『君の名は。』を観たら『秒速5センチメートル』の呪いが解けた

『君の名は。』をキモいと言っている人達は、『秒速5センチメートル』を視聴したらあまりのキモさと(主人公の)身勝手さに口から泡を吹いて卒倒するしかない。

『君の名は。』の作中には、「糸を繋げることも結び。人を繋げることも結び。時間が流れることも結び。」というセリフが登場する。

作品理解の鍵のようなセリフだが、これは、世間一般にも適用できるものだろう。

で、私自身の場合、である。

私は新海誠監督のファンではない、ないはずだが、過去に『秒速5センチメートル』という作品を観て、自意識がこんがらがってしまった。

アニメを観ることも結び、アニメに影響を受けることも結び、時間が流れることも結びだとしたら、私にとっての『秒速5センチメートル』はめちゃくちゃにこんがらがった、呪わしいけれども愛おしい糸だったと思う。

『秒速5センチメートル』については、ラノベ評論家・前島賢さんが心に響くレビューをされている*1。

前島さんは、

新海先生以外の誰も口にできなかった、あるいは言葉に、形にできなかった欲望を作品として表現したという意味では文学的で、大勢のこじらせ男子(評者含む)の蒙を啓いたという意味で、革新的。そしてそんなニッチな欲望の受け皿になってくれる唯一無二の存在。それが『秒速5センチメートル』なのだ......と思う。

とおっしゃっている。まったくその通りだと思う。

ところが私は、そんなこじらせ男子の、ニッチな欲望の受け皿たる『秒速5センチメートル』に心酔してしまったのだ!!

映画館で『秒速5センチメートル』を観た時、私は圧倒された。とても美しくて心に残る、忘れられない体験をしたと感じた。

だが、やがて私は気づいてしまう。この美しいアニメの美しさとは、こじらせ男子の自己陶酔を徹底的に美化したものだったということに。

前掲のレビューで前島さんは、以下のようにも書いている。

しばしば新海誠は「遠距離恋愛」「引き裂かれた恋人たち」をテーマにした作品を撮ってきたと言われる。しかし本作『秒速5センチメートル』に触れれば、実際に彼が描き続けてきたのは、そんな綺麗なものではないことは一目瞭然だ。

彼の本当のテーマは、少年の日の恋をいつまで経っても引きずり続ける男の未練......というもっとどろどろとしたどうしようもないものである。しかも、新海誠は、本来否定されるべきそれを、何か尊く、綺麗なものとして堂々と描き出す。

『秒速5センチメートル』において、尊く綺麗なものとして描き出されている「本来否定されるべきそれ」とは何か。

私個人は、それはナルシシズムだと思っている。

『秒速5センチメートル』で描かれる世界は美しいが、それは少年時代の恋の思い出が美しいだけではない。未練に溺れたこじらせ男子の自己陶酔までもが徹底的に美しく描かれている。新海誠監督は、主人公・遠野貴樹のナルシーな心象風景と、それにシンパシーを感じてしまうこじらせ男子のナルシシズムを、過剰なまでに美しく仕上げてしまった。

これが一種のリトマス試験紙になっていて、ナルシーなこじらせ男子には心地良い感触を、そうでない大多数には気持ちの悪い感触を与える作品になっているのだろう。

で、私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまったわけだから、試験反応は陽性である。俺はナルシーなこじらせ男子だったのか!

嫁さんから頂戴した「『秒速5センチメートル』はヘタレ男子アニメ」「自己憐憫はもうたくさん」というコメントも、私の自意識を焼き払った。ギャー!!

しかし自意識の痛みも長く続けば愛らしくなってくるもので*2、私は『秒速5センチメートル』が病みつきになってしまった。世間一般の、とりわけ女性にはキモくてしようがないであろう欲望を自覚しながら、それを後生大切にせずにいられないとは!

本当に呪わしいのは、作品ではなく私自身ではないか?

