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オリンピックいよいよ開幕。戦争に翻弄された"幻の1940東京五輪"当事者の思い

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4年に一度の平和の祭典がいよいよ始まる。そして、71年目の終戦記念日もまた、リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックの喧噪の中巡ってくる。この日を特別な思いで迎えている人たちを、「報道ステーションSUNDAY」は取材した。

オリンピックの開催地に東京が選ばれたのは2回ではなく、実は3回目であることはあまり多くの人に知られていないかもしれない。1964年に開催された東京オリンピックの実に24年前、1940年のオリンピック開催地もまた東京に決まっていたのだ。

招致活動に尽力したのが、日本人で初めてIOC委員になった嘉納治五郎だった。「柔道の父」と呼ばれる講道館柔道の創始者である。1940年は「日本書紀」に書かれた神武天皇の即位から2600年にあたるとされていた。その記念事業として、オリンピックを世界にアピールする絶好の機会ととらえ、日本はアジア初の開催を訴えて奔走したのだ。フィンランドのヘルシンキとの一騎打ちに持ち込んだ東京は、最終的に36票を獲得。27票のヘルシンキを凌ぎ、アジア初となる東京開催は決定したのである。

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河野通廣さん(96)は、当時競泳・背泳ぎの代表有力候補として大学で猛練習の日々を送っていた。1936年のベルリンオリンピックで、「前畑、頑張れ!」の実況でもよく知られる平泳ぎの前畑秀子さんが獲得した金メダルに日本中が歓喜し、世界中が日本の競泳陣の強さに驚いた。河野さんたち水泳選手たちは、いざ4年後の東京でもメダルを、と大いに胸をときめかせたのだという。

「練習は厳しかったですね。朝から昼まで。夕方は4時からまた始まって、夜中も泳いでいました」

しかし、日中戦争が次第に激しさを増すと雲行きが怪しくなってきた。そして1938年7月には、国力を日中戦争に集中したい軍部の意向で開催の返上が決定したのだ。

「はっきり選手に『もうオリンピックはないんだ』と教えてくれなかった。やっぱりショックを受けましたねえ。なさそうだと、ダメになったそうだと」

さらに、河野さんたちは否応なく変わりゆく現実に直面することになる。

「大会中の明治神宮のプールなどで、出場している選手に『召集令状が来ましたよ』とアナウンスをするんですよ。そうすると、みんな立ち上がって拍手して選手を送り出していた。試合中に召集令状が来るんですから」

1940年の東京オリンピック出場候補だった選手たちは、その後次々と戦争に駆り出され、その多くが命を落とした。河野さんにとって4年ごとに訪れる祭典は、叶えることのできなかった夢を想い、無事の開催を歓び、若くして戦地に散っていったライバルたちに思いを馳せる夏となった。

平和の祭典を謳いながら、時々の国際政治の影響を大きく受けてきたオリンピックだが、それでも大陸を越えて、国、民族、宗教など異なる背景をもつアスリートたちが一同に会してその実力を競い、勝者を称え、互いにリスペクトをする多様性は変わらない。商業化やドーピングなど様々な問題が指摘されるオリンピックではあるが、その多様性こそが生むドラマに人々は歓喜するのである。

生物学者の福岡伸一氏によると「生物学的には、長い進化の過程で残ってきたのは強い種ではなく、多様性を認めた種である」という。それは人間こそが過ちを繰り返しながらも体現してきたことなのだということを、今年もオリンピック・パラリンピックを通して思いおこす終戦記念日にしたいと思う。