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学生運動最盛期を生きて -「過激派」といわれた新左翼系セクトの友人が、突然アパートに泊まりにきた夜。-

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学生運動、革命、闘争。今では聞き慣れない言葉だが、日本にもかってこのような言葉が日夜世間を騒がせていた時代があった。

何かを変えようと無我夢中で走り続けた者、反対する者、傍観する者、何をどうすればいいのか分からず立ち尽くす者。皆それぞれが、日本の行く末を案じ、懸命に一日一日を考え生きていたのかもしれない。

1960~70年代、学生運動が最も盛んだった頃、大学で新聞部だった筆者が語るあの時代の物語がある。

「過激派」といわれた新左翼系セクトの友人が、突然アパートに泊まりにきた夜。

--以下本文転載--

昼間の熱気がそのまま居座ったような、蒸し暑いある夏の日の深夜。

突然、アパートの通路に面した明り取りの窓が開く音が聞こえた。

「......えっ、誰?」

眠い目をこじ開けると、暗闇のなかに、通路の暗い蛍光灯に逆光で映し出された男の影が見えた。背丈よりも高いところにある窓によじ登り、男はすでに部屋の中に入ろうとしている。

「誰!」

もう一度、今度は少し大きな声で聞いた。

「Mだよ。悪いが今晩泊めてもらえないか......」

Mは僕と同じ大学の、3歳ほど年上の先輩だった。新左翼系セクトに所属しており、活動家としてそれなりに名前を知られていた。決して親しい間柄というわけではない。そのMが突然、それも深夜の1時をまわった時間に訪ねてきたのだ。

「Mさん、こんな時間にどうしたの?」

「いや、ちょっと事情があってな。行くところがないんだよ」

部屋の灯りをつけると、黒縁のメガネをかけ無精髭で覆われた顔がニヤリと笑った。

「話は明日するよ」

よほど疲れていたのだろう。Mはそう言うと、僕が渡したタオルケットにくるまり、床ですぐに寝息を立て始めた。

部屋にはエアコンはおろか、扇風機もない。薄い油膜のような汗で、シャツが身体にはりついている。暑さからくる苛立ちに、Mの闖入が輪をかけた。いったいこの人は何なんだ。

窓の網戸の外には、せめてもの涼感を求めて商店街で買った風鈴が吊るしてあった。夜がふけて少し風が出てきたのか、その風鈴が僕の苛立ちを静めるようにチリンチリンと鳴った。

● ● ●

その頃、僕は大学2年生で、東急大井町線の中延駅近くのアパートに住んでいた。六畳ひと間で、水道とトイレは共有。台所や風呂もなく、週に数回の銭湯通いのついでにコインランドリーで洗濯をするという生活だった。地方出身の大学生としては、当時それが普通の暮らしだったのだと思う。

大学へ入学すると、僕はすぐに新聞部に入部した。高校時代はバスケ部で典型的な体育会系の生活を送っていたのだが、1年間の浪人生活のなかで読書に目覚め、モノを書くということに憧れをもっていた。ただ、何を書きたいのかはぼんやりしていたのだけれど。

僕が入部した新聞部は、学生運動の影響で左派の色合いが濃かった。掲載される記事も、高橋和巳や吉本隆明に関する評論、疎外物象化論などマルクス系の哲学小論が大半を占め、複数の新左翼系セクトが議論を吹っかけによく出入りしていた。毎月1回、ブランケット版8ページの新聞を発行し、広告収入のおかげで資金も潤沢だった新聞部は、政治セクトにとって格好のオルグの対象となっていたわけだ。

大学の校舎の地下にあったその新聞部の部室で、僕はMと出会った。キャンパスの銀杏が見事に黄葉した、大学1年目の秋のことだ。好奇心旺盛な僕を、Mはしつこくオルグした。新聞部の部室で、学食で、喫茶店で、地下鉄のなかで、Mは革命の必然性と自派の正当性を滔々と説いた。それは1年近くも続いた。

