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コネで適当に入社した会社が、その後の自分の人生を大きく変えた。

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学生を卒業し、社会に出ること。
学校よりも広い社会という世界に身を投じ、様々な出会いと経験を重ね、成長していくこと。

就職活動は人生の分岐点のひとつです。

でも、社会に出たことのない学生ができる活動には限度があります。
実際に働いてみないと分からない得手不得手、人間関係はもちろんのこと、
配属される部署によって、同じ会社でも仕事内容は大きく変わってくるもの。

人生のストーリーを投稿するサイト『STORYS.JP』に、
マスコミ志望の就職活動に挫折し、コネで入社した会社で人生が変わった、というストーリーが投稿されています。

社会で働くことのイメージが欲しい学生が読めば、自分の将来を考える上でのヒントに、
今の働き方に疑問を持っている人が読めば、きっと自分を見つめ直すいい機会になるかもしれません。


■無謀なマスコミ志望

ぼちぼち就職活動をすることになり、私も活動を始めたのだが、志望の業種はマスコミ。
地方の女子大で、大手マスコミなんて書類選考で通るわけもなく、面接にも届くことなく、ことごとく落ちていった。
新聞社の筆記試験を受けてみたり、大手出版社の会社説明会に出て、「中はこんな感じなんだ」と、社会見学くらいにはなったけど、それだけだった。

振り返って考えてみれば「マスコミ」というだけで、そこで何がしたいのかが全く見えてはいなかった。
そういうことにも気がつかないまま、時間は過ぎていった。

ある日、父の友人たちが実家に訪ねてきた。たまたま帰省していた私は、父の友人たちとも話を交わした。就職活動の話も出たのだと思う。数日後、父の友人から連絡があった。娘さんの様子ではマスコミは難しいのではないか。会社を経営している知り合いがいるから、受けてみては。そういう申し出だった。

コネではあったけれど、一般採用と同じように面接などひととおりの試験は受けて、数日後ひとり暮らしの自宅で合格の電話連絡をいただいた。電話を切ってから泣いた。これで私の人生はこの会社で終わるのだと。マスコミに就職するという夢は、これで完全に断たれてしまったのだと、悲しくなり涙してしまった。


■学生気分から一転

4月も近づき、いよいよ社会人となるころ、「えっ? 会社って1日から始まるの?」と寝ぼけたことを言っていた。8日くらいから始まるのかと思っていた。父には呆れられた。
4月1日に入社式があり、そのまま2泊ほどの新人研修の合宿へ。すごく息苦しくて、厳しい研修だったけれど、同期と仲良くなれたので、それはそれで楽しかった。

合宿が終わると、今度はその会社が経営しているガソリンスタンドでの2カ月の研修が待っていた。ガソリンスタンドで仕事なんて、絶対無理だと思った。本社で配属先の所長たちとの顔合わせがあり、私の行くスタンドの所長は、その中でもいちばん怖そうな人だった。「私、研修中に絶対泣くんだろうな」。確信した。

新入社員は4〜5人に振り分けられ、本社からガソリンスタンドの所長に連れられて、所属先のガソリンスタンドに向かった。スタンドに着いて、2階の事務所に通された。
所長直々に、研修中の心構え、仕事に取り組む態度などを諭されるのかと思っていたら、制服を渡されて、勤務時間のシフトの話が終わったら、あとは所長の漫談が始まった。レモンサワーを飲みながら。結局夕方まで所長のとりとめのないおもしろ体験談を聞いて、その日は終わった。

翌日からガソリンスタンド勤務が始まった。時間よりも少し早めに出勤して、着替えを終えて階下に降りようとしたら、所長が「これでジュースでも買ってこいよ」と小銭を渡された。「え? ......え??」。自販機で紅茶を買って2階に戻ったら、「まあ、ゆっくりしていけよ」と所長の話が始まった。えっと......、私の仕事の時間はとうに始まっているのですが......と思いつつ、所長の話が終わらないので仕事に行けない。やっと終わって階下に降りていった。こんな初日でいいのか?

