ゲーセンという「場」を思い出しながら、SNSという「場」に思いを馳せる

今も昔も、人は、コミュニケーションのために「場」を利用して、その「場」から影響を受けながら生きている。

リンク先は、「スマホが無かった頃の待ち合わせ」についてのものだ。

これを観て、ふと、スマホが無かった頃の思い出話やらなにやらを書きたくなったので書いてみる。

スマホが無かった頃も、「待ち合わせ」は時々やっていた。学校で約束するか、家電話で連絡を取り合って、何時にどこそこに集まろう、といった風にである。小学校時代から大学生時代まで、私は待ち合わせの保険としての携帯電話を使えなかった。

私もそれなりオタクだったので、携帯電話を使うようになったのはパソコン通信を使うよりも後だった。だから、「オフ会への待ち合わせが携帯電話無し」という経験もあった。オフ会のメンバーが携帯電話を持っていなかったために連絡がつかず、やむなく彼を置いて場所移動......といったことも経験した。そんな調子でも世の中は回っていた。

ただ、自分自身の子ども時代や大学生時代を思い出すと、そもそも、待ち合わせという行為自体が少なかったように思う。特に、通信手段を使って約束をとりつけて、それから人に会うことは少なかった。

子どもの頃、みんなで遊ぶ際に重要だったのは、「人」よりも「場」だった。

広場や公園に行って、そこにいる面子と、その時にできる遊びをやる。ちょっと年上でも、ちょっと年下でも、それはそれで、遊び方を考えて遊んだ。私が子どもだった頃は、年上と年下が適当に出会って遊ぶことは全く珍しく無かった。

誰にも出会えない日もあったし、逆に、あまりにもみんなが集まり過ぎて、収集がつかないほどの集団でケードロや鬼ごっこをやる日もあった。友達の家に直接出向いて、友達がいれば遊ぶし、いなければ仕方がないと思って諦めることも多かった。目的意識が無かったとも言えるし、おおらかだったとも言える。

大学生になってゲーム狂いがいよいよ高まり、サボれる限り授業をサボってゲーセンに通うようになると、いよいよ「場」が重要になった。そう、私はゲーセンの住人になったのである。

朝、どうしてもサボれない医学実習が早めに終わると、私は残りの授業のことはすっかり忘れて真っ直ぐにゲーセンに向かい、本当の一日が始まった。

開店直後のゲーセンにも、仲間がいないとは限らない。授業よりもゲームのほうが大事な廃学生は他にもいた。朝から格ゲーをやったり、シューティングゲームの攻略談義に花を咲かせた。

昼が過ぎ、夕方が近づいてくると、少し真面目な大学生や高校生が集まって来た。歳の差があってもゲームが上手けりゃみんな友達。いや、友達とはいわなくても、好敵手たりえるのは良いことだった。

『ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ』のような、4人プレイが出来るゲームになると、ゲーセンの常連全員が交代に遊びまくった。当時はもう、「ゲーセンは不良のたまり場」的な空気はほとんど無くなっていたし、ゲーセンに通い詰めているメンバーは顔が知れているせいか、トラブルに巻き込まれることもなかった。カツアゲをする連中が目をつけていたのは、ゲーセンに滅多に来ないような人々だ。ゲーセンの住人になってしまえば何の問題も無い。

かつて、ゲーセン専門誌『アルカディア』が、面白いアンケートを出していたことがある。

携帯電話普及期に、購読者に対して「あなたは携帯電話を使っていますか」というアンケートを行ったものだ。アンケートの結果は、「『アルカディア』を購読するようなゲームオタクは、同世代の一般人口に比べて携帯電話の保有率がかなり低い」というものだった。

当時の私は、このことを「ゲームオタクの、コミュニケーションの意志と能力の欠如」と解釈していたが、それは一面的な解釈だったと思う。なぜなら、ゲーセンという「場」に集う趣味生活をしている限り、携帯電話が無くても困らなかったからだ。

「人」と「人」を繋ぐツールが無くても、ゲーセンという「場」に行けば誰かがいて、それでコミュニケーションは成立したのだから。

「場」から「人」へ。そして再び「場」へ。

それから携帯電話の時代が来た。

90年代末~00年代前半にかけて、携帯電話が爆発的に普及して、誰かと待ち合わせる際の必須アイテムになった。電話とメールは、人と人とを繋ぐ強力な通信手段だ。「場」に頼るまでもなく、誰かと連絡を取ることも、決まった時間に決まった場所で待ち合わせることもできる。

携帯電話の登場によって、たぶん、世の中のありとあらゆる「場」の持つ力は(少しずつ)弱くなったのだと思う。少なくとも、そこに行けば誰かに会える、というタイプの「場」に関してはそうではなかったか。

