「年の取り方がわからなくなった社会」と「コミュニケーション能力」

私がインターネットを触り始めたぐらいの時分から、以下のような発言をよく見聞きしました。「三十歳になってみたけど、思ったよりも子どもっぽかった」「実際に大人になってみたら、子どもと大して変わらなかった」こうした発言をみるたび、当時の私は強い違和感を覚えたものです。

私がインターネットを触り始めたぐらいの時分から、以下のような発言をよく見聞きしました。

「三十歳になってみたけど、思ったよりも子どもっぽかった」

「実際に大人になってみたら、子どもと大して変わらなかった」

こうした発言をみるたび、当時の私は強い違和感を覚えたものです。

「それって、三十歳が子どもっぽいんじゃなくて、あなたが子どもっぽいんじゃないんですか?」

「子どもと大して変わらない境地に居直っているんじゃないんですか?」

そう言いたくなるのをこらえながら、「自分はどうやって年齢相応の大人を目指せば良いのか」「いつかおじさんやおじいさんになった時にどのように身を処し、社会のなかでどのような態度をとるべきか」あれこれ考えたものです。

それから十数年。現代社会において、年相応に成熟すること・大人になっていくことは、もはや自明でも自然でもなくなりました。その事に気づいた私は、自分の意志でエイジングの針を進めていくしかない、と考えるようになりました。ライフスタイルが自由化され、年齢不相応な振る舞いをしていても誰も注意してくれない時代になった以上、ある程度自覚的に「大人をやる」「年長者の立場を引き受ける」こと無しには、いつまでもズルズルと子ども気分・青年気分を引きずりやすく、年齢不詳の人間になってしまいやすいでしょうから。

ところが、そうしたリ危険は世間ではほとんど意識されておらず、巷には、若い頃のライフスタイルにしがみつき、そんな自分を自己正当化するのに必死な人達がひしめています。

「現代人は、年の取り方がわからなくなってしまっているんじゃないか?」

このたび、そうした積年の考察をまとめた『「若作りうつ」社会』という書籍を出版しました。どうして現代人は年の取り方がわからなくなってしまったのか?年齢不相応なエイジングがどんなメンタルヘルス上のリスクを招きよせるのか?そうした問題点を踏まえ、年の取り方について考えて頂く材料をギッシリ詰め込めたと自分では思っています。

とはいえ、新書サイズに何もかも詰め込むわけにもいかず、泣く泣く削らざるを得ないパートもありました。「年齢不詳のエイジング」と「コミュニケーション能力」の問題もそのひとつです。

拙著のなかでも触れましたが、21世紀の日本において、年齢相応の自覚を持ち、年の取り方を円滑に進めていく際のキーポイントは、世代間コミュニケーションです。年の取り方が個人の自由に委ねられた今日、世代間コミュニケーションは、自分自身が社会という名の数直線のなかでどのあたりに位置づけられ、年上/年下に対してどのように振る舞うべきなのかを考える際の貴重な機会となるものです。そのような機会があればこそ、人は年長世代から未来を学ぶこともできますし、年少世代を育てる過程のなかで学び、自分自身をさらに育てることもできます。

ところが、現代社会ではコミュニケーションが自己選択=自己責任になり、そうした世代間コミュニケーションは与件ではなくなってしまいました。昔の地域共同体や企業共同体では、否応なくコミュニケーションが強制され、それはそれで大きな軋轢を生みだしてもいたのですが、そうした強制的なコミュニケーションがゴッソリ消滅した結果、異なる世代とコミュニケーションしないまま齢を重ねていく人が珍しくなくなりました。世代間コミュニケーションを欠いた人達は、そのことになんら疑問を持つこともないまま、三十歳、四十歳と年を取り続けていきます。

こうした世代間コミュニケーションを【する/しない】が純粋に個人の自由な選択に委ねられているなら、まあいいのです。自分自身のエイジングを大切にしたい人は世代間コミュニケーションを重視し、そうでない人はコミュニケーションしなければ良いだけの話です。

