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あなたにとっての『自由』とはなんですか?「大きな政府」「小さな政府」「リベラル」「自由主義」を考える

2014年09月29日 14時40分 JST

昨日の記事の中でも、

「小さな政府」「自由主義」

という単語を使わせていただきました。

政策を語る上で避けて通れないこうした政治思想の違いですが、

これって一体なんじゃらほい?

本日は、そんな今さら人に聞きづらい話でも書こうかと思います。

日曜日ですしね。

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(写真は自由主義者のバイブルの一つ、ハイエク「隷属への道」)

まず先日、某プロブロガーのイケダハヤト氏のメルマガを読んでいたら、

こんなQ&Aが目に入りました。

-

Q.

イケダハヤトさんってリベラルなんですか?(要約)

A.

(前略)あらためて対立する軸について記述するとしたら、社会の方向性として、

個人の自由をどこまで最大化するか、という観点はあるのかなぁ、と思っています

(本来、リベラル/保守というのはそういう議論なんでしょうけど)。

たとえば「親の介護を一切しない」「子育てを放棄する」という自由を社会として容認するか、みたいな。

ぼくは最大限の自由を容認したい&そのためなら税金が上がってもいいと考えている派です。

こういうのをリベラルと言うんでしょうかね?

-

これ、非常に端的に「リベラル」と「自由」の関係の要所をつく考えです。

政治思想における対立軸の一つは、実はこの「自由」を巡る解釈の違いなのです。

イケダ氏は、介護や子育てなどの社会保障分野に政府による積極的な介入を望んでいます。

そのためなら増税一直線で、いわゆる「大きな政府」になることを厭いません。

その結果、手に入れた時間や身分が『自由』だと感じるわけですね。

この立場に立つ人はまさに、

政治思想ワードで言う「リベラル」に分類できます。

でもこれって、本当に『自由』なのでしょうか??

私は『自由』が大好きです。できる限り自由でありたいと思います。

そのためには、税金はなるべく安い方がいいし、社会保障分野など自分の責任で行いたいです。

お金を強制的に持ってかれて、年金や介護保険に、勝手に用途が決められるなんてとんでもない!

人間には、自由意思がある。選択権がある。

たとえみじめな老後を送る可能性があろうとも、自分たちの道は自分で決める。

それこそが『自由』だ!

これがもう一つの『自由』に対する考え方であり、

私のような考え方は、「リベラル」と区別するために

「リバタリアン(自由主義者)」「古典的自由主義(古典的リベラル)」などと呼称されます。

この考え方は当然、税金はできるだけ安くという

「小さな政府」という政治スタンスに親和性が高くなります。

イケダ氏は「新たな政治対立軸は、個人の自由をどこまで最大化するか」

という観点ではないかと提唱されていますし、少し前にはネット上で新たな

政治対立軸の提起として、下記の記事が話題になりました。

そろそろやめませんか?「右翼/左翼」「保守/リベラル」って分類は。

http://www.huffingtonpost.jp/rootport/ideology_b_5457490.html

この記事中でも、「個人VS社会」「小さな政府VS大きな政府」という

対立軸が示されていますが、その前にそもそも『自由』についての価値観・考え方の

相違を整理しなければ、この議論は成り立たないのです。

ちなみになぜ、「リベラル」「リバタリアン」「古典的自由主義」とか、

わかりづらく類似の言葉が並べられるようになってしまったのでしょうか?

そもそも「自由主義」とは、フランス革命前夜の時代に啓蒙思想から生まれた考えです。

時は絶対王政。国家や権威が支配する封建社会において、そこからの解放、個人の意思決定、

すなわち「自由」を唱えた革命思想がそもそもの「自由主義」でした。

この「革命思想」という性格がポイントです。

その後の歴史の中で、資本主義社会へのアンチテーゼとして

「社会主義」という革命思想が立ち上がります。

資本主義を「資本家による搾取・支配」とした社会主義は、

そこから「自由」になるためには政府による手厚い社会保障と統制が必要だと訴え、

それこそが「真の自由だ」として、自らの立場を『リベラリスト(自由主義者)』と名乗ったのですね。

絶対王政、つまり国家による束縛から逃れるはずの思想だった「自由主義」は、

いつの間にかまた国家=政府に立場や意思決定を預ける思想へと、

その意味を換骨奪胎をされてしまったのです。

これを良しとしない、本来の意味(個人の意思決定の尊重や国家からの解放)で

自由主義という言葉を使いたい人々は、自らを『リバタリアン(自由主義者)』と名乗りました。

そしてリバタリアンたちの思想は、リベラリストたちのそれと区別するために、

正確には「古典的自由主義」と呼ばれるようになっているわけですね。

うーん、とってもややこしい(苦笑)。

様々な小説や、あるいは映画などで、こんなストーリーがあります。

政府や巨大な組織で管理された箱庭の社会。

そこでは何も知らない人々が、それなりに幸せな生活を享受していた。

しかし、それが偽りの監視社会であることに気づいた主人公は、

その巨大なシステムに闘いを挑む。傷つき、仲間が倒れ、

それでも最後まで

「どんなに苦しくても、自分たちの道は自分たちで決める!」

と立ち向かう主人公たちに、

観客や読み手は拍手喝采を送る...。

しかしながら、現実の社会に目を向ければ、

多くの人は「大きな政府」という監理社会を望み、

「もっと社会保障を充実させろ」

「国は何をやっているんだ!責任を取れ!」

と責め立てます。

日本だけではなく、世界中ほぼすべての先進国はひたすらに「大きな政府」へと突き進み、

慢性的な財政赤字を将来世代にツケとして先送りしています。

以上は少々、私のバイアスが入っています。

どちらが悪いということではありません。

さらにその良し悪しは、時代や状況によっても変わります。

政府によって与えられた時間や身分を「自由」と考えるか。

老後の心配や子育ての苦労も含めて、自己決定こそ「自由」であると感じるか。

よかったら今夜、少しだけ考えを巡らせて、

恋人や友達、家族とも話し合ってみてください。

案外と「政治」への理解は、そんなことから深まるのかもしれません。

需要があれば、折を見て「保守」「リベラル」なんかの話も

書いてみたいと思います。こういう記事は、アクセス低いんだろうけど(苦笑)。

9月も終盤戦、新しい一週間も頑張りましょう。

それでは、また明日。

(2014年9月28日「おときた駿ブログ」より転載)