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末期がんの父に、花嫁姿を見せたい・・・病院での婚約式を通して父から貰った3つの贈りもの

2016年04月04日 17時20分 JST | 更新 2017年04月04日 18時12分 JST

人生のストーリーを投稿するサイト『STORYS.JP』に、

末期がんの父に花嫁姿をプレゼントした、ある女性の物語が投稿されました。

お父さんっ子だった幼少期、いつか家族の役に立つかもしれないと志した看護師という夢。

初めて知った、父の願い。それを叶えるために奔走し、そして父からもらった贈り物。

家族の、父親という存在の大きさを改めて思い知るストーリーです。

■たったひとつの道を見つけなさいと教えてくれた父

私の父は自動車整備士。この道一筋だ。

大手のディーラーを経て、40代で独立し、町の小さな車屋さんをしていた。

短気で後輩に工具を投げつけたこともあったそう。

ちょっぴりおちゃらけていて、家では少しわがままで、でも引っ張っていく力があるから皆がついていく。

人情深いが、ひねくれ者で素直に褒めることはない。母の作った料理に対しても最高においしい時の褒め言葉は「まずまずだな」という始末だ。

そんな父の娘である私は、顔も性格も似ている。お互い頑固でひねくれているから、素直に言葉を交わすことはない。

小さい頃は自他ともに認めるお父さんっ子だった。

父が家に帰れば「おかえりー!」 と、玄関まで一目散に迎えに行った。父も私のことをとても可愛がってくれた。

小さい頃から、父は「ひとみ」という名前の私を「ひっと」とあだ名で呼んでいた。

年頃になってもずっと「ひっと」と呼んでいること、それはひねくれながらも私のことを可愛がってくれる証のようだった。

そんな父が、小学生になったばかりの私に言った。

「国語も算数も全部できなくていい。ただ、これだけは誰にも負けないというたったひとつの道を見つけなさい。」と。

普段真面目なことを言わない父だからこそ、この言葉は今でも私の中で響いている。

30歳になった私は、ようやくそのたった一つの道を見つけた。

父の死と引き換えに。

■本当に自分のやりたいことってなんだろう

一年の半分近くは雪に囲まれる生活。そんな雪深い街に私は生まれ育った。

山形で生まれ、山形の高校を出て、山形の看護学校へ進学して、山形の病院へ看護師として就職し7年が経った。

山形を出る必要性を感じていなかったので、何となくずっと山形で暮らしていた。

口だけは大きいことを言うこともあったが、本当は、臆病者で新しい環境が大の苦手だった。

だから「変化が怖い」というのが山形を出なかった本当の理由かもしれない。

そんな私が看護師になったきっかけは、高校二年生、進路に迷っていた時の母との会話だ。

「お母さん、進路どうしよう。もうすぐ決めなきゃいけないんだけど何になりたいかなんてわからないよ。」

「看護師なんてどう?一生ものの資格だからね。あなた優しいほうだし、向いてると思うよ。」

「看護師かあ。。。」

それから看護師になることを意識した私だが、決め手はこれだった。

「家族が病気をしたときに私に知識が役立ったらいいな。お父さん高血圧だし、看護師のいうことなら素直に聞いて塩分控えめな食事をしてくれるかも。」

50代になり、禁煙をしてから徐々に太り始めた父は高血圧だった。

しかし、素直ではない父はなかなか母や私の言うことを聞かず、減塩食に文句を言う毎日だったのだ。

そんな家族の健康を背負い、私は看護師になった。

忙しい毎日に追われ、気が付いたら私は看護師8年目。もうベテランとよばれるほどになっていた。

仕事はたぶん、まあまあできる方。役割も少しずつ増え、やりがいも増していた。

だけど、29歳独身、彼氏なし。そろそろキャリアアップも迫られる時期だった。

周りがどんどん結婚し出産をしていくのを横目で見てキャリアだけじゃなく、女性としての幸せも手に入れたいと思っていた。

仕事も家庭も、一人の女性として輝くことも全部譲れない。

そんなとき、ふと小学生の頃言われた父の言葉を思い出したのだ。

「国語も算数も全部できなくていい。ただ、これだけは誰にも負けないというたった一つの道を見つけなさい。」

私は看護師になった。どこにでも居るありふれた看護師だ。

誰にも負けないたった一つの道はまだ見つけていない。

「私の『誰にも負けない何か』って何だろう。」看護師8年目となった私は、毎日自分に問いかけていた。

■東京へ

冬には世界をすべて白色のベールで包んでいた雪が、春の訪れとともに道路の片隅に追われ薄汚れた姿をしていた。

その頃、私はある道に行くことを思いついた。それは、美容皮膚科クリニックに転職すること。

突拍子もない思いつきと思われそうだが、ここに辿り着くまで私の頭の中はずいぶん長いことぐるぐる渦巻いていた。