問題は、世代間コミュニケーションを【する/しない】が、実際には自由選択ではなく、往々にして個人のコミュニケーション能力によって決定づけられていることです。

現代社会において、人間関係は個人の自由に委ねられ、と同時に自己責任なものになりました。誰と付き合い、誰と付き合わないのかが自由選択になった結果、私達は付き合う相手を選り好みします。「付き合いたいやつと付き合い、付き合いたくないやつとは付き合わない」----コミュニケーションが自由選択になったというのは、つまりそういうことです。

結果として、コミュニケーションの不得手な人・あまり他人から好かれにくい人は、世代間コミュニケーションからも弾かれやすく、ひいては自分自身の心理・社会的な加齢を進めていくための経験に事欠くようになりました。例えば、かける言葉を知らない人、気難しい表情しかできない人は、内心では子どもと接点を持ちたいと思っても、そのような世代間コミュニケーションを継続させるための縁が得られません。町内会的な顔見知り関係があるなら、まだ救いがありますが、そうした関係性を欠いた高層マンション的・新興住宅地的な居住環境に住んでいる場合は、世代間コミュニケーションを維持するための甲斐性・縁・コミュニケーション能力がなければどうにもなりません。

近年は、成人が子どもに声をかけて警察に通報されるようなトラブルが増えました。「知らないおじさんに声をかけられたら人攫いと思え」とは昔から言われてきたことですが、地域や町内会が存在する環境下でのソレと、地域や町内会が存在しない環境下でのソレは意味が異なります。もちろん、子どものセキュリティを考えれば仕方の無いことですが、この一件は、生活空間のなかに世代間コミュニケーションを生み出すための社会装置が欠けていることを示唆しています。いざ、親族以外の年長者/年少者と顔見知りになろうと思っても、そう簡単にはいかなったのです。

あるいは年下の部下や年上の先輩と縁を持とうと思っても、今時は、コミュニケーション能力がなければ縁が持続しません。何事につけ、コミュニケーションが人間と人間とを結びつける鎹となっている以上、コミュニケーション能力に事欠く個人は、望む望まないにかかわらず、自動的にコミュニケーションから弾かれてしまいます。

こうした状況のあおりは、既に団塊世代の男性----とりわけ、対外的なコミュニケーションの機会をもたないまま過ごしている退職男性達----に顕れはじめているように思います。現役時代の"偉かった自分自身"をなんとなく引きずり、けれども異なる世代との接点を持つことなく、世代感覚の無重力状態を浮遊している人は今どきは珍しくありません。それでも、彼の世代は結婚して子どもをもうけている比率が大きく、職場で年上/年下とコミュニケートする機会も多かった世代ですから、世代間コミュニケーションを全く経験していない人は(割合として)少ないほうだとは思います。

この問題が本当に深刻になり得るのは、自由なコミュニケーション状況下で育ち、世代間コミュニケーションが欠乏したまま年を取った人々が五十代、六十代を迎えた時でしょう。共同体的な世代間コミュニケーションを欠いた居住環境で生まれ育ち、成人後の世代間コミュニケーションの経験差が極端に大きい世代が年を取っていった時、彼らは年齢相応のエイジングを達成できるのでしょうか?

コミュニケーション能力に恵まれた個人が、自己選択の積み重ねの結果として、年の取り方がわからなくなるのは自己責任と言えなくもありません。が、コミュニケーションが不得手な個人が、強いられた結果として世代間コミュニケーションの欠けたまま歳月を積み重ね、年の取り方がわからなくなってしまうのは、気の毒で理不尽のように私には思えます。ですが、コミュニケーションが自由化し、街で世代間コミュニケーションが自然発生しにくい状況下では、こうした問題は必発であり、もうちょっと何とかしていかないと、年齢不詳な壮年、年齢不詳な老年が、今以上に大量発生してしまうのではないかと思うのです。

年の取り方がわからなくなった社会のなかで、それでも個人が円熟したエイジングを達成するための方法論は、概ね『「若作りうつ」社会』で書いたとおりだと私は思っています。ですが、エイジングの可否がコミュニケーション能力によって大きく左右され、コミュニケーションしにくい人のエイジングが停滞してしまいやすい社会状況をどうすれば良いのかは、まだ私にもわかりかねています。

コミュニケーション能力にかかわりなく、誰もが円熟したエイジングを達成できる社会とは、どういうものでしょうか?この問題、たくさんの人に考えて頂きたいものです。

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