そんな事を考えながらも、結局、作品と、作品が好きな自分自身に溺れてしまう。この構図も『秒速5センチメートル』の鏡像めいていて、最高にキモ気持ち良い。おええぇー!

そんな私にとって、『君の名は。』は迫りくる脅威だった。

「ぼくのだいすきなキモ気持ち良い作品」が、時流と知名度に押し流されてしまうのではないか。そういう愚にもつかない怯えを抱えながら、私はおずおずと映画館に向かった。ひどい煽り文句のポスターができあがった後のことである。

公開からだいぶ経っているにも関わらず、平日の夜の映画館はほぼ満席だった。客層は、お年寄り夫婦からファミリー層までさまざまで、若いカップルは意外と少なかった。きっと、若いカップルはとっくにこの作品を視てしまっているのだろう。

はたして、不安はほとんど最高のかたちで裏切られた。

難癖のひとつでもつけてやろうと思っていられたのは最初の主題歌の少し後くらいまでで、そういう気持ちは吹き飛んだ。テンポが良いうえ、目に焼き付けなければならないもの、耳に入れておかなければならないものが多すぎて、ものすごく忙しかった。二時間弱の映画が三時間ぐらいに感じられた。とにかく夢中になっていた。

ベタベタな展開と言う人もいるだろうし、タイムテーブルに粗があるように感じられたが、それがどうした!

ベタベタな展開でも良いものは良いし、タイムテーブルについての考証は余所の人に任せておけば良いのである。考える前に、まずは楽しまなくては!

『秒速5センチメートル』に相通ずるエッセンスが豊富だったことには痺れた。

電車の乗り継ぎ。

駅。

戸口。

東京と田舎。

携帯電話。

幻想的な宇宙。

雪の降る大都会の夜。

そして、忘れられない人を探し続けるというテーマ。

『君の名は。』は『秒速5センチメートル』とだいぶ違う作品だし、なにより、キモさが断然違う。

まあ、この『君の名は。』にもある程度のキモさが宿っているけれども、『君の名は。』のキモさなど、『秒速5センチメートル』のキモさに比べれば穏当きわまりないのであって、『君の名は。』をキモいキモいと言っている人達は『秒速5センチメートル』を視聴したらあまりのキモさと(主人公の)身勝手さに口から泡を吹いて卒倒するしかない。

にも関わらず、演出やカットや展開には共通する要素がたくさんあって、しかも、そのことごとくが独りよがりなキモさではない方向へ、もっと健全で双方向的で安心して視ていられるような方向へコンバートされていたのだった。

最後まで観た後、私は「おめでとう!」と言いたくてしようがなくなった。

「おめでとう!」と言いたかった相手は、作中の瀧と三葉に対してだったかもしれないし、生き残った街の人々に対してだったかもしれないし、新海誠監督に対してだったかもしれない。いや、『秒速5センチメートル』の呪いに縛られ、そのくせ酔い痴れていた自分自身に対してだったのかもしれない。

いずれにせよ、00年代の、こじらせ男子ナルシシズムのキモくて仕方のなかったエッセンスが、こうやって立派な姿に生まれ変わって、カップルや高齢者にも安心して楽しめる作品として愛好されていることが、私には嬉しくて仕方がない。

これもまた、「糸を繋げることも結び。人を繋げることも結び。時間が流れることも結び。」の賜物と言えるのではないだろうか。

私自身は、『秒速5センチメートル』以来の自縄自縛から解放されて清々しい気持ちで映画館を出ることができた。新海誠作品と私をつなぐ結び目もだいぶマトモなものになったと思うし、臆病な気持ちで封印した何本かのDVDを視る勇気も得られたように思う。瀧と三葉がお互いを忘れず探し続けてくれて本当に良かった。

おめでとう!そしてありがとう!

*1:小説版について、だが

*2:この発想自体も自己耽溺だからどうしようもない

(2016年99月27日「シロクマの屑籠」より転載)

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