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原発事故後も活動を続けた救急隊の成果

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原発再稼働に向けて、原発災害時の避難計画の整備が行われている。

現実的な避難計画をつくるためには、福島第一原発事故の教訓を踏まえることが最も近道だ。そこで一例として、福島第一原発事故後の、避難地域やその周辺における救急搬送の様子についてご紹介したい。なお、この調査内容は9月28日付で英医学誌のBMJ openにて公開(http://bmjopen.bmj.com/content/6/9/e013205.full)されている。

今回調査した相馬市、南相馬市、飯舘村、新地町は、相馬地方広域消防本部の管轄地域だ。ここは、福島第一原発から10〜50km北方に位置する地方である。福島第一原発事故後には、20km圏内では避難指示、20〜30km圏内では屋内退避指示が出された。この地域を対象にして、119番通報を受けてから救急車が患者を病院に搬送するまでの時間(以下、救急搬送時間)が、震災前後でどのように変化したかについて調べた。

その結果は図1だ。救急搬送件数は、災害のあった週にピーク(162件)を迎えて以降は震災前と同程度で推移していた。一方で、災害の翌週から11週間にわたって、救急搬送時間の中央値が震災前の31分から36分に延長していた。つまり、被災者が大量に搬送された災害直後の救急搬送は遅れていなかった一方で、災害翌週以降の救急搬送が遅れていたという結果になった。3カ月は延長していたが、直ぐに立ち直っているという驚きの結果である。

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図1

救急搬送時間を細かく見ると、運搬時間(救急車が現場から出発し病院に到着するまで)が最も影響を受けていることがわかった。一方で、救急隊が現場に到着し出発するまでの時間は、震災前とあまり変わらなかった。

延長していたのは、救急現場を出発してから病院に到着するまでの時間であった。また、延長していた時期は、この地域の救急病院が閉鎖していた時期に一致する。このことから、避難地域、その周辺の救急病院が閉鎖していたために、普段よりも遠方にある病院に患者を搬送することになり、救急搬送時間が延長してしまったと言える。当時、病院は大混乱であった。

例えば、原発から23kmの距離にあった南相馬市立総合病院では、274名のスタッフが、震災後一週間で3分の1以下に減少した。近くにある大町病院も、同様にスタッフがほぼ3分の1になったという。原発事故の状況がわからず明日には避難指示が出るかもしれず、さらには支援物資不足からスタッフの食事にも事欠く状況であった。屋内退避地域にはDMATをはじめとする医療支援も入らなかったため、他の医療者の手助けも期待できなかった。

南相馬市立総合病院院長の金澤幸夫先生は、「どうなるか分からないのに、スタッフに残りなさいなんて言える状況ではなかった」と語る。副院長の及川友好先生は、「あのとき、おれはもう死ぬんだと思った」と言う。これが、原発事故後に避難地域周辺に、支援もなく残された人の正直な感想だろう。この状況下で、残されたスタッフは、入院患者を避難させるため必死の努力を行った。入院機能を維持することなど、到底できなかった。

一方で、救急搬送を呼んだ患者の下に着くまでの時間、さらにはその現場を出発するまでに要した時間は変わらなかった。救急搬送システムは、救急現場に着くまでの時間が最重要視されることが多い。その他の時間は、患者の容態や、受け入れ先の病院の都合などで影響を受けるからだ。

つまり、救急隊が現場を出発するまでの時間が変わらないということは、救急隊が震災前とほとんど変わらずに活動を維持できていたことを意味する。驚くべきことに、救急隊は原発事故が起きたあとも全員が被災地に残り、勤務を続けた。家族と連絡がとれないまま勤務を続けた方も多かったという。「私達がいなくなったら、誰もいませんからね」、救急本部の高原和博氏はそう語るが、本来ならば誰がいなくなってもおかしくなかった。そうなれば、救急隊の人手が減ることで救急車の対応が遅れることになっただろう。

救急隊の責任感の強さが、救急搬送時間の遅れを最小限に留めたのだろう。一方で、彼らが負った心の傷も計り知れない。震災後しばらくたってから、職を離れた方もいたそうだ。

この調査は、今後の原発事故対策に向けて重要な情報を含む。特に、避難地域周辺で起きる混乱への対処が困難であることを示している。現在策定がすすむ、原子力災害の避難計画にもこの混乱の困難さは十分には考慮されていないように思える。原子力災害の防護措置の指針として、IAEA(国際原子力機関)では、二段階の地域を設けて対応するように指針を発表している。

すなわち、PAZと呼ばれる、原子力施設から約5km圏内の地域と、UPZと呼ばれる、原子力施設から約30km圏内の地域だ。PAZでは、放射線量が判明する前に予防的に避難が行われるのに対して、UPZでは、放射線量に応じて、避難を行うか屋内退避などが行われる。

しかし、これまで述べてきたように、実際の原子力災害後にはUPZでは想定以上の混乱が起きる。その混乱のなか、病院が機能を維持するのは非常に難しいと考えられる。もし、病院機能を維持しようと思うのなら、外部からの人的・物的資源の大量投入が必要だ。しかし、その地域は翌日には避難地域に変わるかもしれない。

そんな状況で、それだけのボランティアが集まるだろうか。救急隊が全員残ったのは、彼らの責任感から残ったのであり、決して強制されるべきものではない。彼らの負った心の傷も無視できない。災害後しばらくたってから職を離れた方もいたようだ。避難する者は責めず、残った者には心のケアを、これが正しい姿勢だ。

10月5日付の報道で、新潟県の調査結果が発表された。バス・トラックの運転手1982人を対象に、原発事故後、支援物資輸送や住民搬送のため半径30km以内に入ることができるか、というものだ。回答のあった1335人中、66%が「行かない」と回答したという。実際に事故が起きたときには、この数字以上のことが起きる。物資なしでUPZ内の生活を維持することはできない。UPZ自体が非現実的だと指摘する意見にも納得する。避難計画の策定者、原子力関係者には、福島で原発事故後に何が起きたか、もう一度、知ってほしい。UPZへの対応は、予想以上の混乱との戦いである。

最後になったが、今回の調査にご協力頂いた方々に感謝の意を表したい。まず、相馬地方広域消防本部の方々だ。彼らは、災害後に全員が活動し続けただけでなく、平常時と同じように記録を残し続けた。大災害後の混乱期にあっても、震災前と比較できるほど詳細な記録が残っている例は世界にも類を見ない。

改めて、相馬地方の救急隊の方々の責任感の強さを感じた。貴重な資料を共有して下さった消防本部の草刈薫様、高原和博様をはじめとした方々に深く感謝する。さらに、消防本部を紹介してくださった南相馬市立総合病院副院長の及川友好先生にも大変助けて頂いた。この場を借りて御礼を申し上げたい。