そして、この道を思いついたときには「山形を出るのが怖い」と言っている自分はいなくなっていた。

それよりも「誰にも負けないたった一つの道」も「結婚」も手に入れないまま30歳になることの方がよっぽど恐ろしいと感じていたからだ。

私は、美容皮膚科の本や、接客・集客などのビジネス本を読み漁り転職サイトに申し込んだり、

転職マニュアルを読んだりと猛スピードで準備を進めた。

早い段階から職場へ退職の意思を伝え、友達にも宣言した。でも、両親に話すのだけは少し時間がかかった。

覚悟を決め、両親に向けてのプレゼンのために戦略を立てることにした。

「いきなり『いつかは起業したい』なんて話したら、両親がひっくり返ってしまうから、この件は伏せておこう。」

「両親のわかりやすい言葉でシンプルに自分の意思を伝えよう。」

「看護師は続けるわけだし、食いっぱぐれることはない。そこを強調しよう!」

「とにかく情熱!これで押し通すぞ!よしっっっ!!!!」

十分に戦略を立て、リハーサルも何度も行った。

日中の日差しが暑くなり、日焼け対策が必須になった5月、決戦の日はやってきた。

自分の言いたいことはすべて伝えた。でも、両親は納得しなかった。

そして「あなたが出て行ったら寂しい」という両親の気持ちもしっかりと受け取った。

しかし一度決めたら簡単に引き下がる私ではない。

父にそっくりな私は、周りをびっくりさせる突拍子のなさと、行動力を持っている。

父が独立を決めたときだって突拍子もなかったはずだ。

小学生の私に「営業職は嫌いだ。俺は整備が好きなんだ。だから自分で立ち上げることにした。」と説明していた。

そんな父のプレゼンよりは、いくらか私の方がましなはずだった。

なのに、猛反対。両親が納得しないまま、私だけは強引に突き進んだ。

そしてこの決戦の日から両親との気まずい同居生活が始まったのだ。

「おはよう」と「おやすみ」くらいは言ったけれど、極端に親子の会話は減った。

元々私は家族と話すことが大好きで、特に母とはよく取り留めもない話をしていた。

父ともテレビを見ながらくだらない話をするのが好きだった。

休みの日にはよく家族でドライブに出かけていた。それもなくなった。

それでも私は東京に行く決意は揺るがなかった。

季節は流れ、山形の長い長い冬が訪れた。毎日雪が降り続け、出勤前の雪かきが日課になっていた。

そんな中、第一志望の美容皮膚科クリニックの二次面接が決まった。

面接の前日、もちろん山形は雪。東京用のパンプスでは雪道は歩けない。

あの決戦の日から、なるべく両親には話しかけないように暮らしていた私だったが、その日は、父に駅まで車で送ってもらう他なかった。

父と娘を乗せた車中では地元のラジオとワイパーの音だけが響いていた。

会話は途切れたまま、駅に到着した。

父は、助手席にいる私の方ではなくワイパーを見つめたまま「落ちるように祈っている」と言った。

でもそれは、父の寂しさからくる愛情だとすぐに気付いた。

私は風変わりな愛の言葉を受け取り、苦笑いをしながら助手席のドアを閉めた。

そして振り返りもせずに改札を通り、東京行きの新幹線に乗り込んだ。

■母からの突然の電話

新しい年度になり表参道で働き始めた私は、東京ライフを大いに楽しんでいた。

はじめは反対していた両親だったが、就職先が決まると諦めた様子で前向きに応援してくれたのだ。

新しい生活は、何もかもが新鮮で刺激的で毎日が楽しかった。

足が痛くてもヒールを履いて満員電車で通勤したり、お気に入りのカフェを見つけたり、

結婚の夢もつかむため、街コンに参加したりもしてみた。

時間はあっという間に流れ、私は今まで着たことのない少々派手目な花柄の夏服を着ていた。

その日も、コンクリートにこもった熱のせいか夜までむっとした暑さがあった。

仕事が終わった夜の8時頃、母から着信があったことに気付く。

そしてメールも入っていた。「仕事が終わったら電話をください。」

心臓が急に早く動き出したのを感じた。

震える手で帰り支度をすると、何事もなかったように同僚に「お疲れ様」と言った。

職場から出てすぐの暗い路地裏に行き、居酒屋の前にあるゴミ箱と向かい合うような形で

おそるおそる母に電話をかけた。 メールを読んだ後から嫌な予感はしていた。

でもまさか父が胃がんになるなんてことは予想もしていなかった。

ぼうっとなりそうな娘としての自分に看護師としての私が背筋を伸ばさせてくれた。

看護師9年目になった私は、病院である程度たくさんの経験をしていた。

もちろん亡くなる方もたくさんみてきた。私は「死」に対する抗体ができていたはずだった。

年数を重ねるにつれ、患者様が亡くなっても悲しむ時間は徐々に短くなっていったし、

「ここで悲しんでる場合じゃない。私には看なくてはいけない患者様が他にも大勢いるんだ」と、変に歪んだプライドができていていちいち落ち込まなくなっていた。それどころか、自分の勤務中に「急変」や「エンゼルケア」が起こると、損したような気持ちにさえなっていた。

