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母子家庭、貧困、高卒。工業高校でビリだった僕が、働きながら予備校に通い国立大学に合格した話

2016年04月08日 16時01分 JST | 更新 2017年04月08日 18時12分 JST

人生のターニングポイントとして、受験を挙げる人は多いのではないでしょうか。

目標に向かって一生懸命努力すること、自分との戦い、仲間との支え合い。

人生のストーリーを投稿するサイト「STORYS.JP」には、

社会人になってから進学を決意した人や一風変わった勉強法など、

普通とはちょっと違う受験ストーリーが数多く投稿されています。

母子家庭で育ち、工業高校を卒業し社会人になってから大学受験を志した、

ある男性のストーリーを紹介します。

■会社が終わると、小学生と一緒にbe動詞を勉強した。

僕の家は母子家庭で、兄はニート、僕は反抗期という最悪な状況だった。

けれど、母親は病気になりながら身を粉にして働いて、ご飯代を稼いできてくれた。

どれだけ貧しかったかというと、バイトしなければ生活することが困難なぐらい。

当時の僕は学校が終わったあとに、焼肉屋でバイトをしていたのだ。

遊ぶ金というよりも、明日食う為にだ。

中学を卒業し、地元の工業高校に進学をした。

ずっとバイトしていた記憶しかないが、就職に直結する職能を身につけることができた。

そんなこんなで、地元の零細企業に就職することができたのだった。

就職してからは平凡に業務に従事していた。

しかし、大学に進学した友人の姿や話を聞いて、

僕が大学に進学していたらどんな人生を送っていたのだろう、と思う日が多くなっていた。

そして、色んな経験をさせていただいた後、ひとつの転機が訪れた。

アメリカのIT資格を受け、新人である僕が見事合格したのだった。

合格してからは周囲の評価も変わった。

努力できる奴という評価をもらったときにはとてもうれしかった。

勉強することでこんなに評価されるなら、もっと勉強してみよう。

そう思った僕は、他にもITの資格を受け次々と合格した。

「いまのボクならいけるかもしれない」

そう思い、高校時代の「夢」であった大学進学へ向けて動き始めたのだ。

しかし、それは前途多難であった。

高校は工業科だっため、進学のためのカリキュラムが無かったのだ。

当時の僕は、センター試験って何?という状態。

このときほど、普通の家庭が羨ましいと思ったことは無かった。

なぜなら、普通にしていたら普通の大学に進学できるからだ。

世に出てる受験記は、あまり参考にならなかった。

僕は、もっと前の時点でつまずいていたからだ。

泣き言は言ってられない。目標を決めたのなら、やらなければならない。

その一心で片っ端から受験指導してもらえる学校・塾に連絡をした。

けれど、大手の予備校はボクの受け入れに消極的だった。

基礎学力が無い状態で授業に出ても実にならないというのが理由だ。

「お金さえ払えば学力は身について、良い大学に行ける」

そう思い込んでいた僕は、入校を思い留まるよう説得されたとき、目の前が真っ暗になった。

普通科に行っておけば良かったと後悔した。

普通科であれば、進路相談の実績がある人の話を聞くことができ、

僕の進路に明かりを灯してくれると思ったからだ。

無いものねだりだと悟り、地道に受け入れ先を探した。

そうすると、ひとつの塾が受け入れてくれると返事があった。

藁にもすがる思いで塾まで赴き、塾長に相談をした。