ガソリンスタンドの仕事なんて、ガソリンを入れる、窓を拭く、くらいのことしかイメージできていなかった。私たち新人は、もちろんそれくらいしかやらせれもらけなかったけれど、それでもお客さんごとに注文を聞かなくても動けるようになっていなくちゃいけなかったり、思った以上に覚えることがたくさんあって、メモを取りながら仕事を覚えていった。

デスクワークではなく、立ちっぱなしだし、先輩たちは走り回っているので、その合間合間にメモを取って少しずつ覚えた。
所長は人を使うのがすごく上手な人だった。温かい人だった。だから先輩たちもみんな優しくて、きちんと指導してくれた。


ホームシック

大型連休中は、同じ会社が経営しているホームセンターに研修に行かされた。ガソリンスタンドに行く前は、先入観で早くホームセンターの仕事に行きたいと思っていた。

が、蓋を開けてみたらホームセンターは地獄みたいだった。誰も気にかけてくれない。誰もかまってくれない。かまってくれないっていうのは、昼休みや帰る時間になっても、店長が声も掛けてくれないっていうこと。

現場の手伝いに来ているのに、何をすればいいのか分からない。レジのサッカーをいきなりやらされたり、倉庫で商品を出すのを手伝わされたり、その日、そのときによって、あれやってて、これやっててと言われて、自分が役に立ってるのか、お荷物になってるのかさえ分からなくなった。たった1週間のホームセンター勤務だったけど、もう毎日泣きそうだった。

ホームセンターの研修が終わって、やっとやっとガソリンスタンドに戻った。他の新人たちもそれぞれ別の店舗に研修に行っていたけど、帰ってきてみんなほっとしていた。人との温かい交流って、こんなにも人の気持ちを変えるんだなと、つくづく実感していた。

今思えば、新人で入って、そのまま本社勤務にならなくて、本当によかったと思った。ガソリンスタンドとホームセンター研修を受けてみて、仕事をしながらでも心の交流は持てる、温かい人と人との交流があれば仕事もはかどる、そんなことを身をもって感じられたのは、貴重な経験だったと思う。そういうことを知らずに本社勤務を始めてたら、本当に心がポキッと折れていたかもしれない。

新人時代の2カ月の研修は、私に社会で生きていく自信を授けてくれた。所長や先輩たちが、働く厳しさも楽しさも教えてくれた。本社勤務になってからも、それが私を支えてくれた。そして、私が本社をちょっとずつ変えていった。ほんの些細なことだけど。


■できることを少しずつ

6月になり、本社勤務が始まった。私が配属されたのは、ホームセンターの事務の仕事。バイヤーさんたちの仕事をサポートするというような業務内容だった。

最初に教えられたのは、もちろん電話応対。これは恐怖だった。

自分が敬語をうまく話せないという自覚があるから、電話に出てもあわあわしてうまく話せない。それでまた焦ってしまうという悪循環だった。名前と顔と席が一致していないため「席を外しています」「外出していて○○時に帰ってきます」という、それだけの返答をするのにも心臓がバクバクだった。

理不尽なこともあった。フロアの人たち全員に朝と午後の2回、お茶やコーヒーを出さなくてはならない。もちろん、出すのは事務の女性たち。1週間交代だったと記憶しているけど、ひとりで全員分用意をしなくてはいけなかった。それぞれ誰のマグカップ、湯のみかを全部覚えて、コーヒーを入れるにしても、この人は砂糖○個、ミルクあり、ミルクなし、そんなことまで覚えなくてはいけなかった。知るかっ!! 飲みたいときに飲めっ!! と、喉まで出かかるけれど、仕事は仕事。こんなお茶出しも、いつの間にか廃止された。

そしてその後、私は2度異動するのだが、その2カ所でも最初はあったお茶出し制度は廃止されていった。私が何かしたわけではないはずなのだけど。。

例えば、コピー機の紙詰まり、紙の補充、トナー交換など、本当にささいなことだけど、仕事が立て込んでいて、いっぱいいっぱいのときには、こんなことに時間を取られたくないと思う人も多い事柄だと思う。それを自分からやるようにした。

紙詰まりもよほどのことがない限り、自分で直せたし、紙はコピー置き場の在庫がなくならないように、減ってきたら倉庫から段ボールごと抱えて運んだ。トナーの在庫がなくなりそうだったり、故障のときはリース会社に電話した。

私が配属された業務はバイヤーさんたちの事務処理などの手伝いだった。とはいえ、入りたての新人に積極的に仕事を頼んでくる人は少なかった。

やってもらいたいことを1から教えるよりも、先輩たちに頼んだほうが早いので当たり前だ。最初のうちは、先輩が振られて仕事の一部を私が手伝うというようなことが多かったのだと思う。要するに、「私の仕事」というのが特にないわけで、なんとなく居場所がない。それでも、みんながちょっと面倒くさいと思うようなことを少しずつやっていたら、だんだん居場所ができてきた。

そんなことを続けていると「酒井さーん(旧姓)、紙が詰まっちゃったみたいだから見てー!」「紙はどこに入れるの?」「トナーがなくなった!」と、私指名で声が掛かるようになった。

