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誰の心にもヤンキーはいる。

2014年03月26日 00時37分 JST | 更新 2014年05月25日 18時12分 JST

なぜ日本人はこれほどまでにバッドセンスを愛するのか? こうした問題意識から日本人の嗜好の精神分析を行い、そこに「ヤンキー」性を指摘した拙著『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』(以下セカド)。本書は各方面から反響があり、光栄にも第11回角川財団学芸賞を受賞することになった。

そしてこの3月にセカドの議論を発展させた『ヤンキー化する日本』という対談集を上梓した。各界の著名人との討論との通じ、どれだけ日本人の無意識にヤンキー性が潜んでいるかを、改めて確認することができた。本書の第一章では、セカドでの議論を整理した上で新しい事象も盛り込み、ヤンキー的なるものの特徴を列挙してあるので、セカドをお読みいただいていない方にも、十分に楽しんでいただけるはずである。

誰の心にもヤンキーはいる。これが僕の基本的な考え方だ。素直にヤンキースタイルを生きる者もいれば、嫌悪とともにそれを〝否認〝する者もいるだろう。しかし僕の見るところ、現代はヤンキー文化のエッセンスが、かつてないほど広く拡散した時代だ。むしろ自明すぎて見えなくなっているとすら言える。

僕がヤンキーと言う場合、それはもはや不良や非行のみを意味しない。むしろ、彼らが体現しているエートス、すなわちバッドセンスな装いや美学と、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの〝文化〝を指すことが多い。

本物の不良や非行少年たちというよりも、彼らから派生した文化的エートスが、現在の日本文化のマジョリティを形成しているように思われるからだ。その本質を一言で言えば、「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」という空疎に前向きなエートスである。

ヤンキー文化の拡散ぶりは、2012年暮れに第二次安倍内閣が成立してから、いっそう顕著になったように思われる。そうした危機感を朝日新聞の取材を受けて述べた、「自民党ヤンキー論」(2012年12月27日付 朝日新聞朝刊)は、予想外の反響を呼んだ。

個人的には半分以上シャレのつもりだったのだが、思いのほか正鵠を射ていたのだろう。実際その後の安倍内閣の政権運営は、もはや気合いとノリと勢いだけでやってしまっている、すなわちヤンキーとしか思えないものが、残念ながら相次いでしまっている。

こう書くと、日本人のヤンキー性を否定しているように聞こえるかもしれない。だが、僕は一概にヤンキー性を否定しているわけではない。例えば、ヤンキーの特徴の一つに、「行動主義」「仲間主義」などが挙げられる。それが助け合いの原動力となり、震災直後の復旧活動において、大きな力を持ったのは間違いない。

知性よりも感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んずるヤンキー的心性。そしてそれゆえに、時に反知性主義に陥る。僕はここが「ヤンキー化」の最大の問題点だと思っている。今の日本に蔓延する反知性主義こそが、冷静かつ大局的な議論を妨げているように見えるからだ。

復興にせよ、原発の処理にせよ、気合とアゲだけで到底対峙できることではない。気合を信じきった挙句に、無謀な作戦を決行し、悲劇をもたらした太平洋戦争中の「インパール作戦」を思い起こしてみてほしい。今日本が抱えている課題の多くは、長期的な視野を持ち、知性をフルに働かせてこそ、ようやく解決への道筋が見えてくるものだ。

あえてもう一度言う。我々の心の中には多かれ少なかれヤンキーが住んでいる。だからヤンキー的なものを嫌悪している人も、土壇場や正念場で「気合い」を入れたり、「がんばればなんとかなる」とつい洩らしてしまったりする。それほど深く日本人の感性に根付いている。それゆえに、ヤンキー性ゆえの強みと弱みを認識し、ある種の諦観をもって、日本人は自らの内なるヤンキーと向きあわねばならない、というのが僕の今考えていることである。 

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