あなたは「正しい親」をイメージできますか

私は、二十代の頃はイメージできたつもりでいたけれども、年を取るにつれて、また、多種多様な親のありかたを見て回るにつれて、だんだんイメージがぼやけるようになってきた。

あなたは「正しい親の姿」をイメージできるだろうか。

「正しくない親」「毒親」をイメージすることは容易い。

子どもを一人で置き去りにする親は正しくない。

子どもに体罰する親も正しくない。

子どもの教育に無頓着な親も正しくない。

不規則な生活や偏った食事に無頓着な親も正しくない。

どこかの親にこうした兆候を見てとった時、その親を「正しくない親」「毒親」と指摘するのは簡単である。もっと正しい親になりなさい。間違いを改めて親として適切に行動しなさい。お前はそれでも親なのか!

しかし、そうやって「正しくない親」を糾弾した後、「じゃあ、正しい親ってどんな親ですか?」と突き詰めていくと、正しさの権化のような、これもこれで人間離れした親のイメージが連想されることになる。

正しい親は子どもを一人で置き去りにしない。

正しい親は体罰をしない。

正しい親は教育熱心である。

正しい親は、子どもの生活リズムや食事に気を配る。

これらのセンテンスをひとつひとつ読み上げるぶんには、「そのとおりでございます」というほかない。だが、いついかなる時もこれらのセンテンスどおりに振る舞える親だけが「正しい親」だとしたら、いったい何%の親が合格点をいただけるのだろうか。

ここに書いてある「正しい親」を一日だけ、あるいは三日だけ続けることはそれほど難しくない。だが、親というのは365日、いついかなる時も親なわけで、晴れの日も雨の日も「正しい親」たるべく務めなければならない。親自身が憔悴しきっている時にもこれらを寸分たがわず守り抜くのは、なかなか簡単なことではない。

ところが今時分は「毒親」や「児童虐待」といった言葉が流行っているので、365日のうち1日か2日でも「親としてふさわしくない言動」が他人に観察されても、「親失格」という印象を与えてしまう。いや、誰も見ていない時には自分自身はそれを見ているので、そんな自分自身に「親失格」という烙印を押してしまう人もいる。

実体験を欠いた「正しい親」は、字面どおりの正しさに拘るしかない

思うに、「正しくない親」や「毒親」を勇ましくバッシングしている人達のなかには、「実物の、まあまあ正しい親」が実体験に欠如しているからこそ、「正しい親」のイメージを字面どおりに受け取るしかなく、したがって、現実の親にはあって然るべき瑕瑾にも反応してしまう人が混じっているのではないだろうか。

「私はひどい子育てを受けた」と思っていて、なおかつ子どもを育てる側に回ったことのない人達が、「正しくない親を吊し上げろ!」って声をあげるのは、まあ、わかるような気はする。「実物の、まあまあ正しい親のイメージ」を実体験として知り得ず、観念や論説として記された正しさを知っている人にとっては、「正しい親」とは、混じりけのない親イメージとならざるを得ない。

実際には、好ましい親にも清濁あわせ持った人間ならではのムラっ気や歪みが含まれているのが当然なのだが、幼少期から親のムラっ気や歪みに悩まされ、それを憎みぬいている側からすれば、「正しい親」にムラっ気や歪みが含まれて構わないとは認めがたいだろう。

自己愛研究で名高いハインツ・コフートという精神科医は、「最適な両親とは“最適に失敗する”両親のことである」という言葉を残しているが、私もそのとおりだと思う。子育てを上手くやってのける親とは、字面どおりに「正しい親」ではなく、ムラっ気や歪みが許容可能な範囲の親であったり、自分自身の短所や欠点があってもどうにか問題に発展しなかった親が、事後的に認定されるものでしかないのではなかろうか。

むしろ、「いついかなる時も正しい親」がいたとしたら、それもそれで子どもを窒息させるような存在であり、家庭環境はエキセントリックになるのではないだろうか。

「ムラっ気や歪みを併せ持った親」を巡る実体験には大きな個人差がある。自分の親が許せず、ムラっ気や歪みに始終脅かされていた人が、現実的な親の実像を知らぬまま、「いついかなる時も正しい親」的なものを求め、そうでない養育者に怒りに近い反応を差し向けるのは“仕方のないこと”ではある。

だが、その“仕方のなさ”が大きな声となってメディアに降り積もり、結果として「まあまあ正しい親」の実態と「正しい親」のイメージのギャップを大きくすることに一役買っているとしたら、それは本当に「毒親」を減らし「正しい親」を増やすことに役立っていると言えるのだろうか。

「毒親」や「正しくない親」をくまなく探し、“異端審問”にかけるのは容易いし、「正しい親」を観念や論説として知る人には、それこそが社会正義に適ったこととうつるかもしれない――「悲劇は私だけで十分だ」。だが、観念や論説どおりの「正しい親」をとことん親に求め、遂行させるような世の中ができあがったとして、それで本当に親子関係は救われるのだろうか。そういった「正しい親」を過剰に求める社会風潮自体も、これはこれで今日的な病理性を孕んだ息の詰まりそうな何かではないだろうか。

あなたは「正しい親」をイメージできますか。私は、二十代の頃はイメージできたつもりでいたけれども、年を取るにつれて、また、多種多様な親のありかたを見て回るにつれて、だんだんイメージがぼやけるようになってきた。

今はせいぜい、「いくらなんでも、これはまずい」と思えるような、明確な反例を挙げて、ああなっちゃいけないなと思うのがせいぜいである。とことん正しくない親を挙げることはたやすいが、とことん正しい親をイメージするのは難しい。

(2017年2月17日「シロクマの屑籠」より転載)

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