私は、弾劾のプロセスとネットの性質に戦慄したんですよ

マスコミをマスゴミと呼ぶ人がいます。確かにマスコミはモンスターかもしれない。でも、インターネット、それも名も無き思念が無数に集まった地縛霊としてのインターネットも、それはそれで恐ろしいモンスター、あるいは「地脈」じゃあないですか。

昨日の記事にいろんなコメントがはてなブックマークtwitterで集まっているので、補足……というより、大事なことだと思うのでもう一度書きます。

断っておきますが、今回の佐野氏の件はグダグダ&問題だらけにみえ、すでにエンブレム使用中止が決まった今だからあえてインターネット上に書くと、「こんな庶民感覚からズレて、胡散臭いデザインなど消えてしまえ」と私個人は思っていました。佐野氏の迎えた顛末は自業自得な部分を多く含み、結果として、大会運営者の姿勢にも疑義を突きつけるものになったとは思っています。この個人的感想は以下を説明する前振りとしてここに書きましたが、本件が騒動になっている間、オンライン上に吐露しないよう意識していました。

私はエンブレム中止や佐野氏自身に戦慄したのではなく、弾劾のプロセスとインターネットというメディアの特質に戦慄したんですよ。

デモやストライキのような手続きを取らず*1、署名活動のような手続きを行ったわけでもない。そういうの一切抜きに、ネットでこだましている声が増幅しあい、勝手に繋がり合い、ひとつのイシューに深いメスを入れる――そういう一連のプロセスを怖いと感じたんです。そんな事態を引き起こす現在のインターネットアーキテクチャもおっかない。手続きを踏むことなく、なんら責任の所在も主語も明らかでもなく、これほど簡単に大きな“世論”ができあがるのかと。

本件は、ネットが無い時代でもかなり燃えたんじゃないかと思っています。とりわけ、ある種の週刊誌やワイドショーを賑わせたには違いない。でも、これが1980年代の出来事だとしたら「ある種の週刊誌やワイドショーを賑わす」以上の延焼はしなかっただろうし、国際イベントの決定プロセスをひっくり返すこともなかったんじゃないかと私は思っています。

マスコミをマスゴミと呼ぶ人がいます。確かにマスコミはモンスターかもしれない。でも、インターネット、それも名も無き思念が無数に集まった地縛霊としてのインターネットも、それはそれで恐ろしいモンスター、あるいは「地脈」じゃあないですか。それに、幾つかの週刊誌や幾つかの番組には、それぞれの格付けに応じたコンテキストがあり、およそ“世論”とはみなされないモノも存在します。なによりマスコミ各社は、不十分かもしれないにせよ、社会的道義的責任を問われる立場を含んでいるわけです。

ところが今回の件をはじめ、不特定多数が集まって増幅しあうインターネット上の“世論”には、そういったものが存在しません。結果として善をなすこともあるかもだけど、同じように悪だってなすかもしれないし、場をぶち壊しただけでフォロー無し、ということもあるでしょう。昔話に出てくる気まぐれな神様みたいですね、ネット世論とは。

でも、そういう思念の集まりみたいなものが公のメディアっぽくなったインターネット上を跳梁跋扈し、大鉈を振るうのは恐ろしいことではないでしょうか。荒魂(あらたま)のごとき集合無意識に、酔った目でリツイートした言葉や、面白がってシェアした言葉までもが吸い込まれ、のっぺらぼうなクラウドジャイアントの一素子になってしまうんですよ? それとも今日日のネット作法では、そういう集合無意識に身を委ねて、ある種の全能感に満足するのが流行なんでしょうか?

居酒屋で「あのデザインクソだよねー、ボツになればいいのに」と呟いても、その場限りの居酒屋談義で、じきに消えていくものです。

石版に「あのデザインクソだよねー、ボツになればいいのに」と刻印しても、よほど暇な人でなければ同じ文字を書き写しはしないでしょう。せいぜい、石版のまわりで「そうだそうだ」と呟く人が現れるだけ。

だけど(現在の)インターネットは違う。「あのデザインクソだよねー」も「あいつ死ねばいいのに」も、リツイートやシェアやまとめサイトによって、簡単に増幅して、繋がりあってしまう。自分の端末から放たれた言葉がマジでもネタでも暇つぶしでもお構いなしに集積していって、殴られたら痛そうな権力のクラウドができあがっていくのです。それもまあインターネットの可能性のひとつには違いないけれども、その可能性が、人が人を弾劾し排除するようなデリケートな問題でさえ、さしたる手続きもないまま跳梁していく状況が、私には恐ろしい。

これって、間欠的にネットに沸き起こる権力の塊がぜんぜんコントロールされていないってことですよね?インターネットに生まれては消えるクラウドの巨人が野放しになっているんですよ。こんなのは、第一級の悪人を懲らしめる場合でさえ、現代国家の道理として褒められた現象とは思えません。なんとかならないものですかね?

「一対一で批判する」や「一対多数で批判をする」ならともかく、「皆でひとりをフルボッコにする」的な案件では、私は、ことの正否だけでなく手続きの正否にもある程度意識を差し向けるのが望ましいと思っています。けれども今日のネットには、ことの成否ばかり意識し、手続きの正否に意識を差し向けない、そういう人もたくさんいるようです……それじゃあ「悪い人間なら、裁判抜きで吊し上げたって構わない!」と大同小異じゃないですか。居酒屋や床屋でそういう事を喋り合うのは、まあいいでしょうけど、ネットでそういう声が繋がりあい、入道雲みたいに成長した挙句“世論”とコネクトしちゃうのは、ぜんぜん話が違うでしょう?で、その違いによって意想外なパワーが生み出され、のっぺらぼうなパワーがうろつきまわっているわけでしょう?

私は、自分のことをそれなり野蛮な人間だと思っているけれども、インターネットという、従来の話し言葉や書き言葉を超越したメディアに接する際に、どこまで自分自身の野蛮性を投げ出して構わないのか、いよいよ考え込むようになりました。「罰せられるべき相手ならば、私達はネット上で煉瓦を投げつけたって構わない」って発想、あまりにも単純過ぎませんか。

(2015年9月3日「シロクマの屑籠」より転載)

注目記事