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誰が・どこまで「個性」を求めているのか

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世間では、いまだに「個性」という言葉が肯定的に語られている。これについて、ちょっと頭のなかを整理したくなったので、以下にメモってみる。
 
1.ほんらい「個性」と呼べるものは、あっちこっちに見つかるものでも、あっちこっちで適応できているものでもないと思う。個性の強い人間は個性が強いぶん、特別な環境や特別な状況で本領を発揮するのであって、どこに行っても適応できるような人間は個性的ではないはずだ。

たとえばニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法を出版したid:phaさんはとんでもなく個性的だと思うが、彼が適応できる環境はおのずと限られると思う。
 
個性的な人間が、その個性を生かし、個性を伸ばしているとしたら、そいつがいる環境や境遇自体も個性的であるはずだ。ありがちな環境・ありがちな状況にノウノウと適応している人間が個性的である確率はあまり高くない。珍しい環境、ユニークな状況に最適化されている人間こそが個性的と呼ぶにふさわしい。
 
ただし、ありがちな環境を定義するのは意外と難しい。すべての社会環境は、それぞれに特化する限りにおいて珍しい環境、ユニークな状況たりえる。ひとつの環境・ひとつの状況に焦点を絞って徹底的に特化すれば、一見、ありがちな環境・ありがちな状況に適応しているようにみえて、非常に尖った個性ができあがることがあり得る。個性が尖っているか/ありがちかは、焦点の定まり具合の問題であり、特化の程度の問題でもある。
 
 
2.就活採用の際に「個性」なるものを売り物にする人材とは、学生時代の境遇や職歴がユニークで、ある種、つぶしのきかない特化要素を含んだ個人のはずである。「かくかくしかじかの環境・状況で最高のパフォーマンスを叩きだす焦点の絞られた個人」でなければ、本当の意味で個性的とは言えない。
 
だが、そのような真正な「個性」を、どこまで企業/個人は求めるだろうか。
 
つぶしのきかない人間、特定の環境に焦点を絞った人間を、企業は、個人は志向するだろうか。そのような人間を選ぶ/そのような人間を目指していくのは、流動性が高くテクノロジーが日進月歩な現代社会においてハイリスクな行為でもある。そのハイリスクを選ぶ勇気を、企業は、個人は、持ち得るだろうか。
 
対して、企業側としては汎用性の高い個人を選び、個人の側としても汎用性の高い自分自身を目指していったほうが、ローリスクで手堅い成果が得られるのではないか。汎用性の高いコミュニケーション能力を持った、「どこでもうまいことやれる人間」「量産型ザクのような人間」のなんと使いやすいことか!
 
次々に転職していくことが当たり前になった社会においては、新しい環境に次々と適応することが個人に求められるし、企業側もまた、流動性の高い人的状況に適応するべくそのような個人に頼らざるを得ない。強烈な個性Aの新人が一人入ってきたら即座に不適応に至ってしまうような強烈な個性Bを持った社員を抱えるのは、企業にとって難儀だし、働く個人自身にとっても難儀だろう。
 
「それでもあなたは、個性的たろうと覚悟できますか」
 
あるいは、個性Aなり個性Bなりを所持しているとしても、それを活かすためにはコミュニケーション能力にリソースを割かなければならない。次々に転職していく人間がコミュニケーション能力に"ステータスを振り分けない"なんていうのは困難なことだ、いついかなる時も尖った個性を活かすためには、没個性な汎用コミュニケーション能力に"ステータスを振り分けなければならない"矛盾! 

人的流動性を前提に入れながら何かに特化する場合は、"ステータス全振り"するほどには、個性をとがらせることはできない。
 
 
3.また、個性は一朝一夕には完成しない。もちろん思春期の段階でガラスのように尖った個性というのは、ある。だが、個性がより個性的であるにはゲーム『Skyrim』でひとつの技能にだけpeakを振り続けるような、ある種の持続性が必要不可欠だ。

持続的に個性を彫琢できず、コミュニケーションやら世間やらに呑まれてしまった人間は汎用コミュニケーションユニットとしての性質を増すことこそあれ、個性を伸ばすには至らない。もう一度『Skyrim』の比喩を使わせて頂くなら、さしづめ、話術やら何やら中途半端にpeakを振ったキャラクターのできあがりである。
 
歳月を経てもなお個性的な個人、もっと言うと歳月によってますます彫琢されていく個性は間違いなく個性的だが、若さに任せて火花を散らしただけで個性と言えるのかは、よくわからない。若い個性の萌芽は愛らしいが、より深く、より強い個性へと完成させていくためには、それ相応の環境・状況・リソースが提供され続けなければならない。

たくさんの個性の萌芽が、世間に呑まれて、なだらかになっていく。それがいけないとは私は思わない。それもまた適応であり、原則としては、適応できないよりは適応できたほうが個人は不幸せを免れやすい。
 
このような「個性の完成には時間がかかる」事実と、昨今の即戦力志向には、相容れないところがある。企業の側だけでなく就職する新人の側もまた「"ボール拾い"や"雑巾がけ"からキャリアをスタートする」心づもりは無い。

成果主義がインフレしまくった結果として、企業も個人も一刻も早く「成果」を手に入れたがっているから、数年後に個性と呼べるものが開花することを見越して人を育てる/自分を育てるのは容易ではない。必然的に、「成果」と呼べるものを積み上げてできあがるタイプの「個性」だけが生き残っていくことになる。
 
それもまた、「個性」には違いない。だが、そのような「個性」が優先的に生き残る場で、数年越しに個性を磨き上げ完成させていくタイプの「個性」をつくりあげるのは容易ではない。逆に考えると、そのような年単位で彫琢される「個性」を磨き上げることに成功した人間は、他の人間が持ち得ないものを持てるかもしれない――あるいはそれが、ガラパゴスでしか通用しないたぐいの「個性」だとしても。
 
 
4.こうやって考えると、今、誰が・どこまでの「個性」を求めているのかが怪しく感じられる。表向きとして個々人の「個性」はあったほうが良いことになっているが、個人も、企業も、あるレベルを超えた尖った「個性」など求めていないのではないか。表向きの言葉どおりに「個性」を求めてガラパゴスイグアナのような「個性」になってしまっても、誰も喜ばないのではないか。
 
だとしたら、飛び交っている「個性」という言葉の内実は?
 
たぶん、ガラパゴスイグアナのような「個性」をつくりあげた個人も、そのような「個性」を必要とする企業も、相当に個性的なのだろうと思うし、両者が出会えるなら幸福である。

問題は、個人と個人、個人と企業が結びつく手段がコミュニケーションによってのみ定まってしまう社会においては、個人の側も企業の側もコミュニケーションという鎹にステータスを振らなければ、そのような出会いは生じない。

さりとてコミュニケーションにステータスを振ってしまえば、さきに述べたとおり「話術やら何やら中途半端にpeakを振ったキャラクター」ができあがってしまう。
 
ガラパゴスイグアナを育てることも難しいが、彼/彼女に適切な活躍の場をマッチングさせるのも難しい。マッチングの場にのぼるためにはコミュニケーション能力が(個人にも、企業にも)どうしたって求められる。難儀である。
 
そろそろ時間なので今日はこれぐらいで。また考えよう。

(2016年6月13日「シロクマの屑籠」より転載)