「要領良く」とか「効率良く」とか「安全第一」とかばかり習得し、仕事は早くこなせていたけれど、心はどこかに置き忘れていたのかもしれない。

そんな私も、『家族専属看護師』としての活動は続けていた。その効果かどうかは分からないが、父はまあまあ健康的な生活をしていたのだ。

元々仕事も力仕事だったし、ゴルフや朝のウォーキングなど、運動の日課もあった。

数年前から禁煙もしていたし、もともとお酒はほとんど飲まない。

問題は、軽度の肥満と高血圧だが、毎日血圧も計ってノートに書くほどの優秀な'患者様'だった。

完治するための理由をいくつも並べて、私は父がこの手術で胃がんが治ると信じ込んだ。

そう考えている私は、看護師ではなく、一患者の家族に成り下がっていた。

あっさりと胃がんの手術は終わった。62歳の父は、まだまだ体力があった。

手術後1日目には病棟をスタスタと歩き、それでも物足りずスクワットなどしていた。

「回復が早いですね」と驚く看護師さんに得意げに笑って見せていた。

退院後も、すぐに仕事に復帰、大好きなゴルフも楽しんでいた。

以前のように食べ過ぎてしまうことだけが心配事だったくらいだ。

目で見えるがんの部分は手術で全て摘出された。

目に見えないがん細胞が悪さをするのを防ぐため、これから経口で抗がん剤の投与もする。

この事例はこれで終わりになるだろう。そう、思っていた。

新年を迎え、20代が終わろうとしていた頃、私には恋人ができていた。

それも、「結婚を前提につきあってください」と言ってくれた恋人だ♡

そんな幸せ絶頂の最中、母から連絡が来た。

どうやら父の食欲は落ち、吐き気が続いているようだ。

毎月の検診では、がんの再発はないと言われている。

だから多少具合が悪くても、私は安心していた。

母には高カロリーで口当たりの良いもので少しずつ栄養を摂るように、と看護師らしく指導した。

しかし、父は日に日に食欲が落ち、どんどん痩せていった。

山形の3月はまだまだ雪が残っている。

卒業式に桜など咲かない。むしろ、吹雪をお見舞いされるほど山形の冬は長い。

そんな頃、父は再入院した。肥満を気にしていた父の腹はえぐれるほどへこんでいた。

胃がんの再発だ。

再度手術を試みたけれど、治療のできる状態ではないほど、がんは広がっていた。

信じられなった。毎月の検診では異常がなかった。

しかも私の父親だ!誰よりも生命力があって、頑固で短気で、病気には縁遠い人だ。

ちょっぴり肥満と高血圧はあったけれど、大きな病気なんて一度もしたことがない。

毎年人間ドックだって受けていた。運動の日課もあったし誰よりも健康そうだった。

そんな父が末期がんでいいはずがない。何かの間違いだ。

看護師としての知識など吹っ飛び、私はこの事実を受け止められなかった。

知り合いの医師や看護師に相談しまくった。

がん治療では日本でトップと言われている病院2つにセカンドオピニオンに行った。

休みのたびに山形に帰り、父に会いに行った。でも、末期がんは治らないのだ。悔しくてたまらなかった。

■闘病中の父のノート

「花見のころには退院できるかな」と言っていた父だったが、その願いは叶わず、桜がすっかり散った5月になっても入院生活は続いた。

今まで白髪染めをしていたから気付かなかったが、父の頭は真っ白だった。

白髪の頭、あばら骨の浮き出た薄い胸板。より一層猫背になった背中、シワだらけの皮膚。

62歳の父は、90代の老人のような見た目になっていた。

私のよく知っている父の腕はいつも日に焼けていて、車のオイルで汚れていて、そしてたくましかった。

腕相撲も兄に負けたことがなかった。そんな父の腕時計は、

穴2つ分きつくしてもゆとりがあるほどになっていた。

父は体が弱っても、ほとんど弱音を吐かなかった。

しかし、がんは父を日に日に弱らせていった。

胸には点滴が入り、鼻には胃の中の物を外に出すためのチューブがあった。

