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【共に育つという教育】親が子どもと一緒に謝ること。"やらせる"のではなく"一緒にやる"ことで生まれる安心感と信頼関係

2016年02月22日 02時17分 JST | 更新 2017年02月18日 19時12分 JST

子どもが悪いことをしてしまった場合、親が謝るのが常識だという人もいれば、子どもに謝らせるのが正しいという人も居ます。どちらが正しいか、どちらが常識的かどうかは人それぞれの見解があると思いますが、今回は「大人が謝ること」が子どもにどんな影響があるのかを、実話のエピソードを交えて考えていきます。

■親が子どもと一緒に謝ることでできる道徳教育

悪いことをしたら謝る。こういった道徳教育は難しいもの。

なぜ謝るのか、そもそも自分のしたことが"悪いこと"だと理解させることができなければ、

その謝罪にはなんの反省も意味もありません。

自分がなぜ謝らなければいけないのかもよく分からないのに、ただ頭ごなしに「謝りなさい」と言われることは、子どもにとってはとても理不尽で悲しいことです。構ってほしくて悪戯をする子だっています。

親も一緒に謝るということは、"悪いことをしたら謝る""悪いことだと理解させる""どうやって謝ればいいのかを教える"、この3つを教えることができる、とてもいい道徳教育だと言われています。

■親が謝る姿を見せることで子どもに伝わる安心感と深まる信頼関係

"親の背を見て子は育つ"ということわざがあるように、子どもは親の姿を見て育ちます。

子どもにとっての親は教科書であり、姿鏡のようなもの。

「悪いことをしたら謝る」と言葉で教えるよりも、実際にやって見せるほうが、子どもの理解は早いのです。

また、親が一緒に謝ることで、子どもは安心感を得ることができます。

親が自分の味方であることを実感することができ、その安心感によって"悪いことをしたら謝る"ということがすんなり身に付きます。「親が謝っているということは、自分のしたことは悪いことなんだ」「悪いことをしたときはこうやって謝るんだ」という理解に繋がり、素直に謝ることができる人に育っていくようです。

子どもに謝らせることも立派な教育ですが、

教育評論家の尾木直樹さんは著書の中で「教育とは"共育"」という言葉をのこしています。

子どもと素直に向き合って一緒に育っていくことが、1番の教育なのかもしれません。

人生のストーリーを投稿するWebサイト『STORYS.JP』に、同級生のお母さんの話が投稿されています。

■「謝る」ことで伝わるメッセージ、そしてその勇気を学んだ出来事

私が小学校2年のとき、学校で机の中に入れていた音楽の教科書が見当たらなくなった。

初めは「家に忘れてきたの?」と思ったが、自宅を探してもない。同級生にも聞いてみたけれど、おぼえがないという答え

ばかり。

担任の先生に申し出て、改めて教科書を購入することになった。しかし、現在のことは分からないが、その当時、教科書は特定の取次店を通してしか買えず、届くのは1か月先になることもザラだった。教科書が届くまでの間、先生の教科書をコピーさせてもらい、ホチキスで束にしたものを使うことになった。

当然ながら私は、「教科書を失くすなんて、どれほどだらしないんだ」と両親や祖父母からは叱られた。

同級生も私に気をつかって「一緒に歩いた道のり、校庭で遊んだ場所を探してみよう」と声を掛けてくれて、放課後に一緒に探してくれることもあった。すると家族からは、「帰りが遅い!」「教科書を失くして迷惑をかけたのに、反省していない」と怒られることになる。

共働きの両親に代わって、面倒を見てくれていたのが母方の祖父母だったので、その世代の人にとって「学校で使うものを、安易に失くす」といういい加減さは、許せなかったのだろう。それに、「いわば【預かって育てている子】だから、きちんと躾けて間違いのない子に育てなければ」という熱意もあったのだろう。

教科書を失くしてからしばらくは、生活態度全般について、厳しく対応されたことをおぼえている。

数週間たち、コピー用紙の束でできた「仮の教科書」にも慣れた頃、何かの授業の最中に同級生のお母さんが訪ねてきた。当然、クラスのみんなが「何事か?」と見つめる。

「家で掃除をしていたら、うちとは全く違う子の名前が書かれた教科書が、本棚の上にありました。どういう経緯でこの本が、そこにあったのか分からないけれど、本当の持ち主は困っていると思い、慌てて持ってきました。本当にごめんなさいね」

と、私の名前が書かれた教科書を差し出してくれた。

そこからは、教室中が大騒ぎとなった。授業がどう終了したのか、教科書を持って帰った同級生はどうなったのか、何も思い出せない。その教科書は、故意に私の持ち物の中から教科書を抜き出されたのか、それとも、帰り支度などで同級生の持ち物に紛れて持ち帰られてしまったのか?

私の頭の中は、怒られ続けた2、3週間ほどのできごとが、頭のなかをぐるぐる回るばかりで、その後、どういう形で問題が収束したのかもおぼえていない。

今、私が大人になって思うことは、「同級生のお母さんが、子供の非をクラス全員の前で認め、謝罪した」という事実は、きっとすばらしい教育となったのではないか、ということだ。

自分の子供をかばうことを第一に考えるのではなく、

「教科書を失くしたと自分を責めなくていいよ」

「教科書が行方不明になったのは、失くした本人だけの責任ではなかったのだから、みんなもう、その子を責めないでね」

というメッセージが、一斉に間違いなく伝わる方法を、このお母さんがあえて選んだことには、すごい勇気が必要だったと思う。

親が謝る姿を見て、教科書を持ち帰った本人が、事の重大さに気づいたかもしれないし、それを見ていた同級生も、真摯に対応する親の姿を見て感じるところがあっただろう。

「親に、こういう謝罪をさせるようなことは、してはいけないな」

「親というのは、子供のために、真剣になってくれるものなのだな」と幼いながらに考えただろうと思う。

私自身、大人になればなるほど、

「非は認めて、謝罪する」ということが、難しく感じられてしまう。謝罪の言葉出る前に、恥の意識や周囲への影響など、余計なものが邪魔をするのだ。

考えてみれば、小学生の子供たちに、真剣に謝罪をしたお母さんは、今の私と同じくらいの年齢だったのかもしれない。そのお母さんにできて、私にできないということは、きっとない。

いつも「謝罪する勇気」を持って、生きていきたいと思う。

■子どもと向き合う、一緒に育つ。その姿勢が1番の教育

子どもは大人を見て育ちます。しかしすべての大人が子どもの見本で居られるほど立派なわけではありません。

また、子どもの自由な発想は、社会の中でいろいろな偏見や常識にとらわれがちな私達大人では考えられないことを教えてくれます。

お互いに向き合うこと、一緒に大きくなろうとすること。

大人のそういった姿勢が、子どもにとっては最も信頼できる姿なのかもしれません。

(文=STORYS.JP編集部・阿部仁美)

■関連リンク

人生のストーリーを投稿するサイト【STORYS.JP】

謝罪する勇気......同級生のお母さんが、クラス全員の前で謝罪した話