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日常を非日常のように生きる

2014年02月15日 15時36分 JST | 更新 2014年04月16日 18時12分 JST

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松本紹圭です。仕事の合間を縫って、法然院さんの仏教入門講座に行ってきました。法然院は京都の東山にある浄土宗のお寺さんで、ここ京都では私が一番よくお参りさせていただいているお寺です。

お庭や伽藍、仏像など、京都には見所いっぱいのお寺がたくさんありますが、法然院はそれらの目に見える良さもさることながら、梶田住職の存在とそこに集い人々のサンガの良さが際立っています。お参りする度、「この町にこんなお寺があってくれてありがとう」としみじみ思います。

過疎に悩むお寺さんも多い昨今ですが、お寺の究極の過疎対策は「そのお寺があるから、その町に移り住みたい、その町から離れたくない」と思ってもらえるほどに、お寺の魅力を高めることかもしれません。

梶田住職が法然院サンガ(お寺に集う人たち)向けに書かれた文章から、一部、ご紹介させていただきます。

社会的役割を担って生きることが現代における生きがいとなっておりますが、寺は参っていただく処ではなく、会社では肩書があり、家に帰られても家での役割に押し潰されそうな時に、肩書や役割を外して帰って来ていただき、慈悲に溢れる佛と向き合い、楽になっていただく処です。本年も心の潤いと糧の補給にお立ち寄り下さい、「阿弥陀さん、ただいま!」と。

お寺とは何か? という問いへの答えが梶田住職の言葉で単的に示されています。ただいま!と帰れるお寺、いいですよね。私は仕事柄、日常的にいろんなお寺にお参りさせていただくので、あちこちでホッとさせていただいているのですが、法然院は格別にホッとします。

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さて、仏教入門講座は「空(くう)」がテーマでした。入門とはいえ、ナーガールジュナの空の考え方は難しいです。テキストの『仏教入門』(三枝充悳)には、こう書いてあります。

「あらゆるモノ・コトは、つねに他のモノ・コトと深い相互依存の関係のうえにはじめて、そのモノ・コトとして成立しており、その存在から運動や機能までのすべてに、自己同一も単独の自立もあり得ないことを(ナーガールジュナの)『中論』は説く。そしてその論理は、いっさいをこの相依関係にもたらしてゆく。

この関係は相互肯定と相互否定との両者を同時にふくみ、しかも流動性に富んでいて、きわめて複雑であることが『中論』に明らかにされ、このような相互依存関係による解明がかれの縁起説に相当する。・・・『中論』の説く縁起は、先に述べた可逆的な相依(パラスパラ・アペークシャー)を特質として、その徹底によって、いっさいはこの縁起にもたらされ、したがって「自性(じしょう)」は消える。

「自性」の否定を「無自性」(ニヒスヴァバーヴァ)と術語化し、あらゆるモノ・コトが無限の相依とつねに変動する流れとに浸される。そのなかで、それらのモノ・コトは、却って自由なはたらきがひろがる。またことばとしては否定を重ねながら、大いなる開放がもたらされる。そのような場に、「空」という基底の地平が開かれる。」

あらゆるものに実体はないというものの見方は、私たちの日常感覚からかけ離れているために実感しにくいのですが、ここで先日、歯医者のロビーでパラパラと読んだ雑誌「Newton」の「超ひも理論」の記述を思い出しました。詳しいことは良くわかりませんが、「超ミクロの世界では質量ゼロのひもが動き・・・宇宙は9次元で成り立っている・・・」という趣旨のことが書かれており、「質量ゼロのひも」「9次元の宇宙」というまさに私たちの日常感覚からかけ離れたものが物理学の世界ではふつうに語られているんだなと、やけに感心した次第です。

先日、應典院で秋田住職と宗教学者の稲葉圭信先生とお話しをしていたときに、日常―非日常感覚について面白い話題がありました。「震災など緊急時の非日常においては、誰でも利他主義になろうとする傾向がある。しかしその後、日常に戻ると多くの人が自己中心的な元の姿に戻ってしまう。宗教者の真価は、その日常において利他主義を貫けるかどうかだろう」

本当にその通りだと思いました。宗教者が宗教者たる所以は、ふつうの人には日常と映る平凡な毎日の瞬間瞬間に、まったく異なる視点からそこに非日常性―聖性を見いだし、日常に埋没することのない自由な精神を持って菩薩のように自然に利他を行う点にこそあると思います。本当に大切なことに、いつもアンテナを向けていたいですね。

(2013年7月18日「Everything But Nirvana 」より転載)