お腹にもこぶのようなものができ、膿を出すためのチューブも留置された。

黄疸もでてきて、肌や目の色が黄色く染まっていった。

そして毎日吐き気や痛みと戦っていた。

徐々に体力が落ち、声もかすれて小さな声でしか話せなくなっていった。

目の前にいる、ひどくやつれた患者が自分の父親と認めたくないときもあったくらいだ。

父は「病気が治ったら」という話と「俺が死んだら」という話を交互にしていた。

そこには、希望は捨てられないけれど

死ぬ準備もしておかなければ、という意思があった。

常に仕事のことと、家族のことを心配していた。

自分が死ぬのが怖いとか、そういう話は一切しなかった。

末期がんを宣告された患者様は、毎日こんなことを考えながら過ごしていたのか、と看護師9年目になった私は初めて気が付いた。

そんな患者様の背景や想いを心から理解しようとしたことは、今まであっただろうか。きっと、なかったんだろうな。

9年目で世間的にはベテランの仲間入りでも、私は薄っぺらいままのキャリアを積んでいたのだ。

自営業の父は、引き継ぎのために様々なことをノートに綴っていた。

私が面会に行ったとき、「このノートは大事なことが書いてあるから覚えておいて」とかすれた声で言った。

そして、そのノートのある1ページを見せてくれたのだ。

「我が人生 咲くも散るにも道は迷わじ」

「我 死すと 妻と子供のことが気がかりなり」

家族を想った詩のような言葉が並んでいた。

活字の本はほとんど読まない人だし、教養のある方ではなかった。

そんな父が詩のようなものを書いていたなんて、意外だった。

今まで、素直に「家族が気がかり」なんて言ったことがなかったのに。

その詩の下には、家族一人ひとりにメッセージが書かれてあった。

「ひとみよ。お前の花嫁姿...。」

私に宛てた言葉はこの一文。父は、私の花嫁姿を見るのが夢だったのだ。

その夢が叶うまでは死んでたまるものか!という強い意志と、その夢が叶わないかもしれない、という悔しさと、両方を感じた。

ベッドに横たわったまま、視線だけ私に向けて父は言った。「点滴ひっぱったままでも結婚式に出られるかな?」

その声は、小さくかすれていて弱々しかった。

でも顔は、ニヤリといたずらそうな少年のような笑顔だった。

「もちろんだよ!私の友達はお医者さんや看護師さんがたくさんいるんだよ!だからお父さんがどんな状態でも絶対に結婚式に出てもらうから!」

不思議と、父と娘は素直に自分の言葉を話せるようになっていた。

でも、私があのタイミングで東京に出て行ってしまったことを謝ることはできなかった。

私なりに覚悟して決めたことだったから。

それでも、そのせいで父ががんになってしまったのではないかと自分を責めていた。

その責任を埋めるためではないけれど、何が何でも父の夢を叶えてあげたいと思った。

その日の夜、私は泣きじゃくりながら「父に最高の親孝行をしたい!」と恋人に電話をした。

「お父さん、私の花嫁姿を見たいんだって。何とかしたい。でもどうしたらいいか分からないよ。」

「何としてでもお父さんの夢をかなえてやりたいな。できることを考えよう。」

「ありがとう、本当にありがとう。」

付き合い始めて4か月目のことだった。

■父の夢を叶えたい

何とかして父に花嫁姿を見せたい。しかし、偽物の花嫁姿では意味がない。様々な課題があった。

まず初めに、お互いの両親にはまだ顔を合わせていなかったため挨拶に行かなくてはならなかった。

私は関東に暮らし、私の実家は東北。そして彼の実家と住まいは関西。

父の寿命は恐らくあと1~2か月という時期だった。

意識がはっきりしている時期はもっと短いだろうと主治医に言われていた。

その短い期間に、関西と東北を行き来し、お互いの両親に恋人を紹介し合った。

しかし1~2か月の間に急いで結婚式をするという案は通らなかった。