ズカズカと土足で人の心に侵入してくるMを、僕は鬱陶しく感じてはいた。しかし、まっすぐに目を見て話すMの純粋さは、僕の警戒心を解いた。そして学内の政治情勢をつかむ上で、Mは格好の情報源でもあった。

そんなMが、夏の深夜に突然訪ねてきたのだ。翌朝、Mは「敵対するセクトから狙われているようなんだ」と、僕に事情を打ち明けた。

● ● ●

Mは、それから一週間ほどアパートに居着いた。何回か、僕らはアパートの近くの食堂で一緒に夕飯を食べた。食堂に向かうとき、Mは決して並んで歩こうとはしなかった。「オレの10メートルくらい後ろを歩いてこいよ」とM。党派間の内ゲバが激しくなっていた頃で、僕が巻き込まれることを心配していたのだと思う。

食堂でビールを飲んだMは、いつにもまして饒舌になった。

「おまえ、成田空港建設のこと、ほんとはどう思ってる?」と、Mが聞く。またいつもの話だ。当時、新左翼系セクトの政治闘争は、三里塚の成田空港建設反対運動に焦点が絞られていた。

「どうっていわれても......。政府のやり方が強引すぎるのはわかります。でも日本はこれから国際化するわけで、どこかに作る必要はあるんじゃないですか」と、僕は小さな声で答えた。

「おまえ、ほんとにブル新(ブルジョア新聞=普通の全国紙を彼らはこう呼んでいた)に毒されてるな。あれはな、米帝(米国帝国主義)と日帝が結託して、農民から土地を強権的に奪って軍事基地を作るあくどい計画なんだ。しかも空港が出来てしまえば、日本の財閥は東南アジアへどんどん進出して、経済支援を隠れ蓑にアジアの民衆から搾取をするに決まっている」と、Mは声を荒げる。

「三里塚闘争は、農民による革命運動の焦眉の的だ。ここで国家権力に屈するわけにはいかんのだ。この闘争に勝利すれば、全国の農民や労働者や学生が必ず立ち上がって、革命が現実味を帯びる。だから我々は手段を選ばない。武力闘争がどうしても必要なんだ。革命は、すぐそこまで近づいているんだよ!」

武力闘争、革命......、それらの言葉は僕の耳をすり抜けていく。あまりに現実感のない言葉だった。空港建設に反対している人々の言い分もわかる。でもそれは、政府のずさんな進め方の問題であり、革命へ続くというストーリーは僕の想像力の域を超えていた。

「革命は歴史の必然だ。解るだろう。おまえも一緒にやらないか」とMは言った。真剣な目だった。僕は言葉に詰まった。

目の前には、僕には見えない光景を見ているMがいる。迷いなく自ら革命家として生きることを決めたMがいる。これも一方の現実だ。しかし僕には、そこへ踏み出すための決定的な何かが欠けている。

「じゃ、こうしよう。この秋に三里塚闘争のメルクマールになる集会とデモがある。見物でもいいから、それに来てみなよ」

半分はMへの譲歩、半分は好奇心で、僕は承諾した。

● ● ●

それは秋というには寒すぎる日だった。10月の空はどんより曇り、雨が落ちてきそうな気配すらあった。

新宿からセクトが用意したバスに乗り込み、三里塚へ向かう。その日は「空港粉砕全国総決起集会」と銘打たれ、7千人が結集する予定と聞いていた。バスのなかでは誰も声を出さず、緊張感がいやがおうにも高まっていた。

三里塚の公園で集会が開かれた。セクトの幹部が、マイクのボリュームをいっぱいに上げて演説した。「我々はぁ~、国家権力によるぅ~、強権的なぁ~」という、あの語尾を延ばす独特のアジテーションだ。

