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あなたの個性は正解?それとも不正解?「理解の範囲」という"ものさし"で測られる、現代社会の個性の在り方とは

2015年06月05日 15時51分 JST | 更新 2016年06月04日 18時12分 JST

好きなものや趣味を聞かれたとき、あなたはどんな答え方をするだろうか?

読書や音楽鑑賞、旅行。当たり障りないポピュラーなものでは印象に残らないし、

だからといってあまりに現実離れした突飛なものでは、相手にうまく伝わらない。

求められるのは、誰しもが理解できる範囲の中で個性豊かであることかもしれない。

その範囲内なら、少しくらい変わっていても"面白い人"で済むのだ。

しかし、大多数の理解の範囲を超えてしまう個性は、ときに沈黙を生んでしまうこともある。

そう思い知らされた出来事や、理解の範囲を広げるにはどうしたらいいのか、

現代社会に生きる一人として、読んでおきたいストーリーがある。

個性はあくまでも相手の理解の範囲内でないと、受け入れられないという話

●個性的な趣味の模範解答

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(以下、本文転載)

その昔、新規採用者に対して行われる「個性を認め合う」みたいなトピックのレクチャーで「社会人はな、個性的な趣味がないとダメだ。この中で誰もやってないような趣味をもっとるやつはおるか?」と研修担当部長に問われ、「インドネシア語」と答えた僕。研修担当部長の顔も、その場の空気も一瞬どのように対応したらよいかわからず凍り付いた。

結局、僕の趣味は「判定不能」ということでなんとなくスルーされ、バス釣り用のルアーを自作しているという人の答えがこの場では「大正解」だったと記憶している。

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予想外の出来事にうまく反応できる人は案外少ないもので、そういった場面では、まさに著者が経験したような、場の空気が凍るという減少が多々起きる。

実際、理解の範囲を超えた回答であった「インドネシア語」では場の空気が凍り、範囲内に収りつつも、ぎりぎりラインに滑り込んだ「ルアーの自作」は正解と認定されている。

予想や常識、理解というものは無意識に範囲が決まっていて、例えばそれは、"ものさし"と揶揄されたりする。

人々が、社会が求めているのは、その"ものさし"で測りきれるものに限定されてしまうのだ。

●マジョリティの"ものさし"は伸縮可能なのか

著者はストーリーの中で、「多文化共生における多様な価値観もマジョリティの理解の範囲内でなければモンスターになってしまう」と語っている。

民主主義社会においては、やはり多くの場面でマジョリティが正義とされてしまう。

その社会で生きるわたしたちは、マジョリティの理解の範囲という枠からはみ出さないように生きていかねばならない。

少しの息苦しさはあるものの、それが当たり障りなく平和に過ごす術なのだ。

その息苦しさを緩和していくには、マジョリティの理解の範囲というものを広げていかなければならない。

著者の見解を少しのぞいてみよう。

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(以下、本文転載)

受け入れられるものだけを受け入れている状態を越えて、ちょっとわからないもの、得体の知れない感じのものに対して、どのように理解のための橋を架けていけるか。そして、自分からすれば意味不明なものをその当事者の立場から眺め、少しだけ理解できた時の独特の拡張感を「快」としてその経験を積み重ねていけるか。

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もちろん、ある程度の秩序は必要であるから、すべてがすべてを理解し、受け入れることはできないかもしれない。

しかし、少しずつでも息苦しさが緩和されていけば、社会はもっと素敵で、イキイキとするかもしれない。

これは崇高な理念などではなく、一種の冒険である、と著者は述べている。

このストーリーは、わたしたち一人一人のこれからの冒険譚の、まさに序章といったところだろうか。

個性はあくまでも相手の理解の範囲内でないと、受け入れられないという話

(文:Storys.jp編集部・阿部仁美)