焦りから意見がぶつかり合い、ケンカにもなった。

それでも一つの目標に向かって協力することを覚えた。

そして「結婚式」は今後の父の希望にとっておきながら、「花嫁姿を見る」という夢を叶えるための方法を、ようやく見つけた。

父のいる山形でブライダルフォトを撮る。そしてその撮影スタジオに来てもらい、「結婚の許しをください」と父に誓うというものだ。

地元の同級生が、ブライダルフォトの企画をしているという情報を聞き、すぐに依頼した。

どんな流れで誓いの言葉を言おうか、体力が落ちた父をフォトスタジオに連れてくるが

あまり長時間だと疲れてしまうため、どのタイミングで連れてくるといいか、

疲れた時には横になって休む場所はあるのか、など娘と看護師の視点で作戦を詰めていった。

離れ離れに暮らす私と恋人と両親。限られた時間を調節し、このミッションに挑んだ。

前日に彼が関西から私の住む関東まで来てくれ、当日そこから山形へ一緒に行く計画を立てた。

そして、梅雨が本格的になった6月。私たちのミッションが決行されることとなった。

■トラブルが私を試す

6:12東京駅発 新庄行の山形新幹線に乗り込んだ。

日頃の仕事と看病の疲れもあり、私は新幹線に乗り込むとすぐに眠り込んだ。

新幹線は北上し、栃木を抜け、福島県に入った。

そのころ突然アナウンスが流れた。正確に言うと、流れていたらしい。

熟睡していた私は、隣に座っていた恋人に起こされ衝撃の言葉を聞かされたのだ。

「この新幹線、山形には行かへんって。

行き先を仙台に変える言うてた。今朝起きた地震の影響やって。」

寝ぼけていた私は理解不能だった。

もう一度恋人に説明してもらいようやく事を理解した私は、慌てて病院に付き添っている母とフォトスタジオに連絡を入れた。

そこで私はさらに驚くべき事実を聞かされる。

母からは、父が今朝から40℃近い熱を出して外出許可がおりないとの知らせ。

フォトスタジオからは、写真家さんが夕方から出張が入っており、大幅に時間が遅れる場合は撮影できないかもしれない、との知らせ。

母は、写真だけ撮って後からお父さんに見せたらいいんじゃないの、と言った。

フォトスタジオ側も、到着時間が見込めない以上何とも言えないと戸惑っていた。

ミッションが「失敗」の方向に動き始めた。

「なんでこんなトラブル続きなの。お父さんには時間がない。私たちも休みを合わせて今日ようやくスケジュールを組んだのに。

もうだめだ、できないよ。」

山形の新庄駅にいるはずだった私たちは、宮城県の仙台駅に強制的に降ろされていた。

私の故郷ではない街のホームで、私は泣き崩れた。

全員が「失敗」を予感し、弱気になっていたとき恋人が口を開いた。

「ひとみはどうしたいん?お父さんに何が何でも花嫁姿を見せて結婚を誓いたいっていう覚悟はあるん?」

「・・・ある。」

「ほな、今日しかないで。お父さんの状況を考えると、もうこの先チャンスがあるかどうか分からへんで。」

このとき、私の心のベクトルが「成功」に向けて切り替わった。

「・・・絶対に今日決行する。何としてでもやる。お父さんの夢を叶えられないなんて絶対に嫌だ!」

「ほな、その意思をフォトスタジオとお母さんに伝えやなあかんやん。」

「・・・はい。」

涙はいつの間にか止まっており、急変時に冷静沈着に対応する看護師としての私がいた。

手早く、合理的に、やるべきことのリストアップと連絡を行った。

それは、心臓が止まった患者様を助けるために医療スタッフが1分1秒を無駄にせず、対応する動きに似ていた。

そういった合理的な対応は、9年間の看護師生活で十分に培ってきた。私は、この現場のチームリーダーだ。

何が何でも父の夢を叶えるという目標に向かって前進するのみ。

「トラブルが私たちを試している。そんなのに絶対負けない!この目標は絶対に達成する!」

リーダーの熱意が伝わったのか、気が利くチームメンバーたちは、すぐに対応をしてくれていた。

