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「コミュニケーションできなければならない」という規範意識

2014年03月12日 19時39分 JST | 更新 2014年05月12日 18時12分 JST

絶望感がすごい

 

リンク先の文章は、今日の社会ではありがちな悩みだと思う。人間関係や社会的加齢が自己責任になった以上、「年相応に年を取っていくためにどうするのか」「誰と一緒に人生を歩んでいくのか」といった問題は、すべて自分で判断し、舵取りしなければならない。昔は、そうした判断や舵取りが「世間」「イエ」「身分」によってある程度決められていたから、そういった制約を嫌う人からみれば、自由に惑うなど贅沢な悩みで、「自分で考え自分で決めろ、この社会を喜べ」と説教したくなるかもしれない。

 

それにしても、リンク先の筆者を見ていて気の毒に思うのは、この書き手が「コミュニケーションできなければならない」「コミュニティの人間に好かれる人間でなければならない」といった固定観念めいたものを抱えていそうなこと・その通りには振舞えない自分自身に対して劣等感や罪悪感を抱いていそうなこと、だ。

 

この人は、自分の容姿を「キモヲタでブサメンでピザでハゲでワープアでヘタレ」と表現している。自分のコミュニケーション能力を低く評価しているのだろう。そして「年齢相応」に拘るというのも、わからなくもない。十代前半と同じようには振舞えないのも事実だろうから。

 

しかし、それら諸々を差し引いても、このコミュニケーションに対する強迫観念はどうだ!この人の文章からは、

 

「コミュニケーションするなら、成功しなければならない」

「コミュニケーションで迷惑をかけるのはいけないことである」

という、割とキツい規範意識がみてとれる。

 

コミュニケーションなんて、上手な人でも良い事ずくめとはいかないし、迷惑をかけるったってお互い様なのだから、規範意識をこんなにタイトに抱いていても上手くいくわけではない。むしろ、失敗確率は増えるだろう。ちょっとアバウトなぐらいのほうが上手くいくであろうコミュニケーションを、ここまで硬くとらえてしまっていては難しい。それと、この人は、

「コミュニケーションできない人間は罪深い人間である」

的な、

 

罪責感すら抱えているようにみえる。世の中には、コミュニケーションが下手で、周りに凄まじい迷惑を撒き散らしていても全く罪責感や劣等感に悩まない人もいる*1。そういう人達に比べると、リンク先の増田はびっくりするほど自分自身を責めている。同程度のコミュニケーション能力でも、罪責感の有無は、その人のメンタルヘルスの内実に大きな違いをもたらすだろう。

■彼には自分自身が背教者にみえるだろう

罪責感があるということは、リンク先の筆者は無意識のうちに「コミュニケーション能力があることは良いことだ」「誰とでも仲良くできること、誰にも愛されやすいことが正しくて、誰にも好かれないこと、誰にも愛されないことは罪深いことだ」的な価値規範を内面化している、ということに他ならない。

 

昔、家父長的な規範が社会と個人のなかに濃厚に漂っていた時代には、価値規範といえば「男の子は勇ましくあるべき」「女の子は清く正しく美しくあるべき」みたいなものが優勢だった。そうした価値規範を社会が信じ、個人も信じていた当時は、そこからはみ出た人間は葛藤や罪責感に悩まされたという。

 

その後、戦後のゴタゴタとか、リベラルを推進する人達の努力とか、色々なことがあって、家父長的な規範意識は消え去った。「消え去った」といって語弊があるなら「希薄になった」とでも言い直しておくべきか。ともあれ、中性的な顔立ちの男性がタレントとして活躍しても葛藤せず、ヤンチャで活発な女性が社会で活躍しても罪責感に悩まされることのない時代が到来した。それはいいことだと思う。

 

だけど、人々に葛藤や罪責感をもたらす規範意識が消滅したわけではなかった。「誰とも仲良くできること」「誰にも愛されやすいこと」が新しい規範意識として台頭しはじめた。まず、1980年代には女子が、90年代のある時期からは男子が、そのような規範意識に浸食されはじめた。やんちゃな女子も、虚弱な男子も、それほど葛藤や罪責感やコンプレックスを募らせなくても構わなくなった。けれども、コミュニケーションできない男女、不特定多数と仲良くなれない男女は、そんな自分自身を責めなければならなくなってしまった。

リンク先の増田は、そうしたコミュニケーションできる事を良しとする価値規範の、熱心な信者のようにみえる。コミュニケーションが不得手にも関わらず、「コミュニケーション能力があることは良いこと」「誰とでも仲良くできること、誰にも愛されやすいことは正しいこと」という規範意識がガッチリとインストールされている。自分にフィットしていない価値規範を強烈に信じる信者は、自分のことを背教者とみなすしかないわけで、これは二重苦である。彼はコミュニケーション能力の不足によって実利面で困るだけでなく、「この背教者め!」という内心の声にも葛藤しなければならないのである。

■自分に内在する規範意識と、どう折り合っていくか

 

件の人物に限らず、今日では、そうした「コミュニケーション能力がなければならない」「誰とでも仲良くできることは正しいことである」的な規範意識は、広範囲に流通し、かなり多くの人に内面化されている。そして、個人の行動原理をすっかり支配している場合も多い。

 

それがいけない、と私は言いたいわけではない。

 

けれども、そうした規範意識に束縛され、その当否ばかりに心奪われて人生を過ごすのは、いかにもしんどいような気がしてならない。そりゃ、コミュニケーションできたほうが便利で有利な場面は多かろうし、社会もそれを求めがちだ。だけど、それを融通のきかないかたちでインストールした挙句、踏み出せない葛藤に嵌まり込むのも、SNSから降りられなくなってヘトヘトになってしまうのも、どちらもラクな生き方ではなかろう。そういった、自分の内面にへばりついた規範意識の融通性について、一歩メタな位置から振り返っておく作業も必要なのではないか、と私は思う。

 

私はこれまで、「コミュニケーション能力が足りない人は、頑張って出来るようになりましょう」的なことをブログに書くことが多かった。現代人の社会適応にとって、コミュニケーションのための諸力が大切なのは確かだから、間違ったことを書いたつもりは無い。ただ、今にして思えば、「コミュニケーション能力にまつわる規範意識」を問題視して来なかったのは、片手落ちだった。自分自身に内面化された「コミュニケーションせよ」という価値規範に束縛される度合いもまた、同じぐらい重要だった。たぶん、規範意識に束縛される度合いが強い人は、たとえコミュニケーションがそこそこ出来るようになっても、必死になってコミュニケートし過ぎて、やっぱりパンクする。コミュニケーションの修練も大切だけど、「コミュニケーションを上手くできなければならない・皆とうまくやれる人間でなければならない」的な規範意識と折り合っていくのも同じぐらい大切。

*1:もちろん、それはそれで困った人である

(2014年2月7日「シロクマの屑籠」から転載)