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71年前を生きた2人。あの日原爆ドームにいた女性と、早大生だった帰還兵のストーリー

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"戦争の暗い影など、どこにもなかった。

自然は、もっと明るかった。快晴の天気で、野の色も海の色も実にあざやかだった。

とてつもなく明るい空からは柔らかく、温かく、ふんだんに、春の光りがそそいでいた。

空気が春で無限にふくらんでいるようだった。

これほど、ぜいたくに、光の洪水をあびたことはなかった。"

- 帰還兵の手記より(後述)

オバマ大統領が折り鶴を持参し、HIROSHIMAを訪れました。
この折に、人生共有サイト「STORYS.JP」に投稿いただいた2つのストーリーをご紹介いたします。

1つは、原爆が投下された71年前の8月6日に広島市街地で働かれていた女性のストーリー。お孫さんが綴ってくださいました。

もう1つは、本記事冒頭にもありました、ある帰還兵の方のストーリーです。沖縄出身の彼は10代で上京し、早稲田大学に入学。大学2年生の時に出兵し、満州、ロシア、カンボジアを経て、インドネシアにいる時に終戦を迎えました。戦地から帰還し、故郷の沖縄に帰ってきた際に綴った手記を、彼の娘さんがSTORYS.JPに転載してくださいました。2つ続けてご紹介します。

#1「原爆ドームになったおばあちゃん。」

むかし、太陽は、ふたつあった。

1945年8月6日の朝8時15分。

おばあちゃんの上に、太陽が落ちた。

おばあちゃんは『広島県産業奨励館』で働いていた。日本で初めてバームクーヘンを作った場所だ。

おばあちゃんはドイツ人とのハーフで、広島市にいたドイツ人たちとも会話ができた。
それで私のお母さんを育てながら、ずっと『広島県産業奨励館』で働いていた。

1945年の8月6日も、おばあちゃんはいつも通り出勤していた。
コンクリートつくりの大きな建物は、蒼い空の下できらきらしていたって。
通勤途中の川面は、戦時中にも関わらず平和で、なんだか気の抜ける様な朝だったって。

いつもの朝に、鼓膜の破裂するような音を聞いたのは、お母さん。

お母さんは、ドイツ人の血が入っているからと、学校の友達にいじめられていた。
だから朝早くから、学校の校庭の隅にある、防空壕に一人泣いてしゃがんでいた。

空襲警報は朝に一度発令されて、その後すぐに解除になった。
だから、まさか爆撃があるとお母さんは思っていなくて、何があったのかと体を乗り出した。

校庭を見ると、遊んでボールを持ったままの体操服姿の子供たちが、
そのまんまの格好で黒くなって、うつぶせに倒れていた。
また、みんなで自分を驚かそうとしているんだろう、とお母さんは思ったそうだ。

職員室から真っ黒い子どもたちの傍に駆けだしてきた先生たちに向かって、
火が迫っていた。火事だ。爆撃の後すぐに火事になるのはお母さんも知っていた。
でも、その火は赤いような、青いような、緑色のような、不思議な色をしていた。

校庭の隅で飼っていた馬のしっぽに火がついた。
自分をいじめていた子供たちも、自分をなぐさめてくれた先生たちも、ほんのり好きだった初恋の人も、おなじように真っ黒になって倒れている。
倒れていない、動いている人には、火がついていく。

おかあさんは、怖くなって、おばあちゃんのいる『広島県産業奨励館』に走った。
おばあちゃんに抱きしめてもらったら、怖いものは全部なくなるはずだ。
こどもが誰でもそう思うように、お母さんは、お母さんのお母さんを求めた。

でも、おばあちゃんの働いている『広島県産業奨励館』の近くは、
お母さんの通っていた学校よりずっとひどかった。
川には黒焦げの顔のつぶれたぐちゃぐちゃな丸太がいっぱい。
道にも、屋根の上にも、ぐちゃぐちゃな丸太がいっぱい。

丸太が全部人間だと気づいたとき、お母さんは顔を覆った。
ごめんなさい。ごめんなさいと言いながら、その死体をまたいで歩くしかなかった。
あまりのひどさにえずいていると、自警団のお兄さんがお母さんを見つけて、抱きしめて走り出した。

