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岩崎健示 Headshot

「その時、どんな思いでしたか?」被災者に問いかける日々で痛感したこと【熊本地震】

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熊本県内の各地に甚大な被害を与えた熊本地震から1年。被災した人たちは、それぞれ違う歩幅で復旧・復興へ向けた歩みを進めている。その歩みを近くで見つめてきた地元紙の記者5人が、その時々の思いをつづったコラムを寄稿する。今回は岩崎健示記者の記事を紹介する。
(熊本日日新聞社 原大祐)

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【2016年7月29日 戻った日常、続く非日常】


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前震後、余震が続いて身動きがとれない人たちもいた=2016年4日14日午後11時35分ごろ、益城町

「地震、どうだった」。5月、高校野球の取材で知り合った3年生の球児と再会し、声を掛けた。「大丈夫です。取材も大変だったみたいですね。新聞で見ていましたよ」と笑顔が返ってきた。甲子園を目指す最後の夏は、思うように練習ができていないという。逆境でも人を思いやる姿勢がまぶしかった。

多くの球児が地震の影響を受けて臨んだ夏の県大会。真っ青な空の下、駆け回る球児をレンズ越しに追いかけていると、「ことしも暑い夏がやってきた」と当たり前のことを思う。最近はさまざまな取材で「また一つ、熊本に日常が戻ってきた」という言葉を聞く。元球児の私にとって高校野球はまさしく日常の一つだ。

熊本地震直後から取材に行っている益城町では、道路にもがれきがあふれていた一時の姿から変わりつつある。建物の公費解体も始まり、所々で更地になった土地が見られる。それでも、多くの倒壊家屋は手付かずのまま。日常の光景にはほど遠く、復興にかかる時間の長さを痛感させられる。

同じ夏、地震後初めて公開された同町のグランメッセ熊本や南阿蘇村の東海大阿蘇キャンパスに入った。崩れ落ちた天井、ぶら下がったままの照明、めくり上がった道路-。3カ月前と違うのは厳しく照り付ける太陽だけだった。

ショッピングモール再開のニュースや夏休みの行楽情報を目にするとホッとする。「仮設への入居が決まりました」「車中泊に戻りました」。被災地の取材で知り合った人たちの現状を聞いて一喜一憂しながら、その温度差に戸惑う。どのように地震取材と向き合うのか、時間がたつほど葛藤は深くなる。戻ってきた日常に希望を抱きながら、非日常が続く被災地と向き合い続けていきたい。(岩崎健示、写真部)

【2016年11月22日 立野を歩く】


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住民の姿がほとんどなく、解体の重機音が響く立野地区=2017年2月27日、南阿蘇村

9月に社会部へ異動となり、熊本地震で土砂崩れが多発した南阿蘇村立野地区を中心に取材している。立野では村中心部とつながる阿蘇大橋が崩落。断水が続き、避難勧告も出されたままだ。住民は家屋被害の有無にかかわらず仮設住宅への入居が認められていて、多くは隣接する大津町など村外で生活している。

赴任してまず、立野を歩いた。生活音がしない集落を巡っていると、自宅の片付けをしている男性に遭遇した。「あの、熊日ですが」「なんね、盗っ人かと思ったよ」。笑って迎えてくれたが、地震以降、見知らぬ顔は不審者として疑われるという。

9月下旬からは、被害を受けた家屋の解体作業が始まった。静かだった集落に、パワーショベルが壁をのみ込んでいく「バリバリ」という音が響き渡る。長年の思い出がつまった家が壊されていく様子を寂しそうに見守る80代女性の姿が印象に残った。

日中は立野に戻って農作業に汗を流す人、大津町にある仮設団地で生活上のルール作りを進める人。地震から7カ月、住民は前を向いて進んでいる。一方で、断水や道路の寸断など生活インフラの復旧は見通しが立たないまま。「水道が出らんことには戻るも戻らんも考えられん」「立野に帰るつもりだけど、周りがおらっさん(いない)なら...」、「みんなはどぎゃんさすとだろか(どうするんだろうか)」。将来を描けないことへの不安が漏れる。

暑すぎず寒すぎず、景色はきれいで、交通の便は良くて-。立野のいいところを尋ねると、みんな止まらない。立野に戻るのか、別の場所で生活を再建するのか。今後、選択を迫られる住民もいるだろう。それぞれの決断に込められた思いを紙面で伝えていきたい。

【2017年3月9日 被災者の言葉】


「その時、どんな思いでしたか?」。最近、こんな問い掛けをする場面が増えた。熊本地震から11カ月。被害が大きかった南阿蘇村の立野地区を中心に取材を重ねているが、自分の置かれた状況と懸命に向き合おうとする被災者の言葉の重みを日々感じている。

3月に大津町の翔陽高であった卒業式。地震の影響で自宅を離れ、同町のみなし仮設住宅で暮らす女子生徒を取材した。地震後の約1カ月半、車中泊を経験。学校での昼食に市販の弁当が続いた際、友人が手作りの弁当を持ってきてくれたという。

「いい友人に恵まれ、支えられていることをあらためて実感した」。地震のせいで不自由な生活を強いられたにもかかわらず、周囲への感謝に満ちた明るい表情が印象的だった。

被災者にとって地震のことを思い出すのはつらいことだろう。ただ、経験した当事者にしか語れない事実を伝え、読者と共有することが地震の風化を防ぐと信じ、「その時」の記憶にこだわっている。

もちろん、地震のことを聞くと口が重くなる被災者は少なくない。出会いから半年近くたって、ようやく当時の緊迫した様子を話してくれた男性もいる。

男性の自宅は、九州電力が所有する発電所の貯水槽が壊れ、大量の水と土砂に襲われた。暗闇の中をはだしのまま、無我夢中で逃げ出したという。「家族3人が腰まで泥水に漬かって避難する時、こうやって命が消えていくのかと感じた」。とつとつと振り返る男性の視線は、解体が始まったわが家に注がれたまま。さまざまな思いが去来しているようだった。

被災者が自ら語る言葉は、熊本地震を語り継いでいく上でとても貴重だ。その言葉を託してもらえる、信頼される記者でありたい。

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益城町災害ボランティアセンターに設置された七夕飾り=2016年7月2日