そして、僕の志を応援してくださるとの返事をもらい、受験勉強がスタートした。

入塾に際して英語の試験があった。

得点は最低だった。結果、1から勉強し直しという判断になり、be動詞の勉強から始めることになった。

あの時は恥ずかしかった。

同い年の先生に教えてもらいながら、小学生と一緒に授業を受けていたからだ。

塾に入る前に必ずタイムカードを押すシステムだが、

順番待ちをしていると、小学校の男の子に「おっきいお兄ちゃんがいる!」と言われたあと、

「何の科目のクラスを持つのかな?」という話し声が聞こえたのを今でも憶えている。

その子は、まさか僕が生徒だとは思ってもいなかったのだろう。

翌日から少しでも若く見えるよう、服を着替えて授業を受けるようにした。

授業が始まってからは、焦りと不安の連続だった。

小学生や中学生が勉強している単元よりも遅くスタートしているし、

小学生が正解している問題を間違えると、恥ずかしくて何度も塾を辞めようと思った。

もっと早く勉強すれば良かった。

見た目を変えることができても、中身はすぐに変えることができない。

よく大人たちが口にする言葉だが、当時ほど痛感したことはない。

国立大学合格まで、残り2年。

■18歳夏、大手予備校の夏期講習で衝撃を受ける。

3年社会人として働いた後、大学に進学した話を周囲にすると、必ず聞かれることがある。

「何が君をそうさせたのか?」と。無論「夢」であったからだ。

付け加えると、零細企業勤めを小バカにされることが多かったから、

そういう連中を見返したいという気持ちがあったのは事実である。

さて、僕は塾に通い始めてから猛勉強に猛勉強を重ねた。

風邪を引いても友人に遊びに誘われても断り、毎日机に向かった。

もちろん、机に向かわずに勉強するスマートな方法だっていくらでもある。

しかし、当時の僕が恐れていたことは「慢心」であった。

時間が無いのは百も承知。

効率を求めるのは当然であるが、効率を求めると、余裕が生まれ、余裕が生まれると自分に甘くなってしまうと考えた。

何が何でも合格を勝ち取ってやるという気概があり、そのために毎日死ぬ気で過ごそうと決めていたのである。

勉強はまさしく、自分との戦いだったのだ。

日々の努力もあり順調に成果が出始めた頃、大手予備校の夏期講習に行った。

そこで、衝撃的な内容を目にする。それは現代文・小論文の講義であった。

テーマは「親の所得と子どもの学力は比例する」といった内容であった。

「まさしくボクのことじゃないか」思わずつぶやいた。

所得が低い家庭は、子どもが早くから労働する必要があり、学業に専念できない。

普通に考えればそうだ。そうだけれども、文章で書かれるとまた違った感想を持ってしまう。

やりきれない気持ちだった。

当時の日記にはこう記してある。

"確かに、僕の世帯は年収100万以下の低所得だ。

正直に言えば、高所得な世帯が羨ましい。

しかし、そんなこといっても不毛だ。

この世に生んでくれたお母さんに合格通知と一緒に「ありがとう」を届けよう。

それが僕が生まれた意味だ。"

その日からより一層受験勉強に精を出すことが出来た。

辛いことが続いても、このことを振り返って元気をもらうことができた。

勉強を続けるうちに、色々なことが見えてきた。将来のお金のことだ。

いくら「夢」である大学に進学したとしても、投資分を回収できなければ意味がない。

学費もかかる。前述の通り、学費を出してもらえるような家庭状況ではなかったため、全額自腹である。(ちなみに、高校の学費も自分で支払った。)

