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Jアラートを嗤う

日本のどこかにミサイルが着弾したのかと本気で思いかけた。

2017年09月03日 10時32分 JST | 更新 2017年09月03日 10時32分 JST

今からほぼ一時間半前、つまり8月29日今朝6時前後、千葉県と茨城県の県境近くに暮らしている僕は、地域一帯に響く大音量のアナウンスと警戒音で起こされた。周囲はほぼ麦畑と田んぼ。電柱などに据え付けられた市のスピーカーから、「北朝鮮が」とか「ミサイル」などの言葉がきれぎれに聞こえる。枕もとに置いていた携帯電話もアラーム音を響かせ始めた。この地域でこんなことは初めて。さすがに起きてはいけないことが起きたのだろうかとあわててベッドから起きて(一応はかけ言葉です)テレビのスイッチを入れれば、NHKはもちろん民放各局も緊急特番体制で(地上波だけではなくBSもすべてだった)、日本のどこかにミサイルが着弾したのかと本気で思いかけた。

結果は誰もが知るとおり、弾道ミサイルは日本上空を通過して太平洋に落下した。

何から突っ込めばいいのだろう。まずは各メディアが一斉にアナウンスした「ミサイルは3つに分離し、いずれも襟裳岬の東約1180キロの太平洋上に落下した」との表現について。「襟裳岬の東」とのフレーズを耳にして僕は一瞬、かなり近くに落下したのかと思ったけれど、1180キロはけっこう長い。地図を見ればわかりやすいけれど、これは「襟裳岬東」ではなくて「北海道(あるいは日本の)東」と言うべきではないだろうか。たぶんミサイルの軌道のちょうど下あたりが襟裳岬ということでこの表現になったと思うのだけど、それと落下地点の表現はまったく意味が違う。

多くの列車や電車は停まったようだから、通勤に与える影響は相当に大きいだろう。停まってどうなるのだろう。もしも停まった電車に直撃したら、だれが責任をとるのだろう。

首相と官房長官はすぐに囲み取材と記者会見で緊急事態であることを強調した。テレビは盛んに、破片の落下は今のところ確認できていないとアナウンスしていた。日本各地の原発に今のところ異常はないと発表したのは原子力規制庁で、海上保安庁は付近を航行する船舶や航空機に今のところ被害はないと発表した。すべて「今のところ」が常套句のように使われている。含みがある。いやな言葉だ。安心なんかさせてはいけないとの無自覚な意識が透けて見える。

もちろん備えは必要だ。ある程度の緊張も理解する。でも過剰な自衛意識は時として判断を誤らせる。冷静さも必要だ。リスクとハザードという言葉を知ったのは数年前。例を挙げる。マムシは危険だ。咬まれたら一命に関わる場合がある。つまりハザード(毒性)が高い。でもならば、マムシを警戒して常にゴム長を着用する必要はあるだろうか。もちろんない。なぜならマムシは都市部にはほとんど生息していない。田舎でも遭遇することはめったにない。つまりリスク(危険性)は低い。この二つは常に分けて考えねばならない。ところが時として人はこの二つを混然としてしまう。大きな過ちを犯すときはそんな時だ。足もとのマムシにばかり気を奪われていたら、前方の障害物に気づくことができなくなるし、交差点で黄色信号が点滅しているのに渡ってしまうかもしれない。

ほとんどの人の意識からは抜け落ちているようだけど、これはミサイル発射実験だ。ならば確認はできないけれど、弾頭に火薬は搭載されていないと考えるべきだ。つまり正確にはミサイルではない。ミサイルの先端に装着されているのは、爆薬や核弾頭と同じ質量・容積の模擬弾頭だ。

まあだからこそ破片の落下を気にするのかもしれないけれど、その確率を危惧するならば、家を出てから車にぶつかったり看板が頭に落ちてきたりすることを気にするほうがよほど現実的だ。迎撃措置はとらなかったと政府は発表したが、もしもそんなことをしたら、それこそ模擬弾頭ミサイルの無数の破片が日本列島に降り注いでいたかもしれない。新たな兵器だ。ばかばかしい。

仮に火薬を搭載していたとしても、被害規模は(多くの人が想像するほど)大きくはない。今朝のニュースでも「もしも落ちていたら街が火の海になる」とか「函館は壊滅するのでは」などと口にする人たちの声が紹介されていたけれど、一トン未満の火薬の破壊力は、小さなビルが半壊する程度だ。もちろん人的被害は出る可能性がある。絶対にあってはならないし備えは必要だ。でも被害の想定すら冷静に共有されていない備えに、どれほどの意味があるのだろう。むしろ悪影響のほうが大きい。

「杞憂」とは、極端な心配性や取り越し苦労のこと。中国の杞に住んでいた男が、「いつか天が落ち、地が崩落してしまうのではないだろうか」と心配して、夜も眠れず食事もとれなくなるほどに衰弱してしまったという故事に由来する熟語だ。出典は『列子』。子供の頃に杞憂の意味を知ったとき、何と昔の人は思慮が足りないのだろうとあきれた。でも今から数百年が経ったとき、「日憂」という熟語が世界中で使われているかもしれない。意味はやっぱり極端な心配性や取り越し苦労のこと。日本の政治家やメディアや一般国民たちが、北朝鮮が打ち上げるミサイルやロケット発射実験の際に上空から破片が落ちてくるのではないかとか心配して、「破壊措置命令」を発令しながら取り返しのつかない事態に突入ししまったとの故事に由来する熟語。

念のために書くけれど、北朝鮮の行動を追認する気はまったくない。日本の上空を軌道にしたということは、もちろん日本への挑発や恫喝の意味もあるのだろう。本当にどうしようもない国だ。危機意識で凝り固まっている。だからこそ攻撃的になる。でも危機意識という意味合いでは、日本のこの騒ぎ方も常軌を逸している。テレビのニュースでは、「怖かった」「何をするかわからない国だ」「あんな国と話し合いなどできるはずがない」などとカメラの前で語る市民たちの声が紹介されていた。こんなニュースや情報に触れながら多くの人は思う。早くやっつけてしまえと。だからもう一度考えるべきだ。これはどの程度に危険なのか。選択肢はいくつあるのか。その帰結はどのように予測できるのか。

桐生悠遊は「関東防空大演習を嗤ふ」と書いて信濃毎日新聞社を追われたけれど、僕も今、Jアラートとこの国を思いきり嗤いたい。僕だけではなく、もっと多くの人が嗤うべきだと思う。

現代書館ウェブサイト「斎藤美奈子・森達也対談」に掲載した文章に若干の加筆。