なぜなら、わざわざ「場」に赴かなくても、誰かとコミュニケーションできるからだ。「場」には、そこに行けば誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないという期待が帯電する。けれども、もっと確実にコミュニケーションできる手段が普及してしまえば、「場」に赴かなければならない必然性は下がる。とりあえず「場」に出かける・ブラブラと「場」に出かけることが減って、「場」に出かけるとしても、より目的意識を持って出かけるようになる。

私も、携帯電話を持ってからは、ゲーセンに行く前に電話やメールで連絡することが増えた。そうでなければ、一人でゲーセンで遊ぶと腹を決めるようになった。私にとってのゲーセンは、ブラブラと出かける「場」から、もっと目的意識をはっきりさせて出かける「場」へと変わっていった。

じゃあ、携帯電話が「場」を損ねるだけのものだったかというと、そうではなかった。

ゲーセンのような「場」が力を失ったかわりに、SNSという、大きくて不定形な「場」ができあがった。誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないという期待は、SNSという、オンラインの「場」に帯電するようになった。

いまどきの人は、誰かの会うのを期待して公園やゲーセンをブラブラしたりはしない。そのかわり、隙間時間にSNSをブラブラと眺めて、誰かに会えるかもしれない・コミュニケーションできるかもしれないと期待するようになった。それか、タイムラインの誰かが面白い出来事を運んできてくれやしないかと期待するようになった。

SNSだけがオンラインの「場」を形成したわけではなく、その前には、掲示板やメーリングリストやブログといった「場」もあったけれども、普及率や即応性や完成度からいって、SNSの普及をもってオンラインの「場」がオフラインの「場」を包み尽くす段階に到達した、と言ってしまっていいように私は思う。

私達は今、SNSをはじめとするオンラインの「場」を24時間365日シェアしあって、そこでコミュニケーションをして、体験をも共有するようになった。もちろん、オフラインの「場」も健在ではあるけれども、オフラインの「場」は、SNSでのフォロー/被フォローやシェアやリツイートといった共有のまなざしによって、いつもオンラインの「場」に包含されるようになった。

少なくとも、オンラインの「場」に包含されたオフラインの「場」というのは間違いなくあって、たとえば「インスタ映え」を巡るユーザーの言動などは、オンラインの「場」がオフラインの「場」に覆いかぶさるさまを教えてくれる。「インスタ映え」のためにオフラインでの行動が左右される人は、オンラインの「場」をオフラインの「場」と同等か、それ以上に優先させているからそうするのだろう――オフラインの「場」のほうがオンラインの「場」より大切なら、「インスタ映え」のために時間や注意を割くより、目の前のリアルに時間や注意を割いてしかるべきだからだ。

こういう、オンラインの「場」の優越というか、重要性の上昇というかは、先日の『シン・ゴジラ』TV初放送の時のtwitterにも当てはまることで、あの夜、twitterに群れていた人々は、twitterという「場」に集まって、みんなで『シン・ゴジラ』鑑賞していたわけだ。いや、人によっては映画鑑賞そのものが目当てだったのでなく、コミュニケーションや共犯意識こそが重要だったのかもしれない。

同じことは、往年の『天空の城ラピュタ』の「バルス!」にも言えるし、『君の名は。』がSNSを介して飛び火のように広がっていった体験にも言える。人気のソーシャルゲームと、その体験についても言えるだろう。いまどきの人気コンテンツは、SNSという「場」に集まって楽しまれるのが当然になっていて、そのシェアの規模が大きいほど、そのコンテンツは更なる人気を獲得する。

SNSという「場」、あるいはメディアがあまりにも大きく、あまりにも繋がり過ぎるものだから、オンラインの「場」がオフラインの「場」やコンテンツや個人に与える影響が、無視できなくなってしまった。

いまどきは、自分一人だけでコンテンツと向き合おうと思ったら、意図的にSNSを遠ざけなければならない。それでさえ、意図的にSNSを遠ざけるという行為じたいが、既にSNSの影響を受けているという逆説からは逃れらない。そうこうしているうちに、SNSという「場」に引っ張られて映画館に足を運んでいたり、ナイトプールで写真を撮っていたりする。

今も昔も、人は、コミュニケーションのために「場」を利用して、その「場」から影響を受けながら生きている。そういう意味では、SNS以前と以後に根本的な違いは無くて、人はコミュニケーションや社会的欲求のために集って影響を与え合うものなのだろう。

ただ、ゲーセンなどの「場」に若者が集まっていた時代と、SNSで常時「場」ができあがって老若男女が集まっている時代では、影響の受け方も、コミュニケーションの形式も、コミュニケーションの速度も、いろいろ違ってきているとは思う。おそらく、人格形成や価値観も違ってきているだろう。そのあたりについて、まだまだ書きたいことはあるけれども、そろそろ時間切れなので、今日はこのへんで。

(2017年11月14日「シロクマの屑籠」より転載)

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