北朝鮮で考えたこと【編集ノート】

取材に高い旅費を払うことに、どれほど意味があるのか、という批判も受けるが、百聞は一見にしかず。制限の多い取材でも、見えてくることはある。

9月15日から23日まで、取材で北朝鮮を訪れた。民間の墓参団への同行取材だった。

平壌を起点に、中朝国境の街・会寧、港湾都市・清津、七宝山、咸興など、地方都市もあちこち回った。

墓参の遺族5人に対し、同行する日本メディアは25人。NHK、日テレ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日の大手放送5局と共同、時事通信社、そして毎日新聞、ハフィントンポスト日本版。金正恩政権で、映像メディアを重視する姿勢は一層顕著になった。現地の案内員によれば「映像は噓をつかない。新聞はどうしても記事に記者の主観がこもる」という考えが理由の一つのようだ。新聞社として北朝鮮の取材に入ることは、日本外務省の同行取材でない限り基本的に認められない。

そんな中、 今回はネットメディアのハフィントンポスト日本版に異例の取材許可が下りた。取材申請の交渉も大変だったが、北朝鮮に入国後「インターネットのニュースメディア」とは何かを理解させるのも骨が折れた。取材に毎日同行する案内人は、放送局や通信社、新聞社が何をするかは知っているが、インターネットの閲覧を認められている人は限られる。そもそもネットを通じてニュースを知るという習慣のない北朝鮮で、私はとても警戒されたように思う。

よく知られている通り、北朝鮮での取材は自由ではない。自由行動、単独行動は認められない。平壌駅前の高麗ホテルから数百メートルの食堂に行くのも、バスに乗って集団で移動する。帰ってくると外務省の担当者がホテルの入り口に立ち「許可なく出歩かないように」と伝える。国内線の飛行機では一般人と隣の席になったし、地方都市でも取材の最中に一般人に出くわすことも多かったが、自由に話しかけること、特に政治の話題を尋ねることは厳禁だ。

平壌に着いた初日の9月15日、担当者はホテルで記者たちに釘を刺した。「日朝関係を毀損する行動はしないでください。放映されたものを見ると、いいものもありますが、悪いものも多い。我々の最高尊厳、社会主義制度の中傷は許しません。写真撮影も良心的に判断してほしい。今回の訪問目的である墓参取材に集中し、成果を出していただくよう望みます」

北朝鮮の官僚は、車に同乗するメディアが車窓から撮影する写真にも神経を使う。貧しい身なりの子どもや、トラックの荷台に集団で載って移動する人々などを写していることが分かると「そんなものを撮りに来たのではないでしょう」と一喝する。

ただ、長い車での移動で、記者を監視する役割も担う案内人も疲れるし、やがて車窓の撮影自体に何も言わなくなった。心配していた写真や記事の事前チェックもなく、撮影したすべての写真を持ち帰ることができた。

そんな取材に高い旅費を払うことに、どれほど意味があるのか、という批判も受けるが、百聞は一見にしかず。制限の多い取材でも、見えてくることはある。

高層ビルの建設ラッシュで、資本主義国並みのレジャー施設が続々誕生している平壌と、地方都市との経済格差は日本の比ではない。石油がないから、幹線道路でもきちんと舗装されている道路はごくわずか。バスの座席で体を上下左右に飛ばされるように揺られながら山道を走り、すっかり腰が痛くなった。農村地帯ですれ違うのは自転車と、牛車と、たまに荷台に人を満載したトラック。日本の農村では生活に不可欠のマイカーも耕運機もない。30年前にテレビで見た中国の風景を思い出す。北朝鮮との貿易に携わっていたある在日朝鮮人から「地方在住者にとって平壌とはまるで外国だ。一生に一度行けるかどうかの夢の国」と言われたことを思い出す。

ちょうど収穫期。稲穂や硬そうなトウモロコシはぎっしりと穂を実らせていた。すれ違う人を見ても、ものすごく飢えているようには見えない。餓死者が続出したという「苦難の行軍」と呼ばれた1990年代後半に比べると、食糧事情は改善しているのだろう。田んぼには自転車が並び、多くの人が手作業で稲刈りに没頭していた。地方に行くと炭を燃料に走る車も見かけた。都市部の路面電車は日中は運休していることもあった。燃料事情はよいとはいえないようだ。

ひたすら広がる貧しい農村地帯。そして連日、新聞やテレビの国際ニュースを賑わせている、核を握ったモンスター。この落差は一体何だろう。この貧しい農村に暮らす人々の大部分は、あの平壌の摩天楼を一生見ずに終わるのだろう。莫大な資金を投じられている「核開発施設」もどこかにあって、私たちは近づくことも許されないのだろう。

そんな理不尽を次々と目の当たりにしたからか、私自身は滞在中ずっとイライラが募ってばかりだった。墓参に訪れた遺族の体験も悲惨そのもので、国交がないという理由で70年近くも墓参を許されなかった理不尽に直面したことも影響したと思う。

地方都市で墓参団とその動向取材班は、一般の人からはとにかく奇異の目で見られた。まるで宇宙人でも来たかのように、大人も子供もジロジロ、ニコニコ。それをたしなめる大人もいる。とにかく無反応な人はいないのだ。地方で暮らす人にとって、外国人なんて一生に一度会うか会わないかの出来事なのだろう。子供の頃、東京で、街を歩いていた金髪の白人(当時は結構珍しかった)をこわごわ、物珍しげに追いかけたことを思い出した。

平壌では高麗ホテルの部屋でインターネットが使えたので、日本版の記事はインターネットから送ることができたが、これは外国報道機関向けの特別な便宜で、一般国民にはやはりネットは身近ではない。私たち外国人と接触できる人は、かなりの上流階級だが、それでもインターネットの閲覧は国際情勢の分析など職務上の必要のある人に限られる。チュニジアやエジプトで起きた「アラブの春」のようなことは、北朝鮮ではまず起きそうにない。(だから、ちょうど滞在中、金正恩第1書記の動静が長期間にわたって公式報道されず、海外では独裁体制に動揺が走ったという説も出たが、異変は少なくとも表面上は感じられなかった。金正恩氏を讃えるテレビ番組は毎日流れていたし、案内人も「朝鮮は若き指導者を迎えて未来は明るい」とご機嫌で我々に話しかけてくる。治安も非常によかった)

逆にいえば、大多数がそんな状態の国民2000万人を「開放」に導き、破綻しないように軟着陸させるのは至難の技だろう。

現地の流行歌のスタイルや平壌にできた遊園地などを善意に解釈すれば、海外留学経験のある金正恩第1書記は、ほんの少しずつ海外の要素を取り込みながら、次の手を慎重に探っているようにも見える。

南北関係の劇的な改善を呼びかけた2015年の「新年の辞」からは、依然遅々として進まない国内の経済事情も読み取れる。2015年、苦境を脱するために対日、対米関係の大きな改善に舵を切るのか。核や拉致などの難問を抱えた北朝鮮にとって、それもまた、簡単にいかないことも事実だろう。

北朝鮮・平壌から地方へ(2014年9月)

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