ハンセン病療養所と「赤ちゃんポスト」

一九四八年には一二一人の患者を収容した待労院だが、入院者数は徐々に減ってゆく。九六年にはハンセン病の診断を受けた患者に隔離を義務づけて来た「ハンセン病予防法」が廃止され、元患者が施設内に留まる必要は法的にはなくなった。それでも待労院に留まることを希望する入所者が残っていたが、2012年、最後の入所者が同じ熊本県の国立療養所菊池恵楓園に転園、今春に閉所となった。

産経新聞大阪版「複眼鏡」に書いた記事の元原稿です。2013年夏休みの収穫。

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夏休みが少しだけ取れたので、熊本に出かけた。ぜひ見ておきたものがあったのだ。

待労院という私立のハンセン病療養所が熊本にあった。歴史は古く、一八九六年に熊本を訪れたカトリック司祭ジャン・マリー・コールが、加藤清正を祀る本妙寺の境内に発病によって故郷に住めなくなったハンセン病者が集まっているのを見て、その保護収容のために作った施療院がルーツである。やがてコールは「マリアの宣教者フランシスコ修道会」に支援を依頼、派遣された五人のシスターの力を得て

一九〇一年にハンセン病病院を開設し、待労院と名づけた。

一九四八年には一二一人の患者を収容した待労院だが、入院者数は徐々に減ってゆく。九六年にはハンセン病の診断を受けた患者に隔離を義務づけて来た「ハンセン病予防法」が廃止され、元患者が施設内に留まる必要は法的にはなくなった。それでも待労院に留まることを希望する入所者が残っていたが、2012年、最後の入所者が同じ熊本県の国立療養所菊池恵楓園に転園、今春に閉所となった。

ハンセン病隔離医療史を調べた『隔離という病い』を刊行したことがある筆者は、待労院の歴史を展示する史料室が元礼拝堂に作られたと聞き、ぜひ訪ねてみたいと思っていた。

その念願が夏休みに叶った。ところが空港からレンタカーで走っていて少し道に迷ったおかげで一つの「発見」をした。待労院に隣接している慈恵病院脇を通った時に「こうのとりのゆりかご」の案内表示を見かけたのだ。

「こうのとりのゆりかご」は「赤ちゃんポスト」の通称でむしろ広く知られる。望まれない新生児が遺棄されて亡くなるのを防ぐべく病院が保護するための受け入れ設備だ。窓口内部に保育器を設置、新生児が入れられると医療従事者が駆けつける。新生児は医師によって健康状態が確認されたあと、児童相談所の指示を受けて県内の乳児院に移される。

07年から運用を開始した「こうのとりのゆりかご」には批判もあり、むしろ捨て子を助長し、無責任な親を増やすのではないかとも言われた。確かにその種の弊害もあるのかもしれない。しかしいつかそうした問題も改善されてゆくのではないかーー。そう考えるに至ったのは今回の訪問旅行の結果である。

待労院を運営していた修道会は日本に社会福祉法人「聖母会」を設立。多くの病院や養護施設の運営に携わるが、そのきっかけは乳飲み子を抱いて瀕死状態にあったハンセン病患者の母親を一八九九年に待労院が受け入れたことだったという。母親は亡くなったが、その遺児の保護・養育から始まって待労院は児童養護施設を併設するようになる。そして慈恵病院も待労院と同じ施療所をルーツとして枝分かれした来歴を有する医療施設であった。

待労院のようなハンセン病療養所と「赤ちゃんポスト」は全く別の文脈で議論されて来た。自戒を込めて書くが筆者も例外ではなかった。しかし現地を訪ねて両者が物理的に隣接していることを知り、改めて歴史を調べてそれらが同じ根を持つ実践のかたちだったことも知る。「こうのとりのゆりかご」は思いつきで作られたものではなく、長い救済の伝統がその背景にあるのだ。

確かに荒井英子『ハンセン病とキリスト教』(岩波書店)で指摘されているように、キリスト教に基づく救済活動が、たとえばハンセン病者の保護に終始し、国家による強制隔離政策の誤りを批判し、改革に向けて働きかける社会的活動に踏み出さなかった歴史を検証する必要はあるだろう。

しかし、社会的活動という点に関しては、慈恵病院が「こうのとりのゆりかご」を作る一方で出産や子育てに悩む親の相談を受ける体制を充実させて来たことに注目したい。その相談件数は増え、逆に昨年度はポストの利用者数が減ったことはおそらく無関係ではないだろう。また今回の熊本訪問時に、別の私立病院だが、医療機関として初めて特別養子縁組のあっせん事業を始めたというニュースにも触れた。

熊本では生命を救おうとしてきた長い歴史が様々に育ち、社会的活動にも繋がりつつある印象を持った。もちろん問題もまだまだあろう。しかし生命と真摯に向きあう姿勢の先にきっとそれが解決に向かう日が来る、そんな希望を感じた夏の旅行だった。

(この記事は2013年10月1日の「武田徹@JOURNALISM.JP」から転載しました)

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