ナガサキとアフリカから考える集団的自衛権

日本を出てアフリカを旅し始めてから8ヶ月が経ちました。この間に秘密保護法が成立し、また消費税が8%に上がりました。そして極めつけは7月1日に閣議決定がなされた集団的自衛権の容認です。
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日本を出てアフリカを旅し始めてから8ヶ月が経ちました。この間に秘密保護法が成立し、また消費税が8%に上がりました。そして極めつけは7月1日に閣議決定がなされた集団的自衛権の容認です。まさか旅に出たときと帰るときで、こうも日本が様変わりしているとは思いもしませんでした。まさに浦島太郎にでもなったかのような違和感を覚えます。

3年前の東北大震災のときもアフリカ渡航中で、押し寄せる波や燃え盛る町の映像を見ても、なかなか実感が得られませんでした。そのときの感覚と似た違和感です。

いつまでたっても、嘘のような真をなかなか飲み込めない自分を現実を知らしめてくれるのは、ネット上のニュースではなく、FacebookやTwitterのタイムラインです。友人たちの怒り、憤り、不安、恐怖、絶望、無力感・・そんな感情を感じさせる投稿を目にして、ようやく現実に日本で起こっていることなのだと認識できました。

■ 日本人はすでに戦場にいる

この集団的自衛権とは「戦争に参加する権利」と解釈しても曲解ではないと思います。竹島や尖閣を文字通り「死守する」ために必要だ、と解釈する人も少なくありません。そこまで思っていなくても、仮想敵国として北朝鮮や韓国、中国が想定されているのは誰の目にも明らかでしょう。また、アメリカと同盟関係にある以上は、世界中のイスラーム過激派テロ組織も仮想敵に数えられると思います。

東アジア情勢は緊迫しているものの、すぐにでも戦争が起きるかといわれると、何とも言えない状況だと思います。しかしながら、イスラーム過激派テロ組織がはびこる国との戦争においては、比較的容易に参戦できると思います。実際すでに南スーダンやソマリア沖には自衛隊が派遣されているわけだし、集団的自衛権を行使してない今でも彼らは命の危険にさらされながら任務を遂行しています。

「日本人を戦場へ送るな!殺すな!」というプラカードを写真の中にいくつか見つけましたが、もうすでに日本人は戦地へ送られています。ですから、本当はPKO派遣が決定される時点で今回のようなデモがなされなければならなかったのです。だからと言って、抗議に遅すぎることはないので、市民が中心となってなされたデモ活動には心からの敬意を表したいと思います。

この「殺すな!」のプラカードを見て、ふと頭に浮かんだ疑問が、誰を「殺すな」と言っているのだろうかということです。おそらくプラカード制作者の意図としては「日本人を」という主語が念頭にあると思いますが、私は「人間を」という主語の方がよりよいのではないかと思いました。

■ 長崎に生まれて感じる「平和」への疑問

私は平和文化都市を自称する長崎で生まれ育ちました。祖父母が原爆を経験した被爆3世です。義務教育では「平和教育」が熱心に行われ、小学校低学年のころにはあまりに悲惨な映像や写真を目にしたためにトラウマを覚えたほどです。そんな長崎の平和教育に疑問を持ったのは、原爆資料館付近にある朝鮮人慰霊碑の存在を知ったときです。

爆心地からほど近い所には中国、朝鮮人の収容所がありました。また、長崎という都市の特性上、数世代に渡って長崎で暮らしている、今で言う「在日朝鮮人」の方もいらっしゃいました。69年前、原子爆弾は無差別に日本人にも中国人にも朝鮮人にも放射能を浴びせ、身体を焼き、吹き飛ばしました。原子野の長崎では溢れ返る負傷者の中、「非日本人」であった方は最後まで手当を受けられず、差別されながら亡くなっていったそうです。

そんな朝鮮人被爆者の慰霊碑は今日においても、まるで退けられるかのように暗い陰にひっそりと建てられています。

この慰霊碑にまつわる話を私は父から聞きました。学校では教えてもらえませんでした。原子野では、みながみなのっぴきならぬ状態であり、そこで他人を思いやるのは非常に困難だと思います。だからといって、真実に目を閉ざすことは許されるのでしょうか。本当の意味での平和を学ぶためには、痛み苦しみを伴いながらも真実と向き合う他にはないのではないでしょうか。

被爆者の方は戦争の被害者ではありますが、差別をし続けた加害者でもあります。たとえのっぴきならぬ状況におかれていても、仕方なかったんだといっても、差別をしたことは事実です。ただ、それは平均年齢が80歳近い被爆者の方に事実を認めてくださいと言っているのではなく、私たち被爆2世、3世そしてその後の世代が見つめていかなければならない真実だと思います。

■「加害者」としての日本人

ここまで述べてきたのは被爆地長崎での話ですが、日本全体に関しても同じようなことが言えると思います。日本人は戦争でたくさん殺されました。子どもたちは「父を返せ!母を返せ!」と叫んだのです。ただ、それは日本の子どもたちだけではありません。日本人はたくさん殺しました。「父を返せ!母を返せ!」と世界中の人が日本人に向かって叫んだのです。

戦地に日本人を派遣すると、殺されることもありえます。それと同時に、誰かを殺すこともありえます。私は「殺すな」というプラカードのメッセージを、「人間を」という主語をつけて読み取らずにはいられません。

■ アフリカでなにが起こりうるか

先に述べたように仮想敵国としては東アジア諸国が挙げられる集団的自衛権ですが、実際にすぐにでも派遣されうるのは中東やアフリカ地域だと思います。とりわけ、先日からニュースになっているテロ組織ボコ・ハラムが跋扈するナイジェリアや、未だに治安が安定しない南スーダン、ソマリア、それから革命後テロが頻発している北アフリカ諸国は格好のターゲットとなるでしょう。というのも、南スーダンやソマリアにはすでに自衛隊がいるわけで、事実上の攻撃許可を与えるだけでいいわけです。

アフリカで何が起こりうるか。集団的自衛権の最初の犠牲者は日本人でもなければ、東アジア諸国の人でもないでしょう。日本から「遠い」アフリカで暮らす人々の命が奪われる。そんなことが十分に起こりうるのです。

私はアフリカ研究に従事する端くれ中の端くれですが、日本人がアフリカで人殺しをするのを黙って見過ごすわけにはいきません。アフリカの人々は世界の構造の中で、被抑圧者の立場に押し込められてきました。いつも苦渋をなめるのは社会的弱者なのです。東アジア情勢のために、アフリカの人々の命が奪われる。こんな馬鹿げたことが起こっていいのでしょうか。

多くの日本人にとってアフリカはまだまだ「遠い」場所だということは疑念の余地がないと思います。先日のボコ・ハラムのニュースもスキャンダラスに報じられたからこそ、ある程度の関心が持たれたわけですが、実際に日常茶飯事に起こっている誘拐、人身売買、集団殺戮といったニュースは日本ではほとんど知られていません。そんなアフリカだからこそ、アフリカは日本政府にとって格好の派遣先となりうると思います。

集団的自衛権は日本国内の社会的弱者(相対的貧困層)から兵士を出させるだけではありません。何よりも一番の犠牲者となるのは世界の中での社会的弱者なのだ、ということを知って頂きたいと思います。

(2014年7月4日「アフリカさるく紀行」より転載)

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