流人口が拡大していくような取り組みをしていき、それにICTも組み合わせたまちづくりをしていくことによって、総称して「ひょっこりひょうたん島シリコンバレー」といわれるような形にしていけたらと思っています。

――震災から4年がたとうとしている今、「風化されてしまっている」という言葉もよく耳にするようになりました。これに関してはどのように感じていますか?

風化はやむを得ないことなんだと思います。でも、我々としては情報発信し続けていかなければいけない。人間の一生なんて地球の歴史から比べたら一瞬に過ぎないけれど、1000年に1度といわれる大災害、その一瞬に我々は遭遇しました。だから、今を生きる世代として、後世にしっかり情報発信をしていく責務があると思っています。

その一環として、「生きた証プロジェクト」というアーカイブ事業も始めています。1284人の方々が亡くなりました。亡くなった方々が生前どういった方だったか、震災当時どういった行動をしていたのか、調査活動を開始しております。それは、小さな町だから出来ることだと思っています。記録を後世に残し伝えていくことで、風化防止につなげたいと思っています

――被災地に住んでいない私たちが出来ることはなんでしょうか? また、最後に読んでいただいている皆さんにメッセージをもらえたらと思います。

各地で「リメンバー大槌」を開催してほしいです。写真展や、講演会、セミナーを開催することが風化防止につながるし、首都圏直下型地震や南海トラフ巨大地震への備えにも生かせると思います。

震災が風化しはじめていますが。今もなお応急仮設住宅で不自由な生活を強いられている現状があります。何をして上げるではなく、被災地に来て声をかけてくださるだけでありがたく思っています。そうして、見返りを求めず支援をしてくださり、無償の愛を贈って頂いている方々に心から感謝しています。

震災前の大槌町。真ん中に小さく見えるのが通称「ひょっこりひょうたん島」 写真提供:大槌町役場

(2015年3月9日、「Wanderer」の記事を編集して転載しました)

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