『君、どこの子?』
『あっち、あっちです。産業奨励館にいるんです。お母さん、あそこで働いているんです』

お兄さんは、真っ黒な雲に覆われた、真っ赤な街を見た。それからお母さんの肩を、抱いた。

『よし、わかった。君のお母さんは、僕が見つけてこよう。だから君は病院に行っておいで。ほら、こんなに火傷している。いいね、振り向いちゃいけないよ。頑張って走って、病院を目指すんだ。きっとそこに、ぼくの父や祖母もいるから』

お兄さんは、そう言ったきり、お母さんの返事を制して、真っ赤に燃える街に走って行った。
お母さんは、お兄さんの後を追おうと思ったけれど、お兄さんの家族を頼まれたから、身をひるがえして火事から離れるしかなかった。

火から逃げるように病院に駆け込んで、それきり、意識を失ってしまった。

目が覚めたのは三日後だった。

防空壕のなかにいたのに、お母さんの体にはいっぱい傷があった。
でも、防空壕にいなかったお母さんの同級生たちは、みんな、死んでしまった。
お母さんをいじめから守った先生も、話の長い校長も、結婚したばかりの女先生も死んでしまった。
卒業写真は、お母さんと、顔にやけどを負った女の子の二人きりで撮った。

あの親切なお兄さんとも、その後一度も会えなかったって。
そして病院には、お兄さんの家族はいなかったって。

もう一度会いたい、とお母さんは言う。

でも、きっともう、生きていないんだわとお母さんは言う。

「私が生きて、お前が生きているのは、あのお兄さんが居たからよ」
と、ちいさな私に、母は伝えた。

私にとっての祖母は、いまだに遺骨すら見つかっていない。

おばあちゃんのいた『広島県産業奨励館』は、骨子以外、すべて消えた。
1992年には世界遺産に登録された。登録の名前は、『原爆ドーム』。

8月6日、『広島県産業奨励館』には30人の従業員が働いていた。
そのうちの29人が死亡。

その29人のうちの一人が、わたしのおばあちゃんだ。

原爆が投下されたところから、歩いて20歩。
祖母は、建物の中で爆発音を聞けたのだろうか。同僚の悲鳴を聞けたのだろうか?
爆発音も、視界も、悲鳴も、すべてが死に呑まれて行ったのではないだろうか。

祖母には、悲しむ時間も、逃げる時間も、誰かを許す時間も、母を思い出す時間も、
残されていなかった。

大きくなった母は、祖母を探しに何度も『広島県産業奨励館』に行った。
けれど、

どこにも死体はなかった。

どこにも死体はなかった。

だからわたしたち一家は、祖母の墓参りに広島に行く。
そして、『原爆ドーム』の傍の植木に水を与えて、手を合わせる。
世界遺産の『原爆ドーム』は、私たちにとっては祖母の墓標だ。
祖母の片りんは、世界中のどこを探しても、原爆ドームのなかにしか、ないのだ。

そして母は、毎年、いとおしそうにこう言う。

『ああ、きっとあのしみが、お前のおばあちゃんよ』という。

- 人生のストーリー共有サイトSTORYS.JP
原爆ドームになったおばあちゃん。」より


#2 早稲田大学2年生だった帰還兵の手記

 私が復員して、(故郷の)沖縄に帰ってきたのは終戦の翌年、1946年であった。
さらにその翌年、私は、知念の丘にあった、沖縄民政府の財政部で仕事をするようになった。
ある日、民政府の職員たちと南部戦跡を見に行ったことがある。

たしかトラックを1台か2台つらねていったのだが、同行した人が誰々であったか、ピクニックのつもりだったのか調査か何かお役所の仕事だったのかただ一緒に連れて行ってもらっただけなのかもよく覚えていない。

