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波照間島の知られざる「戦争マラリア」の悲劇。沖縄戦で島民絶滅の危機に

2014年08月21日 00時09分 JST | 更新 2014年10月20日 18時12分 JST
Youjiro Oda via Getty Images

日本最南端の有人島である波照間島。透き通るように美しい海に囲まれた島に、こんなにも悲しい歴史があったことを知る人は、実は沖縄本島の方にも少ないそうです。太平洋戦争末期、沖縄で地上戦がはじまった時期に、アメリカ軍から直接攻撃を受けていないのにもかかわらず、島民絶滅の危機に陥ったのが波照間島の住民でした。「戦争マラリア」と呼ばれるこの悲劇について「報道ステーションSUNDAY」は取材しました。

戦況が厳しさを増していた1944年。軍隊のいなかった波照間島に、「青年学校の教師」という一人の男がやってきました。山下虎雄と名乗るこの男性を島の人たちは何の疑いも持たず、歓迎したといいます。当時、学校の用務員をしていた西里スミさん(86)は今もこの男性のことを忘れることができません。

「人柄はよかった。体格も大きくて、本土の人は大きいんだなあと。(本当の素性は)全然わからなかった」

実はこの男性は、陸軍中野学校の卒業生だったのです。陸軍中野学校とは戦時中にスパイを養成するために作られた教育機関。2000人あまりが卒業したとされていますが、その存在も活動もすべて極秘とされ、関係資料も終戦直前に焼却されたと言われていました。

しかし2012年のこと、一期生に関する「卒業報告書」が発見され、秘密のベールに包まれた教育訓練の一部が明らかになったのです。兵器や諸外国の事情などを学ぶ「軍事学」からはじまり、英語、ロシア語、中国語は必須、剣術、柔術、防諜技術、細菌学や爆破実習まで1290にも及ぶ単位のカリキュラムを習得するエリート・スパイ養成校です。

この中野学校卒業生が、アメリカ軍の上陸が予想される沖縄に集中的に配置されました。山下虎雄もその一人であり、本名ではなく偽名でした。最初こそ物腰穏やかで、子供たちにも親切だったという山下が、その正体を現したのは沖縄戦が始まったときのことです。突如、平服から軍服姿になった山下は、島民を集めると「日本軍の命令だ!」と、島民を波照間島から西表島に強制移住するように指示を出しました。

しかし、西表は当時、マラリアの発生地域として恐れられていた島だったのです。

「(西表に行きたくないと)自分に反対する人がいれば刀を抜いた。脅かして......怖いでしょう。だから、みんなが移住に賛成した。仕方ない。行くしかないと」(西里さん)

山下は、アメリカ軍に奪われてはならないと、波照間島の牛、馬、豚、畑に至るまで、すべて処分するよう指示をしました。

追われるように西表島に移住した島民に、山下は恐怖の統治を始めたといいます。当時8歳だった冨底利雄さん(78)は、山下の命令をうけた教員によって兄を殴り殺されました。

「ハエを竹の筒に満タンにしろ、何月何日までにハエを殺して中に詰めてきなさいと命令があった。兄の竹筒の中には、少ししかハエが詰めてなかった。兵隊の長い靴で蹴られて、内出血して、血を吐いて、浜で波照間に向かって血を吐いて死んでいた」

恐怖の中、ジャングル生活で、食事も底をつき、川の水を飲み、料理に使う生活。

「その川の周辺がマラリア地帯だったんです」(冨底さん)

島民たちからマラリアの感染者が出るのに時間はかかりませんでした。

「水をかけると額から湯気が出る。蒸気がわーっと出る。体ががたがた震える。髪の毛がみるみるうちに抜けていく。全部抜けるの。一本も残らず抜けていく」(冨底さん)

この強制移住について、当時の八重山民政府知事が軍の以来を受けて提出した極秘文書があります。マラリアの分布図で、「有病地」と「無病地」に色分けされたものでした。それを見ると、西表島は「有病地」の赤色に塗られています。日本軍は、当初から西表がマラリア地域であることを認識していたと思われます。

さらに、アメリカ軍に奪われるとして処分された波照間の家畜は、その後日本が駐屯する石垣島へと運ばれていきました。真実は闇のままで明らかになっていませんが、日本軍の食糧調達のため、波照間の島民を移住させたのではという疑問も指摘されています。

1945年6月。壮絶な地上戦ののち、沖縄戦が事実上の終結を迎えると、その翌月島民たちは、ようやく故郷の波照間島に戻ることができました。しかし、5か月ぶりに戻った波照間に家畜はなく、畑も荒れ放題、島民にはソテツを食べて飢えをしのぐ地獄のような日々が待っていたのです。弱った島民の体にマラリアの猛威が襲いかかりました。移住先で兄を撲殺された冨底さんの家族も次々と亡くなりました。

「父が最初に死んで、墓に入れて、翌日はまた兄が死んで墓に入らないから埋めた。母もまた担いで、別のお墓に入れて。毎日遺体を担いでいた」

結果的に波照間島の住民1590人のうち、1587人がマラリアに感染し、477人が死亡。実に島民の3割の命が失われました。島民の方は言います。「私たちは沖縄戦の捨て石にされた」と。こうした過去の体験は、沖縄の方たちの国に対する強い不信につながっているように感じます。

現在も地元の理解を得ない中、辺野古の海のボーリング調査が強行されています。国として安全保障の議論はもちろん大切ですが、縦軸にある歴史的経緯で積み重なってきた住民の思いにも真摯に向き合い、対話を続ける姿勢が政府には必要だと思います。