母とフォトスタジオさんが同時に病院側に事情を話してくれていたのだ。

「今日しかないんです!どうかお願いします!」

そこで父と対面させてくれるとのことだ。病院のご厚意で、病室を一部屋空けてくれることになったのだ。 そして、奇跡が起きた。

すぐに病室を一部屋空けるなんてことは至難の業だ。私も病院で看護師をしていたからよく分かる。

日々の忙しい業務の中で突然このようなお願いをされ、よっぽど、大変な思いをして部屋を空けてくれたに違いない。

ミッションに問題のない程度の遅れで目的地に着いた。

私たちも、運よく迂回ルートが見つかり周りの皆の全力の協力を感じ、天も味方についてくれたようだった。

トラブルを乗り越え、私たちはようやくスタートラインに立った。

■偶然生まれた病院内での婚約式

いかにも「病院」というものがすべて片づけられていてベッドや点滴スタンドなど、私たちのために片づけてくれた病室は明るい綺麗な部屋になっていた。

まさにブライダルに相応しいその部屋で、新郎新婦はこっそりと着替え、スタンバイをした。

「はい、どうぞ。」

合図とともに、母に押されながら車いすで父が現れた。

カーテンが開けられ、花嫁が父親の前に姿を現した。対面をするとすぐに父と娘は泣き崩れた。

父は、時計がやけに大きく見えるその細い腕で、涙をぬぐった。

素直に私を褒めない父が「綺麗だ」と言ってくれたのだ。

聞こえるか聞こえないかの小さな声で父は独り言のように呟いた。

泣き止まない父と娘に、母親が声をかけた。

そう言っている母も泣いていたけれど、私は素直に母の言うことを聞いて泣き止むことにした。

そして、少しかしこまったように恋人たちに両親が向かい合い、婚約式は執り行われた。

恋人が父に婚約の誓いを伝えた。私も、父に似たこの人と一緒になりたいと伝えた。

そして父が、ゆっくりと小さな声で話し始めた。

「夫婦は助け合っていく必要がある。腹が立つこともあるけれど、お互いに許すことが大事なんだ。

篤人くんも自営業だけど、自営業は大変だ。上手くいかないときだってでてくる。そんなときは、ひとみ、お前がしっかり支えなさい。

"ひとみ"という名前は、私がつけた。一点の曇りもない澄んだひとみという意味をこめて。娘が生まれたら絶対に"ひとみ"とつけようと決めていた。

ひとみは気が強いところもあるけど、私に似て"最初からダメだ"と決めつけないで挑戦するところがある。」

大人になってからも仲良く過ごした家族との時間。幼い頃の私と父。

看護師になってからの苦悩とやりがい。

素直になれないけど、愛情たっぷりな父と娘。

恋人とケンカをしながらこの婚約式を計画したこと。

父の言葉を聞きながら、色んなことを思った。

父は他にもたくさんの言葉をくれたけれど、途中、涙と病でかすれた声で聞き取れないところもあった。

それでも父は最後まで堂々と語った。

いつもは私のことを「ひっと」と呼ぶ父が、「ひとみ」と呼んでいた。

父は、かしこまった場面でしか私のことを「ひとみ」と呼ばない。

「ひとみ」と呼ぶ父は、まるで結婚式でスピーチをする父親のようだった。

病院のスタッフも私たちと同じように喜び、感動してくれたことが嬉しかった。

私も、看護師としての仕事中にこのような式があったら一緒に感動して泣いていただろうな、と思った。

涙をぬぐっていたり、最高の笑顔の医師や看護師を見ていたら、さらに涙がこみ上げてきた。

かしこまった「婚約式」のあと、私は恋人と、車いすの父と目線を合わせるようにして話した。

「いい人と出会えて良かったな。この人と出逢えたんだから"ひっと"は東京さ出していがった。」

ずっとずっと、私が気にしていたことを父が救ってくれた。

私が東京に行ったから父が病気になったわけではない。

そして、あのとき勇気を出して東京に行っていなかったら、恋人とは出会えていなかった。