こんな小さなことでも、私の持ち場ができたようでうれしかった。そういう機会にバイヤーさんたちと話すようになって、気心が知れるようになり、頼まれる仕事も増えていった。何事も腐らずに、できることだけでも続けていると人との関わり方というのは変えられるのだと思う。

すぐに打ち解けてくれる人、いつも仏頂面で苦手な人、いろいろいるけど、感じの悪い人がぶすっとした顔ででも、「酒井さん、紙がない」と言ってくるようになったときは勝手に勝利を手にした気分になっていた。

電話応対もすっかり身に付き、人間関係も良好に気付けるようになり、仕事にも慣れてきて、そろそろ入社1年が近づくころに、貯金が貯まっていることに気付いた。何かに使えないかな? と思うようになっていった。


■異動、そしてまた異動

先輩たちと冗談をいいながら仕事をできるようになった。いつものようにコピー用紙の段ボールを抱えて運んでいると、バイヤーさんたちが手助けしてくれるようになった。面白い上司をいじって雑談できるようになった。そして気付けば、お茶出しの制度は廃止されていた。

入社1年経つころには、確実に自分の居場所ができたと実感できるようになっていた。本社勤務になって9カ月のころだった。そのころ、ガソリンスタンドを統括している部署で、事務の女性がふたり退職するという噂が出ていた。

ひとりは私の同期の入社1年の女性だったけど、もうひとりはベテランでかなり仕事ができると評判の女性だったから、人づてに聞いて、他部署ながら、ああ、大変だなーと思っていた。火の粉?が突然私に降りかかってきた。私がその部署に異動することになった。

ふたり辞めるのに、補充は私ひとり??

よく分からないぞと思いながらも辞令は辞令。正式に辞令が発表されて、掲示板に張り出されたときには、今までの部署のひとたちに「行っちゃうのー!?」と残念がってもらえて、そんなこと言ってもらえるくらい成長してたんだなあとうれしかった。

異動した先の業務は、ガソリンスタンドの売り上げの処理や伝票整理など、「私の仕事」というのがあった。最初の1カ月は先輩に教わりながらこなして、2カ月目は自分でやりながら分からないところを先輩に聞いてこなして、3カ月目に入ってやっと新しい職場や仕事にも慣れてきたころだった。ちなみにこちらの部署も最初はお茶出しの業務があったが、私が異動してすぐになぜか廃止された。

今度は経理の出納係の女性の退職の噂が流れてきた。おまけに、入ったばかりの新入社員も辞めるらしい。出納係の人が辞めるなんて、大変だなーと、他部署のことだけど気にしていたら、また火の粉?が私に降りかかってきた。新しい部署でまだ3カ月しか経っていないのに、今度は経理へ。しかも、かなーり重要ポストの出納係にされてしまった。

簿記も持ってない、経理ってどんな仕事をするのかも分からないまま、出納係の引き継ぎをすることになった。期間は2週間。マニュアルも作ってくれていたが、メモを取りながら、とにかく必死に仕事を覚えた。

2週間で、聞ける人がいなくなってしまうのだから。出納係がなぜ重要かというと、単に現金(小切手を含む)を扱うからというだけなのだが、現金を扱うからこそ誰でもいいというわけではないようだった。コネで入社した私だから、素性が分かっていて信用できると思われたのかもしれない。

出納係のいちばんの業務は、交通費などの清算をしに来る人へ現金を渡すこと。出金伝票と領収書のチェックをして、きちんと書けていれば伝票を預かって現金を渡す。書き方が違うなど、不備があった場合は指摘して修正してきてもらわなくてはいけない。

イヤな思いをさせないように指摘して、気持ちよく修正してきてもらうというのは、なかなか高度なコミュニケーション能力を必要とする。前任者はとても人当たりが柔らかい人で、本社の人たちみんな一目置いているような女性だった。

入社していきなり経理だったら、厳しかったかもしれないが、なにしろホームセンター事業部もガソリンスタンドの事業部も渡り歩いた私だったので、他の部署の人たちの人柄などをなんとなく把握していた。それが功を奏した。

出納係としての仕事を通して接する以前に交流があったのだから、信頼関係が築けている。だから、不備などの指摘もあまり抵抗なくできた。

2週間の引き継ぎが終わって、ひとりで任されるようになってしばらくは仕事をこなすので必死だった。でも、仕事に慣れてくると、前任者からそのまま引き継いだ机の中が、非常に非効率だと思い始めた。これとこれが関連があるのに、どうして別の引き出しに入っているんだろう?というようなことを多々感じるようになった。

