現代人の生活は、子どもの成長が体感しづらい

子どもと接点を持つ時間が少なくなれば、子どもを手ずから育てている実感も、子どもに自らが育てられているという実感も、どうしたって薄れざるを得ない。

以前勤めていた病院で、こんなことがあった。

40代のラテン系の外国人女性が3歳ぐらいの子どもを連れて来院していた。高齢出産かと思い「かわいいお子さんですね」と伝えたら「いいえ、これは初孫なんです」と言われて私は驚いた。どうしてその年齢で孫がいるのか!?慌ててカルテを確認すると、彼女の年齢は45歳。衝撃を受けた私はいろいろな話を伺った。

子ども時代はきょうだいと遊び。

カレッジを出て間もなく結婚して3人の実子を育て。

そして今は、孫の面倒をみている。

彼女の人生の歴史年表をつくったら、その過半は「子どもと過ごした時間」で占められ、「子どもと縁がない時間」は高等教育履修~結婚までの短期間だけになるだろう。きょうだい~子~孫と三代にわたって子どもを相手取った彼女の人生は、つねに子どもの成長を目の当りにするものだった。

いっぽう、現代日本人の典型的なライフコースはどうだろうか。

きょうだいの数は少なくなり。

結婚/出産は遅いイベントとなり。

孫が生まれるのはほとんど六十代以降になった。

モデルケースとして、1980年代生まれの日本女性が三十歳で結婚し、初産する例を考えてみよう。この場合、彼女の母親が3歳の孫を抱いて面倒をみるのは六十代を超える可能性が高い。初産の年齢次第では、七十代に差し掛かる可能性すらある。彼女の母親が子どもと接点を持てる時間は飛び飛びで、人生の半分以下とならざるを得ない。

日本人の世代再生産のサイクルが延長したことで、女性といえども人生の過半は「子どもと接点の乏しい時間」で占められるようになった。このような社会では「子育てなんて人生のほんの短い期間」という物言いが一定の説得力を帯びることになるだろう。

くわえて、地縁や血縁が希薄化し、隔絶核家族の割合が高まったことで、親族の子どもや隣近所の子どもにコミットする機会も大幅に減少した。「近所のおばちゃん」として「他所のお子さん」と接点を持ち続ける機会は、高層マンションや郊外のニュータウンではどうしたって少なくなる。だから「子どもと過ごす時間」、ましてや「子どもの成長を実体験する機会」はさらに目減りせざるを得ない。

くだんのラテン系女性の故郷では、まだまだ地縁や血縁が根強く残っているそうで、子どもと接点皆無な生活・子どもの姿が視えない生活は考えにくいという。しかし今日の日本、とりわけ都市や郊外の生活には、そうした地縁や血縁をかたちづくる風習も価値観もない。だから女性の生活相のうち、子どもと一緒に過ごし子どもの成長を体感するチャンスは、自分自身が親となり実子を育てる"ほんの二十年かそこら"に限定されるし、もし次があるとしたら......孫が産まれた場合に限られる。

男性はもっと"子どもから隔離"されている

現代の日本男性の場合、こうした図式は一層顕著になる。

昨今、男性の子育て支援の話が出ているが、"イクメン"として脚光を浴びやすいのは乳児期の子どもの世話だ。子どもを幼稚園や保育園に預けるようになった後、父親が「子どもの成長を体感する時間」をどれだけ持てるのかについてはそこまで注目が集まっていない。父親が出生直後から子どもに接し、母親をサポートするのはもちろん良いことだが、今日の"イクメン"談義は母親の子育てサポートの視点に偏っている、と私は思う。

そうではなく、父親として「子どもの成長を体感する時間」を大切にすること――そしてそのような選択肢を採りやすく社会が計らうこと――こそが、父親の役割を再認識するうえでも、父親が身に付けている諸スキルを子どもに分け与えるうえでも重要だと思うのだが。残念ながら、そのような視点で父親の子育てについて語る人は少ない。

ちょっと古いデータだが、独立行政法人国立女性教育会館による調査(2006)によれば、日本は諸外国に比べて父親が平日に子どもと過ごす時間が短いという(図)。

※図は平成19年国民生活白書からの引用。日本と韓国の父親は、特に子どもとの接点が少ない。

私は、父親を単なる母親の"サポーター"と考えるのは不適当で、母親には与えられないエッセンスを子どもに分け与える役割を無視してはならないと思っている。その旬の時期は"イクメン"として注目されがちな乳児期ではなく、子どもが家庭外を知りはじめ、社会化が進行していくエディプス期前後~学齢期ぐらいだろう*1。だというのに、乳児期に"イクメンを終えてしまった"男達は、肝心要の幼児期~学童期にはそれほど子どもに接しない(というより接することができない)のである。

結果として、高度経済成長期の日本男性ほどではないにせよ、平成の日本男性の多くもまた「子どもの成長を体感する時間」が乏しいまま年を取らざるを得ない。仕事に追われ、母親に子育てを任せきっている場合は特にそうだ。町内行事や地域行事で子どもと接する機会をもたない独身男性の場合は、「子どもと接点を持つ時間」はほとんどゼロになってしまう。

子どもと接点を持つ時間が少なくなれば、子どもを手ずから育てている実感も、子どもに自らが育てられているという実感も、どうしたって薄れざるを得ない。だが、そうした親子の接点の希薄化が問題視され、論議されることはほとんどない。とりわけ父親が――いや男性全般が――子どもの成長にコミットする値打ちが、低く見積もられている。

父親が子育てにコミットする時間が少なくなれば、子どもが父親に親しみ、父親から教わるチャンスが減ってしまうだけでなく、父親が子どもに親しみ、子どもから学び成長するチャンスまでもが減じてしまう。そうした状況が一般化した結果として、世にいう『父親不在の社会』が生み出されたわけだが、その弊害が子どもだけに及んでいると考えるのは、私は間違いだと思う。父親、そして男性全般が、子どもから学び、子どもに親しみ、世代再生産の輪から疎外されてしまった弊害も、相当なものではないだろうか。

「成人が子どもに育てられる機会の乏しい社会」

少子高齢化の折、子育てが盛んに議論されるようになった。もちろん良いことだと思う。

しかし、現代日本人の典型的なライフスタイルを振り返ってみれば、そもそも、大人と子どもが時間や空間を共有しなくなってしまったのである。若者は若者同士で集い、老人は老人同士で集い、子どもは然るべき施設で行儀良く過ごす――それが現代社会の"常識"である。そして子育てに忙殺された母親を除く大半が、子どもの成長を体感することのないまま毎日を過ごすのも"常識"である。

これらの"常識"に埋もれ、子どもの成長を体感する機会を剥奪された私達。その私達に、はたして「子どもが育ちやすい社会」なるものが上手く想像できるものだろうか?そして年少者を育てること・年少者の成長を見届けることによって獲得できるようなエッセンスを、現代の成人男女はどこでどのようにして補えば良いのだろうか?

冒頭のラテン系女性のような人生を歩む人は、今日の日本社会では少ない。彼女のような人生・彼女の育った環境を理想だと強弁するつもりはない。それでも、成人が子どもの成長を体感しにくい社会とは、年長者が年少者によって育てられるチャンスの少ない社会でもあり、子どもの成長によって自らのエイジングを省みる機会の乏しい社会でもある点は、忘れてはならない。

本当は「子育て」だけを問題として論じるのは片手落ちで、「子どもの成長から学ぶ成人自身の成長機会や学習機会」がセットで論じられなければならないのではないか。

(2015年10月14日「シロクマの屑籠」より転載)