そう思えるようになったのは、この言葉のおかげだ。

そして父は、恋人と握手をして「娘を頼んだよ。信じているからな。」と言った。

「信じている」という言葉は「頑張って」とか「応援している」とか

そんな言葉よりも重みがあり、そして何よりも励みになる言葉だ。

「信じている」と言った父の目は、会場にいる誰よりも生命力に溢れていて力強かった。

やせ細った父の腕が、以前のようなたくましい太い腕に見えた。

■父がくれた3つのギフト

婚約式の約1か月後、父は他界した。

それからしばらくして、私は本当の花嫁となった。

病院内での婚約式の日、

父は「生きていてよかった...こんな良い体験ができるなんて...」と言った。私はこの言葉を忘れない。

そして父は旅立つ前、私に3つのギフトを残してくれた。

1つ目は、覚悟を決めたら夢は叶うこと。

「婚約式」という目標を達成できたことは、大きな自信となった。

大きな夢を見れば見るほど、逆風は吹き荒れる。

トラブルが続いたり、誰かに批判されたりする。

それでも、本気で叶えるんだ!と突き進むと、不思議と運が味方になり、周りも協力してくれる。

この経験が、大きな自信と強さをくれた。

2つ目は、自分も周りも大切に思える自分になること。

父は最期まで家族や職場の人のことを思っていた。

そんな父のように、常に人を思いやる心を持っていたい。

そして私はあの日以来、周りへの思いやりだけでなく、自分自身のことも大切にしたいと思うようになった。

私が生まれる前から「ひとみ」と名前をつけると決めていたくらい、

父は私のことを大事に思ってくれていたことを知ったからだ。

私は父にとってかけがえのない宝物。

だから、私は自分自身も大事にしようと思う。それが、父に対する最高の親孝行だ。

そして最後に3つ目。

「生きていてよかった」と思うほどの感動を与えること。

父の「生きていてよかった」という言葉を聞き、看護師としての私の道が開けた。

死を目前にして絶望している患者様に「生きていてよかった」と思ってもらいたい。

今までの私のように薄っぺらなキャリアで患者様に接するのではなく、心から患者様に寄り添い、

「この人が生きていてよかった」と思うことは何かと考え、そしてその感動を提供したい。

この婚約式のような感動の体験を多くの人に味わってもらいたい。

「病気になったからこそ感動的な体験ができた」と思えるほど、前向きに最期まで希望を持ってほしい。

私は、看護師としての枠を超えて多くの方に感動を提供し続けると決めた。

父がくれた3つの贈り物のおかげで、長年探していた「誰にも負けないたった一つの道」が見つかった。

それは、自分自身がどんな人間であるかを発見し、自分らしく生きていくことだ。

私が私らしく生きることは、世界中の誰にも負けない。

自分も他人も思いやる私が、看護師の枠を超えてたくさんの人に感動を贈り続ける。

この夢を叶える力が私にはある!!これからは自信を持って「誰にも負けないたったひとつの道」を歩んでいく。

「お父さん、誰にも負けないたった一つの道、見つけたよ。だから、ちゃんと見ていてよ。絶対だよ。お父さん、ありがとね。大好きだよ。」

私は、ずいぶん素直な娘になった。お父さんは、今の私の姿を見て何て言うかな?

きっと「まずまずだな!」という最高の褒め言葉をくれるに違いない。

(STORYS.JPより転載)

父に晴れ姿をプレゼントしたはずが、かけがえのない贈り物をもらってしまった。

親の偉大さ、愛情を改めて知った。

親に育てられ、いつか自分も親になり、そしてわが子が親になり、そうやって繋げていく命のバトン。

落とさないように、支えあうのが家族というものなのかもしれません。

(ストーリー紹介文=STORYS.JP編集部・阿部仁美)

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