シン・ゴジラを、「子どもに見て欲しい」と思った。

私は、この作品に登場する大人達の姿を子どもに見てもらいたい。

週末、シン・ゴジラをやっと見てきた。

「百聞は一見にしかず」とは言うけれども、本当に素晴らしい作品だった。何度も繰り返される会議も、自衛隊や米軍の勇戦も、ビルが崩れ街が燃えるさまも、すごく楽しめた。

私は特撮映画をそんなに見ていないけれども、新幹線や在来線がゴジラにぶつかる描写をはじめ、良い具合にデフォルメが効きまくっていて、ものすごく気持ち良かった。「怪獣が暴れるということ」「大型建造物が壊れるということ」がこんなに心地良かったなんて! 大量破壊シーンや戦闘シーンだけでも、映画のチケット代の元がとれたように感じた。

それ以上に嬉しかったのは、たくさんの登場人物がことごとく主人公に見えたことだ。物語の目立つところは政治家や科学者や自衛隊員達によって占められていたし、彼らの演技に目を奪われた。でも、お茶を入れるおばさん、ゴミを回収するおじさん、工業プラントを動かしている従業員、避難する人々、そういう人達もみんなゴジラと戦っているように私には見えた。

「ゴジラと戦っている」というより、「ゴジラという災難に対処する」と言い換えたほうが適切なのか。

あの、お茶くみのおばさんも、あのプラントで働いている従業員達も、避難する家族やお年寄りも、みんなゴジラという災難に対処していたのだ、それぞれに課せられた仕事や役割のなかで。そうした責務が無数に積み重なって、ゴジラという災難が克服されていった。

超映画批評の前田さんが「日本対ゴジラ」と仰っていたけれども、実際、そうだったと思う。少数の凄い人が活躍する物語ではなく、避難する人々も含め、みんなが主人公の、みんながヒーローの物語。みんながゴジラと戦っていた、いや、対処していた。

人智を越えた災難の前に人間は脆く、会議や承認を必要とする制度は後手に回りやすく、懸命の努力にも関わらず、たくさんの犠牲が出た。それでも、その限られた人間の力が無数に積み重なってゴジラという災難が乗り越えられていった。なんという人間ドラマだろう!

「シン・ゴジラは人間描写が薄口な作品」と言う人もいるかもしれないが、「みんな」に着眼して眺めるぶんには、十分すぎるほど人間描写の利いた作品だったと思う。私には、戦闘ヘリのパイロットの姿も、新しい避難場所を求める消防隊員の叫びも、逃げ遅れた家族も、「みんな」の人間模様を描写する壮大なジグソーパズルの一片とうつった。バラバラの個人がバラバラに頑張っているようで、この作品ではぜんぜんバラバラじゃない。

もちろん、みんなが主人公にみえるということ自体は一種のご都合主義だし、このようなご都合主義が気に障る人もいるだろう。なにより、私のメンタリティを反映した「個人の感想」であることは間違いない。

けれども、このご都合主義によって、少数の有能なヒーローが怪獣を打倒する物語とは一線を画した、私好みのフレーバーが生み出されているのは間違いなかった。個人の才能が活躍する作品も好きだが、こういう作品も痺れる。

「信頼できる大人の後ろ姿」としてのシン・ゴジラ

なにより私は、シン・ゴジラを子どもに見てもらいたいなぁと思った。子どもの手が届く場所に、こっそりDVDを仕掛けておきたい。

シン・ゴジラには、子どもには楽しみにくい要素が少なからずある。冒頭の会議ラッシュもそうだし、日米の駆け引きや科学サーベイのシーンなどもそうだろう。だから、シン・ゴジラを(たとえば)小学生が見たとして、どこがどこまで記憶に残るのかはわからない。

けれども、この作品に出てくる人々の懸命な姿、無数の主人公達が、粛々と責務を果たして難局を乗り切っていく姿は、子どもの記憶の引き出しのどこかに残って、何かの足しになるのではないだろうか。

私は、この作品に登場する大人達の姿*1を子どもに見てもらいたい。

子どもが現実世界で見知っている大人の姿は、汚かったり、情けなかったり、不信に満ちていたりするかもしれない。いや、それもまた大人の本当の姿だから、子どもが大人をそのように眺めること自体は否定されるものではない。

子どもは馬鹿じゃないから、大人社会の矛盾、不備、汚さを、かなり幼いうちから、どんどん読み取っているだろう。

けれども大人社会は、そういう汚くて至らなくって不信なものだけで構成されているわけではない。一見バラバラで利己的な個人も、ある部分では、社会のルールを守り、それぞれに課せられた仕事や責務をまっとうして生きている。

そうした個人の営みの集大成として、社会は一定の信頼と弾力性をもって維持されているし、難局に際しては、そういった「みんなが社会のなかで課せられた役割をどのように守っているのか」が問われることになる。

作中、「この国にはまだ優秀な若者がたくさんいる」という台詞が出てきたけれども、その優秀な若者を育てて支えているのも、一部の有能なヒーローやエリートだけではなく、市井の人々だ。親として子どもを育てているか否かに関わらず、それぞれがそれぞれに課せられた役割や責務をまっとうして暮らしていること、それ自体が「次世代を育てる」大前提になっている。

もちろんこれは原則論で、実際にはそれだけで上手くいかないし、事実、日本社会では子育ての困難な社会状況が深刻化している。それでも、次世代の若者が育っていけるのは、ありとあらゆる「みんな」が自分自身の役割や責務を守っているおかげだということは、忘れてはいけないのだ。

シン・ゴジラは、そういう「みんな」がそれぞれの役割や責務を背負って頑張っていること、そうやって社会が回っていることを、「良いこと」として描いた作品だった。結局それが、ゴジラのような災難に対処する土台になっていることを、力強く描いていたと思う。

どんな仕事にも役割があり、どんな人にも背負った責務があるということ、それを大人が守っていくことは基本的に良いことであることを、シン・ゴジラは思い出させてくれた。

大人のスキャンダルが耳目を騒がせがちな昨今、シン・ゴジラで描かれたような、それぞれが役割や責務をまっとうしていく姿は、理想にもほどがあるし、個人主義の思想に馴染まない部分もあるかもしれない。

だが、そういった部分を差し引いたとしても、汚さや不信に流されて見失ってはいけないものをシン・ゴジラはみせてくれたと私は感じたし、大人というものは、大人が役割や責任を引き受ける後ろ姿を子どもに示していかなければならないのだとも思う。次世代の成長は、シン・ゴジラに登場したような、懸命に役割や責務をまっとうする人々によって準備され、守られなければならない。

*1:いや、本当は子ども達もだ。避難場所で眠る子ども、疎開するバスに乗り込む子どもも、この作品の立派な主人公だ。

(2016年8月7日「シロクマの屑籠」より転載)

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