愚者の智慧~『歎異抄』で企業理念を考える(仏教と経営 第2回)

善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや (善人でさえ、救われる。悪人ならば、なおさらだ) 鎌倉時代後期に唯円によって書かれたという仏教書『歎異抄』に出てくる親鸞の有名な言葉です。親鸞は浄土真宗の宗祖、唯円はその弟子です。教科書にも出てきますので、聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。「あれ、善人と悪人が、逆じゃないのかな?」と思わせるこの逆説的な言葉に惹かれて、親鸞ファンになる人も少なくありません。

善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや

(善人でさえ、救われる。悪人ならば、なおさらだ)

鎌倉時代後期に唯円によって書かれたという仏教書『歎異抄』に出てくる親鸞の有名な言葉です。親鸞はの宗祖、唯円はその弟子です。教科書にも出てきますので、聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。

「あれ、善人と悪人が、逆じゃないのかな?」と思わせるこの逆説的な言葉に惹かれて、親鸞ファンになる人も少なくありません。常識で考えれば、善人こそが救われて、悪人はその罪に相応の罰を受けるべき。では、親鸞の言葉の真意は?

自分の力(自力)で善を積んで救われようとする人は、阿弥陀仏の力(他力)にすべてをおまかせする心が妨げられて、かえって救いから遠ざかってしまうというのです。この言葉から、まず「自分のことを善人であると信じているうちはダメで、自分の悪い所や至らない所を自覚することが大切なんだ」という教訓を得ることができます。

人は誰しも、自分が可愛いもの。いつも自分は正しい、自分は悪くないと思っている。他人から間違いの指摘や改善のアドバイスをもらっても、素直に聞き入れることがとても難しいものです。ましてや組織の中で成功を重ねた人が、社長やCEOなどトップマネジメントへ上り詰めるとどうなるか。意見をしてくれる人もいなくなりますし、なおさらその傾向は強まります。そういうときこそ、危険。「常に私は正しい」という"うぬぼれ"が心の中に忍び込んできます。そんな時には「いはんや悪人をや」を思い出し、心を戒めること。そうして、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の哲学、経営用語で言うところの「理念(バリュー)」を取り戻すというわけです。

―世界には始めからモレもダブりもない

しかし、そこで考えを止めてしまってはもったいない。親鸞の自戒は、トップマネジメントが新人時代の初心に返るレベルのものではありません。「(どんなに成功を重ねた)私にも、間違いや失敗だってある」というレベルの悪人性を言っているのではないのです。「この私の中には、真実の欠片もない。正しさの欠片もつかむことができない」という、人間の絶対的な悪人性、愚かさを言っているのです。

人間というのは、何もかも分かったような顔をしていても、実際には何も分かっていない。文字通り、何ひとつ分かっていないという、人間の愚かさに対する親鸞の深い洞察がこのような表現を生んだのでしょう。謙遜や自戒ではありません。明らかな事実として「本当に私は何も分かっていない」という深い自覚を得たところから、「救い=ブレークスルー」が生まれた点にこそ、注目すべきです。

この、「本当のところ、私は何ひとつ分かっていない」という認識から常にスタートすることは、企業の「使命(ミッション)」や「戦略」を考える上でもとても大切な示唆を含んでいるように私は思います。さまざまな戦略フレームワークは思考の道具として役に立ちますし、「分かったような」気にもさせてくれますが、限界もあります。

たとえば、MECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive、モレなく・ダブりなく)で考えても、世界のすべてを隈なく掌中に収めることはできません。なぜなら、そこでは肝心の「この私」が思考対象からモレてしまっているからです。仏教から見れば、世界には始めからモレもダブりもないのです。むしろ、「モレなく・ダブりなく」と言う視点で静的に世界をつかもうとする自己の愚かさを、徹底的に見つめ抜かなければなりません。そうして自分と世界がぴったりと重なる"自他一如"の境涯を体得したときに初めて、本当の意味で「モレなく・ダブりなく」を知るのではないでしょうか。

―経営における自他一如の境涯

親鸞の言葉には、その組織が普遍的に追い求める「使命(ミッション)」と、行動原理となる「理念(バリュー)」に対する、深い示唆が込められているように思います。

環境分析など戦略立案に必要な手法は知っていて、マーケットや、よその会社が置かれた状況に関してはロジカルに鮮やかな分析をしてみせるのに、いざ自社のこととなると必ずしも歩みが定まっていなかったりするのはなぜか。新たな市場を創造するイノベーションになかなか辿りつけないのはなぜか。ここに、「自分」と「世界」を切り離して思考してしまっていることの弊害があるように私は感じるのです。別な言い方をするのであれば、おそらく、「知恵」は十分でも、「智慧」が育っていないのです。

智慧とは、ものごとのありのままを見通す力のことです。その力を養うには、何よりも自分という人間を知ることから始まります。智慧が開けてくれば、人の根本的な「苦しみ=ニーズ」に対する理解が深まります。解決すべきニーズ(痛みや悲しみ)も分かりますし、煽るべきでないニーズ(射幸心など)も見分けられるようになります。

さらに智慧が開けてくれば、社会の中で自分がすべき仕事、即ち「使命(ミッション)」も自ずと分かってきます。自分の好きなことや得意なことに引っ張られすぎることなく、世界と自分の位置関係を感じながら内から湧き出るミッションに従って自然に行動できるようになります。

満たすべきニーズと見上げるべきミッションが定まれば、顧客の創造も容易です。これが、経営において、自分と世界がぴったりと重なる"自他一如"の境涯と言えるでしょう。

自分と世界を一つのものと捉え、森羅万象を理解しようとするアプローチは非常に東洋的なものでもあります。つまり、米国や欧州など西洋の企業と差異化していく源泉ともなるかもしれません。

その出発点としても、「本当のところ、私は何ひとつ分かっていない」という、親鸞の「愚者の智慧」が今ほど必要な時代はないのではないでしょうか。

(この記事は2012年6月27日に「GLOBIS.JP」で公開された記事の転載です)

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