自分が目的語の恋愛観と、パートナーが目的語の恋愛観

そういえば、恋愛相談のたぐいで「自分に合わせてくれそうな相手」「自分を受け入れてくれそうな相手」を探しましょう的な文面を見かけるたびに、何かおかしいというか、違和感を覚えていたけれど、やっと言語化できそうなのでメモっておく。「自分に合わせてくれそうな相手」や「自分を受け入れてくれそうな相手」を探す発想は、探すという点では能動的だ。でも、いざ付き合い始める段になった時に能動的にならなきゃいけないのは、相手のほうであって自分ではない――そこのところは受動的だ。

そういえば、恋愛相談のたぐいで「自分に合わせてくれそうな相手」「自分を受け入れてくれそうな相手」を探しましょう的な文面を見かけるたびに、何かおかしいというか、違和感を覚えていたけれど、やっと言語化できそうなのでメモっておく。

「自分に合わせてくれそうな相手」や「自分を受け入れてくれそうな相手」を探す発想は、探すという点では能動的だ。でも、いざ付き合い始める段になった時に能動的にならなきゃいけないのは、相手のほうであって自分ではない――そこのところは受動的だ。少なくとも「自分に合いそうな相手を探す」意識ばかりが先行している人には、「自分がパートナーに合わせる」「自分がパートナーを受け入れる」意識は乏しいだろう。

でも、パートナーだって人間なんだから、一癖二癖あるのが人間の常。

相手に合わせて貰ったり受け入れて貰ったりするのも大切だけど、自分がパートナーに合わせること・受け入れることだって同じぐらい大切なはずだ。そうした相互許容や相互承認がなければ、燃え上がるような恋もたちまち冷めてしまうので、素晴らしい愛情関係どころか、平凡なパートナーシップだって長続きしないだろう*1。

だから、本来だったら「自分を受け入れてくれそうな相手」探しをするのと同じぐらい「自分が受け入れやすそうな相手」の話をするべきなのである。パパやママになってくれそうな相手を探すだけでは絶対にうまくいかない。仮に、理想に限りなく近い相手をみつけたとしてもそうだろう。自分がパートナーを受け入れて、支えになってあげることも必要不可欠で、そうした可能性、そうした技能について論議があってもいいはずだ。

ところが、まことに残念なことに、少なからぬ恋愛談義が――ときには結婚談義まで!――どうやって自分に合わせてくれそうな相手を見つけるか・どうやって自分を受け入れてくれそうな相手に選ばれるか……そんな話で占められている。なんというオレオレ主義!そりゃ、自分がかわいいというのはわかる話だし、私だって同じだ。皆もそうだろう。だが、かわいいのが自分だけで、受け入れられるべきが自分だけだとしたら、パートナーとは一体何なのか?マイ保育器だとでも言うのか?

失礼、テンションが高くなりすぎてしまった。

恋愛は、「俺がモテるかモテないか」「私を見て!私を選んで!」という視点で語られ過ぎていると思う。自分中心の世界観、自分が自分であることに拘り過ぎていれば、そういう見方に偏るのはわからなくもない。けれども、それは愛の片肺飛行とでもいうべきもので、半分だけ誇張したおかしな捉え方だ。恋も愛も相手あってのものである以上、もっと「あなたに」「この人となら」という視点が伴っていても良いはずだ――そうやって相手の幸福や発展を祈る成分が、恋や愛にあったっていいじゃないか。

それと、自分に合いそうな相手を見つけるだけが出会いの能じゃない。自分が支えやすそうな相手もパートナー探しの視野に入れれば、出会いの母数は大きくなる。倍まではいかなくても、間口は確実に広まるだろう。異性の評価軸も増えるし、もっと細かく考えるようにもなる。別に自分が幸せになるためだけに恋をしなくったっていい。相手の幸せを祈るために人を好きになったっていいし、振られたって構わないのである。

自分が目的語になる恋愛観や結婚観と、相手が目的語になる恋愛観や結婚観の両方持つこと。どちらも蔑ろにせず、調和を目指すこと。そういう当たり前の視点が抜け落ちたまま、「自分に合いそうな相手」や「自分を受け入れてくれそうな相手」ばかり云々して、妥協がどうこうと呻いていても、あんまりうまくいかないんじゃないのかな、と思う。恋愛も結婚もパートナーあってのものだし、パートナーの幸福と自分自身の幸福とは地続きのものだから。

(2014年5月19日「シロクマの屑籠」より転載)