自意識の牢獄。どぎつい生。

執着に束縛され、自意識に束縛されているがゆえに、普通の人が耐えきれないような人生に耐えてしまったり、とんでもないスキャンダルに突き進んでしまったりもする。

40歳になっても自意識の牢獄から抜け出せない女性。凄絶である。

ふたつめのリンク先で示されているように、ひとつめのテキストが実在の人物か否かはさしたる問題ではない。それより、この「おはなし」が沢山の人の感情的反応を呼び起こしたこと・一定のリアリティが感じられることに意義があるのだろう。

40歳にもなって他人との比較に終始し、自分より上か下かに汲々とする自意識が牢獄めいているのは、そのとおりと思う。このような人生を歩む人は男性にも女性にもいて、何歳になっても優越感ゲームがやめられない。周囲の人の眉をしかめさせることも多い。「自分より上か」「自分より下か」という視点をあまりにも強く内面化しているので、人をみる時にも、店舗やコンテンツをみる時にも、常にそうした考えに束縛されている。

長らく私なんかの話を読んでくださってありがとうございます。23歳のとき東京に出てきてから、17年間をこの東京で過ごしてきて、40歳になりました。これを読んでくれてる方の中には、若い女性もいますよね?あなた、私のこと、どう思ってますか?

「イタい」って見下していますか?「あんな風には、なりたくない」と反面教師にしていますか?もしくは、自分と関係ないおばさんの話を、笑っているかもしれませんね。

その感情覚えていてください。

それは、そのまま、あなたが10年後、若い子たちから向けられる感情ですから。若い女性の年上の女性を見るときにうっすらと感じる優越感は、いずれ世代交代していくんです。部下の女の子と話すときの笑顔の奥にある、老いへの畏怖と、蔑みの感情、私はちゃんと透けて見えています。だって、もともと私の内側にあった感情ですから。

http://shiba710.hateblo.jp/entry/2015/11/09/080000

もし、この文章を読んで「当然の考えだなぁ」と思ったら、要注意である。あなたもまた自意識の牢獄の囚人である可能性が高い。なぜなら、この文章の根底には「私は優越感に基づいて人間を評価している。だから、あなたがたも当然同じような優越感に基づいて人間を評価しているはずだ」という固定観念が存在しているからである。

「そうやって年下の女性が年上の女性を見下しているのは、世間の女性全般じゃなくて、あなた自身じゃないんですか?」

「それは、あなたがそうだと決めている世界じゃないんですか?」

現実の女性のなかには、年上の女性にも相応のリスペクトを払っている人もいるし、年上の女性のなかには年下の女性には無いアドバンテージに自信を持っている人や歳月の積み重ねに満足している人もいる。若い女性すべてが若さに驕って年長女性を哀れんでいるわけでもないし、年上女性のすべてが自分自身の加齢にコンプレックスを感じているわけでもない。ところが、そうした価値観を強く内面化している人にはそれがわからない。優越感ゲームや見下しの視線があまりにも内面化されているから、世界がそのようにしかみえないのだ。優越感という色眼鏡ごしにしか世界をみることができない人達。

だから、この手の人物が優越感ゲームを放棄しようと思っても、なかなか簡単にはいかない。たとえ仏道にすがろうとしても、その仏道というフィールドで似たような優越感ゲームを繰り広げてしまったりもする。優越感という色眼鏡を外せない限り、その人の世界観は変わらない。もしそれで本人が人生を苦しいと感じているとしたら、不幸な状況だと言わざるを得ない。

■ どぎつい執着・どぎつい生

こうした執着の無間地獄のような有様を、心理学的なレトリックで否定的に評してみせるのはたやすい。だが、それだけだろうか?

自意識の牢獄に限らず、深く内面化された執着に振り回される人生は、端から見ていて苦しげで、常軌を逸していると感じられる。ときには迷惑ですらある。だが、このようなメンタリティがなければ達成できないこと・生きられない人生もまたあるのではないか。

執着の深い人の人生は、ときに、どぎつい。

執着に束縛され、自意識に束縛されているがゆえに、普通の人が耐えきれないような人生に耐えてしまったり、とんでもないスキャンダルに突き進んでしまったりもする。たとえば瀬戸内寂聴さんなどもその一人かもしれない――仏道に入ったからといって、あの人の人生からどぎつさが失われただろうか?

そして瀬戸内寂聴さんほどではないにせよ、並々ならぬ自意識を背負ったまま、ジェットコースターのような人生をおくる人は決して珍しい存在ではない。それこそ、インターネットをはじめとするメディアの世界はそのような人達の百鬼夜行ではないか。

そのような人達が、こんにちのメンタルヘルス的な視点からみて、治療されるべき人達とみなされることもあるだろう――躁鬱病のような疾患概念に回収されることもあるだろうし、パーソナリティの問題を疑われることもあるだろう。現代社会の一般的な価値観念からすれば、それらは致し方のないことかもしれない。

でも、どぎつい人生には、どぎつい人生固有の値打ちがあるわけで。

40歳になっても自意識の牢獄から抜け出せない人は、一般的な価値観念からすれば悪いものかもしれないが、もし、本人がその境地を満更でもないと思っているなら、案外、悪いものでもなかろう。どんな人にも真似の難しい、絵の具を原色のまま塗りたくったようなどぎつい人生は、かりに太くて短いものであったとしても、当人が生ききっているなら結構なことだと私は思う。そのような人達もまた、この人間世界の多様性を担保する貴重な存在かもしれないし、現代社会の秩序や常識にとらわれている私達が忌避しがちな、人間の業の一側面を照らし出してくれる存在なのかもしれない。

私は、自分自身がどぎつい人生を歩みたいとは思わないし、だから自意識の牢獄に囚われている人を、しばしば「大変だなぁ」と思ってしまう。だが、この「大変だなぁ」という発想に、一種の"上から目線"が忍び込む瞬間、私という人間もまた一般的な世界観に囚われ、色眼鏡で人間を眺めていることを自覚せざるを得なくなる。そして、どぎつい人生を歩む人達に対し、私自身が思い上がっている部分があるのではないかと自分を戒めたくもなる。

私には絶対真似できない人生を歩み続けるあの人達の、あのギラつきは一体何だろう?

そういう人生だって世の中にはあって良いのだろう。繰り返すが、私はそのような人生を歩みたいと思わないし、現代社会の秩序のなかではどぎつい人生は苦労が多かろうとも想像する。だとしても、ときどき私は、そのような原色丸出しの人生に憧れや畏怖のような感情を抱いてしまう。

心理学的な説明で完結してしまう前に、まず私はそうした憧れや畏怖を受け止め、うろたえたいと願う。ともかくも、そういう人達もまた人間世界の構成要素なのだという事を、なんとなく思い出したくなったので、ここに書き留めておく。

(2015年11月9日「シロクマの屑籠」より転載)

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