前任者は、机の中は上司も把握しているから移動させないでと言っていたけど、それは違うんじゃない? そしてあれこれと、効率的に業務ができるように変えていったら、なんか時間的に余裕ができてしまった。忙しい時期もあるけれど、そうでない時期は定時まで時間が余ってしまったりする。

自分は時間を持て余しているのに、隣のベテランの女性の先輩がやたら忙しそうなときがあったりする。あるとき、先輩に「何か手伝うことないですか?」と聞いてみたら、その先輩は「そんなこと言ってくれたの、酒井さんが初めて!」とものすごくびっくりしていた。え? 暇だから、忙しい人を手伝って当たり前なのでは?

私が経理に配属されるまでは、そういう感覚を持つ人がいなかったらしい。伝票入力など、誰にでもできる仕事なんてみんなで協力すればいいのにと、私なんかは思うのだけど。

先輩に言わせると、前任者はいつも忙しそうでほぼ毎日残業していたそうだ。私は月末は締めなくてはいけなかったから残業もあったけれど、それ以外は定時に帰れていた。人の手伝いをこなしても、定時に帰れていた。

私には、残業ができる理由が分からなかった。同じ業務内容のはずなのに、人によって違ってくるんだなあと感じた。

私が所属した3カ所目の部署の経理も、最初はお茶出し制度あった。私が異動してしばらくするとなくなった。これは今でも私の中で謎。「お茶出しなんてやめよう!」と、声高く主張したことなどないはずなのに、無言の圧力をかけていたのか?

まあ、自分が飲みたいというタイミングで飲むのが、いちばんだと思うけど。ちなみに、私はよく先輩に「紅茶でいい?」と聞かれて入れてもらっていたっけ。自分で入れろよ、私。

仕事にも慣れて、お金も貯まってきて、さて、何に使おうかと考えたとき、勉強をしようと自然に思えた。仕事をすることに慣れてきた私は、いよいよ貯まってきたお金の使い道を考えるようになっていった。


■勉強をしよう

ある日、新聞に専門学校の生徒募集の広告が載っているのが目に入った。いろんな学校の情報がずらっと一覧になっていた。その中に、編集者&ライター養成の専門学校があるのに気がついた。

「こういう学校があるんだなー」と、よくよく見てみると、ある編集者&ライター養成の専門学校の中に「スポーツ科」というのを見つけた。その瞬間「これだ!!」と思った。


■夢に向かって

大学卒業時に、なんとなくイメージでマスコミを目指していた私。でも、たとえマスコミ系の会社に入っていたとして、何がしたかったんだろう? 大手の新聞社、出版社を受けるだけ受けていたけど、入社することしか考えていなかった。入った後のことなんて、そういえば、考えていなかった。

ライター&編集の専門学校の広告に「スポーツ科」という文字を見つけたときに、「これだ! これだよ!!」と思った。

子供のころから、テレビでスポーツがやっていたら、どんなものでも見ていた。最初にスポーツって面白いと感じたのは、たぶんロサンゼルスオリンピックを見たときだと思う。マラソンや駅伝、大相撲、野球(パ・リーグにしか興味なかった)、そしてもちろんテニスも。

スポーツ選手を追いかけて記事にする。そういうのがやってみたい!! 体の中からなにか熱い気持ちが湧いて出てきた。すぐに専門学校の資料請求をした。母には、「会社辞めて、この学校に行きたい」と伝えた。

ライターや編集者の養成の学校は、他にもあった。平日の夜などに授業が行われて、数カ月間で終了する講座もあった。でも、そういう講座を受けただけでは、その先の就職とかにつながらない気がした。私が通おうと思ったところは、しっかり2年間ある学校だったので、仕事は辞めなくてはいけない。

専門学校に履歴書と志望動機のレポートを出して、しばらくして入学許可の案内が届いた。上司に3月末で退職する旨を伝えた。会社員生活は、丸4年になっていた。

2泊の新入社員研修、2カ月間のガソリンスタンド研修、3回の異動、やりがいを感じることもあったし、もちろんたくさんイヤなこともあった。でも、4年間の会社での経験は、ひとつも無駄なものなどなかったと思う。優良な企業ではなかったと思うけど、でも、人として成長できたのはこの4年間があったからこそだから。

仕事をするうえで大切なことは「仕事ができる」と思われることではないと思う。大切なのは「あの人は信頼できる」と思われること。どんな小さなことでも、ひとつひとつを誠実にこなす、それが信頼につながって、人と人とがつながって、仕事を任されるようになるのだと思う。ときには失敗してしまうこともあるだろうけれど、そういうときは過ちを認めて、その失敗を次に生かそうとすれば、周りもフォローも得られるだろう。