デモが始まった。僕は両端から腕をとられて、デモの隊列に組み込まれた。与えられた白いヘルメットをかぶり、タオルで顔を隠し、押しくら饅頭のようなデモに身をまかせた。

両側には、機動隊のジュラルミンの盾が並んでいた。「過激派」といわれた新左翼系セクトのデモ隊の動きを制圧するように、無機質な壁となって立ちはだかっていた。

突然、空から夕立のような放水を浴びた。寒かった。それ以上に怖かった。前の方で、デモ隊と機動隊が小競り合う怒号が聞こえた。緊迫感がピークに達しつつあった。

事態がさらに悪化しそうな気配を感じて、僕はデモの隊列から逃げるように離れた。機動隊の列の切れ目をすり抜け、民家の裏に身を潜めて、ポケットに忍ばせていた新聞部の「報道」の腕章をつけた。怖さと恥ずかしさがないまぜになった気持ちが、喉を突き上げた。

デモ隊の様子を見ようと道路に近づいた時、機動隊のジュラルミンの盾の裏側が見えた。ペンキで「毘」という文字が書かれた盾。きっと上杉謙信が好きなんだろう。子どもの写真が貼られた盾。女性の名前が書かれた盾......。そこには機動隊の人たちの別の姿があった。

夜、デモ隊が用意したバスで東京への帰途についた。Mがその日のデモの総括演説を始めていた。デモ隊から数名の逮捕者が出たらしい。負傷者も多かったという。「しかし、我々は次の闘いに向けた大きな橋頭堡を築いた!」というMの声は、僕の耳にはしっくりと入ってこなかった。

高速道路を走るバスの窓からは、点々とともる民家の灯りが見えた。あそこで食卓を囲む人々は、成田空港建設のことをどう考えているのか。オレは何をやっているのか。正しいことって、いったい何なのか......。

アパートのそばの食堂に入り、遅い夕飯を食べた。ビールが浸みるほどうまかった。アパートに帰り、ベッドに身体を横たえると、一日緊張した疲れからか、眠気が襲ってきた。

窓の外に吊るされた季節はずれの風鈴が、その時チリンチリンと鳴った。ふと「矛盾を生きる」という言葉が僕の頭をよぎった。

風鈴は、どの方向から風が吹いても、自分の音を鳴らす。北風でも南風でも、チリンチリンという音に変わりはない。じゃあ、オレが鳴らす音とは何なのか。風向きが定まらない矛盾を生きていくなかで、自分の音を探さないといけないのではないか......。

思考は堂々巡りをし、いつの間にか眠りに落ちていった。

● ● ●

三里塚のデモから一週間ほどたった日、Mから連絡があった。

「最後にもう一回、飯でも食おうと思ってさ」

最後に、という言葉がひっかかったが、指定された武蔵小杉駅の喫茶店に向かった。Mは先に来ていた。以前より、また少しやつれたように見えた。

「オレな、地下にもぐることにしたよ」

それが、公安当局の目を逃れて、非合法な政治活動や社会運動をすることだという意味は知ってはいたが、具体的に何をするのかまでは解らなかった。でもMは決めたのだ。最後まで革命家として生きていくことを。

「最後だから、もう1回だけ聞くけど......」
Mはまっすぐに僕を見た。

「オレと一緒にやらないか」
僕は、無言で首を横にふった。

「そうか、わかった」
そう言ってMは、自分のコーヒー代をテーブルに置いて立ち上がった。

「店を出るのは、10分後にしたほうがいい」

店を出て行くMの背中を見ながら、僕は思った。矛盾だらけの道でも、自分はそこを歩いていこう。そして、いつかは自分の音を鳴らしてみせよう。

それが最後だった。以来、Mとは会っていない。どこかでしぶとく生きていることを、ただひたすら祈るだけだ。

--本文転載〆--

時代によって戦い方も変わる。今も形を変えて戦いは続いているのかもしれない。
いつの時代も、私たちは自分自身で、何のためにどう戦うかを選び問い続ける必要がある。

「過激派」といわれた新左翼系セクトの友人が、突然アパートに泊まりにきた夜。

(文=STORYS.JP編集部・川延幸紀)