つまり、受験だけにお金を全額使ってしまうと、入学後支障がでてしまうのである。

この時点で、私立大学に進学するという選択肢は消えた。

自宅から通えて、学費の安い国立大学に進学する必要があるという判断になった。

考えれば考えるほど、受験に失敗できないという思いが強くなってきていた。

受験もただではない。そして、時間も有限である。

仕事も、いつ忙しくなるかわからない。

ズルズル受験を続けるよりも、一番見込みがある時に、勝負を決めようと決心した。

次の日、僕は自衛隊の一般曹候補生の願書をもらいに、大阪・梅田の自衛隊支部に出向いた。

30分足らずで願書が完成し、提出の手続きまで行ってもらった。僕が志願したのは航空自衛隊だ。

万が一受験に失敗したら自衛隊に行き、母親に全額仕送りする腹決めをした。

そのときから漠然とした不安がなくなり、期待と焦燥感が入り混じった何とも言えない気持ちを抱くようになった。

初夏にはいり、街行く人々は半袖になり、夜空を見上げれば満点の星空であった。

国立大学合格まで、残り1年。

■仕事と勉強の両立の難しさ、訪れた転機

当時の僕の日記を読むと、高校の推薦枠を使って有名私大に進学した人を羨む記述が散見される。

「あの時、ああやっていれば」と。

しかし、こう続く。

「頑張り時に頑張った人が報われて当然なんだ。

僕は今の会社に入って受験を目指すことで気づくことができたんだ。

むしろ、応援してくれる人を見つけることができて幸せだ。」と。

いよいよ大学受験も半年後にせまり、勉強も大詰めに入る。

何度もいうが、ラストチャンスである。泣いても笑っても、コレが最後。

もし落ちたら自衛隊に行く。そう腹決めをして、死に物狂いで頑張った。

しかし、一筋縄ではいかなかった。

当時、会社で人事異動があり、本社勤務からお客様勤務となった。

仕事も覚えることが多くなった。恥ずかしい話、仕事でミスを連発していた。

仕事は「準備が7割」だと思うが、準備をするためには、覚えておかなければいけないことがたくさんある。

異動で新しい仕事を1から覚える余裕はボクにはなかったのである。

会社側からすると迷惑な話である。やる気がないなら辞めろという話になる。

ボクは受験のことを隠していたし、会社側からすると何の配慮もなくて当然だ。

3年目である僕には、仕事と向き合うか、受験と向き合うかの選択が迫られたのである。

僕の答えは明確で、受験と向き合うであった。

合格すれば退職してやる。という意気込みで仕事を続けていたが、そんなに甘いものじゃなかった。

一生懸命頑張っても、仕事が増えればミスも増えた。仕事でミスをすると、もちろん怒られる。

当時はコンプライアンスなどうるさく言われていなかったし、殴られることもあった。

「全ては仕事ができない自分が悪い。」そう思い、堪えながら仕事を続けた。

仕事をやらなければお金を稼ぐことができないからだ。

あまりにも辛い環境が続くので、退職やアルバイトも考えた。

それでも、如何に事情があったとしても、何も解決しないまま受験という言い訳を作って逃げるのはいやだ。

そう考え、辞めることはしなかった。

仕事ができていなかったのは事実だ。

かといって受験は順調なのかといわれれば、自身の思い込みに頼るしかない。

自分の能力を「過信」して、見切り発車してしまうのが怖かったのだ。

まさに絶対絶命であった。

受験で結果を出すための大事な時期に、仕事でも大事な時期が重なったのである。

シンプルに大事な方を選べば良いと思うが、当時の僕には難しい状況であった。

仕事と受験勉強のバランスが崩れた今、どのようにして問題解決をすればいいのか。

必死に考え悩み、相談に乗ってもらっていた。

そんな中、転機が訪れた。社長と話す機会を頂いたのだ。

僕は泣きながら思ってることを言った。

受験のこと、落ちたら自衛隊に行こうと思ってること、夢のこと。

そして、大学に受かったら会社を辞めようと思っていること。

全部正直に話をした。

社長は、全部認めてくれた。僕のことを応援してくれた。

僕は嬉しくて、泣きながら話していたのに、また涙が止まらなかった。

「ありがとうございます。」と言いながら、常駐先の客先で涙をずっと流していた。

翌週から自社勤務に戻ることになった。受験の不安が無くなり、思う存分勉強をした。

同時に、何が何でも合格をもぎ取らなければならないという気持ちでいっぱいになった。

来る日も来る日も勉強し、あらゆる誘いも断り、全神経を受験勉強に集中させた。

■受験に全身全霊の思いの丈をぶつける。

月日が経ち、いよいよ全身全霊で勉強を続けてきた思いの丈をぶつける時がやってきた。

まずセンター試験。結果は好調で、模試よりも少し得点が高かった。

しかし、油断は禁物であると戒め二次試験の日まで勉強を続けた。

二次試験当日。僕は真冬の寒さの中、全神経を集中させるため大学近くのホテルに宿泊し、最後の調整をしていた。

窓を見ると、闇の中からぼんやりと銀世界が広がっていた。

僕が受験を決意した日も寒く雪が降っていたことを思い出た。

そして、ここまで応援をしてくださった恩人にこのようなメールを打った。

"受験をはじめてから今に至るまで、僕は後悔の連続でした。

しかし、会社に入り応援してくれる人と先生に出会うことができました。

そのおかげで今の僕がいると思っております。

今まで後悔してきた思いを取り返すために、

そして、これからは自分で未来を手にするために、

明日の試験で思う存分、思いの丈をぶつけてまいりたいと存じます"

翌日、僕は1人スーツに着替え受験票を手に試験会場へと出発した。

試験会場の大学行きのバスは学生でいっぱいだった。

日本全国でこの1日、この瞬間にかける思いは、誰よりも熱かったと自負できる?