大学卒業時点でマスコミへの就職の可能性がなくなり、これで私の夢は潰えたと思い込んでいたけれど、それは思い込みだった。自分さえその気になれば、道は開けると思った。専門学校に通えば、夢が叶うのかといえば、それはまだ分からないけれど、でも何もしないよりは一歩でも近づいていくはずだと思った。


■人生の分岐点となる専門学校へ入学

4月からライター&編集者養成の専門学校へ通い始めた。もちろん学費は全額自分で出した。
高校卒業して進学してきた子たちが多く、その中に27歳の私が混じっていた。でも、大学卒業してから入学してきた人、一度仕事をしてから入学してきた人など、歳の近い人や同い歳の人もいた。

講義を聞いていて、すごく腹立たしい思いをしたことがある。ある新聞社で長年スポーツ記者として働いていた"優秀な記者"だったらしいのだけれど、現役を引退して専門学校の講師をしていた方だった。その講師が、「記者になれるのは優秀な人だ」というようなことを言った。優秀じゃない人は、総務や経理や人事にまわされるのだと。

それを聞いて、本当に憤りを感じた。どんな分野にでも、優秀な人とそうでない人はいる。総務でも経理でも人事でも、その他の部署でも、仕事がよくできる人と、そうでもない人はいる。それが社会というものだと思う。世間をあまり知らない若い人たちに、そんな適当なことを吹き込まないでほしかった。

私が専門学校に通おうと思ったのは、講師たちから仕事の紹介をしてもらえるんじゃないかと期待したからだった。

生徒たちの中には、学校の講師からスポーツ新聞社の仕事などを紹介されて、アルバイトをしながら通っている子も増えてきていた。「私にも紹介してください!」とリクエストしていたのだが、「あなたはもっとちゃんとした仕事じゃないと紹介できない」と言われ続けて、気付けば卒業の日も近づいてきていた。

仕事の紹介もなく、焦ってきた私は求人雑誌で編集プロダクションの求人を見つけた。そこは「実務経験あり」が条件だったけれど、応募だけしてみた。面接に行ってみると、社長と社員ひとりの極小の編プロだった。

事務所を出て、近くの喫茶店に行き面接を受けた。面接は、普通はこちらがいろいろ話を聞かれるはずなのだが、そのときは社長の今までの足跡を2時間聞かされて終わった。とても不思議な面接だった。

そして、ちょうどそのころ、例の講師から「あるテニス雑誌が、テニスができる女性を探している」と紹介してもらった。こちらも面接に行ったら、やはり喫茶店で編集長と会うことになった。編プロの社長と違って、何も話さない人でびっくりした。そして、どちらからも採用の連絡をもらった。

テニス雑誌のほうは、社員ではなく編集部所属のスタッフという位置づけで、でも月給が決まっていた。編プロのほうは、実務経験がないので、採用したいけれど、アルバイトという立場になると言われた。テニス雑誌を選択する以外になかった。

テニス雑誌のほうは、私ともうひとり候補がいたのだけれど、私が特技の欄に「お金を数えること」と書いたのが決め手になったらしい。前の会社で出納係をやっていたから、特技にそう書いたのだけれど。本当に、人生何が役に立つか分からない。

卒業の1カ月前に、テニス雑誌への就職が決まり、卒業も決まっていたのですぐに働き出した。ずっと憧れていた編集の仕事に就くことができた。諦めずにその道を進めば、実現するんだと思った。

先など読めずに会社を辞めて専門学校に通うことにしたけれど、それがこれほど私の人生の分岐点となるとは思いもしなかった。

■入社することはゴールではなく、その後の進路を変える分岐点

就職活動がうまくいかず、就職浪人をする人、自殺してしまう人。いろんな人がいます。
確かに日本は、「新卒」というものにこだわる節があります。
新卒で入社する会社で、人生が決まると思っている学生さんも多いだろうと思います。
確かに、与えられる影響はとても大きいものです。
でも、世間でいわれる「いい会社」が、自分にとっていい会社かどうかは入ってみなければわかりません。
憧れの業種でも、蓋をあければ全然違った、なんていうことはザラにあります。
大切なのは入社をゴールに定めるのではなく、
最終的になりたい自分になるために、現状進める道をどう進んでいくかではないでしょうか。

(ストーリー紹介文=STORYS.JPライター・石井健夫)

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