あのころは、私たちの意識の中で戦争の記憶が生々しかった。
私は沖縄戦の体験者ではないので、ぜひ、戦場の跡を見ておきたかった。

摩文仁岳に登った。

日本軍司令部の最後の陣地があった所である。
陣地後の洞窟の入口になっているという崖の斜面をのぞいてみた。
ちかくには牛島司令官と長参謀長の墓があった。

自分の立っている、その足下に、ほんとに二人の将軍の遺体が埋められているのか! と思った。
表面をセメントでぬりたくって、お粗末な墓碑が立ててある。
久留米の野砲隊にいたとき、馬の墓というのをみたことがある。

軍馬が病死して、中隊長に引率されて墓参り(?)をさせられた。

そのとき見た馬の墓は、いま自分が見ている墓より、もっと立派なものだった。

しかし、考えてみるとこの粗末な墓が当時は破格の待遇だったのだ。

島尻の山野に十数万の遺骨が野ざらしにされている。

住民や兵隊の遺体が埋められもせずに殺された場所でそのまま腐朽して、土になっている。

どこにも墓標など立っていない。二人の将軍の遺体だけが、せいいっぱい丁重に葬られてあるのだ。

これは当時としては最大級の処置であったにちがいない。

牛島中将と長中将は古式にならって割腹し、介錯をうけたらしくその首はとうとうみつからなかったといわれるから、首なしの死体がそこには埋められているわけだ。

その後、私はある仕事に関係して軍司令部の最後の模様や牛島司令官と長参謀長の自決の様子などをくわしく調べる機会を持った。二人の将官が立派な態度で死んだことがわかった。

―――――中略――――

この南の岩の果てまで、よくも戦いつづけたという感慨と、逃げられるところまで落ち延びて窮地に追い込まれたあげく、司令官は「死」以外に事態から逃れる術がなかったのではないかという疑問がぶつかり合った。

その後、摩文仁を訪れたことはないがあの時私がそういう疑問をなぜ追求しようとしなかったかそれにはもう一つの理由があった。

摩文仁岳の生々しい戦場に立つとまだ砲煙の香りがし、追い詰められた人たちが生死の境をさまよう姿が、生々しいイメージとなって脳裏に浮かんだ。

しかし、そういうものを忘れさせるほどの強烈なある感情に私はとらわれていた。

それは、戦場とは最も対照的な感情だったが、今でも忘れ得ない印象となって思い出される。

私が同行した人たちはみな沖縄戦の体験者であったが、ピクニックのような気持ちで摩文仁岳のあちこちを歩きまわっていた。時々、笑い声を立てて明るい表情をしていた。

戦争の暗い影など、どこにもなかった。

自然は、もっと明るかった。快晴の天気で、野の色も海の色も実にあざやかだった。

とてつもなく明るい空からは柔らかく、温かく、ふんだんに、春の光りがそそいでいた。

空気が春で無限にふくらんでいるようだった。

これほど、ぜいたくに、光の洪水をあびたことはなかった。

すべてが平和で静かだった。

私たちをとりまく自然は甘い叙情のようなものをいっぱいふくんでいた。

平和はこんなにすばらしいものであるかと恍惚とさせられるような瞬間であった。

牛島司令官の墓から遠くないところに平坦な原っぱがあり、岩石の上に草が青々としげり、その向こうで、太平洋の波が、遠くまでキラキラと輝いていた。

私は生きていることの美しさと、自然のすばらしく、やさしい表情に感動してしまった。

心のヒダヒダまで明るく照らしだされるような、その明るさ。

清潔で、甘い空気!

私はひとつの草むらを見つけて腰を下ろし、波の輝きをいつまでもみつめていた。

二十代の青春を、軍隊と戦争の中で失い、運命に打ちひしがれたように帰ってきた故郷はさらに過酷な運命の試練をうけていた。
そして、沖縄戦の断末魔の声をきくような、この摩文仁岳の上に立ってみると、自然は何という美しい表情をしているのだろう。

まるで信じられないくらいである。

悪夢をみたあとのようなおとろきと安らぎがひたひたと私をひたした。

これがほんとの生命だ。

生きることは、こんなに美しいことなのだ。

戦争はウソのように忘れられ、自然は無関心に、平和でやさしく、人間をつつんでいた。

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